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シリーズ・いのちを考える その2 伴侶動物(犬と猫)

あらゆる心身の痛みを伴う行為を極力回避する方向に文明は進んできた、と森岡正博氏はその著書「無痛文明論」で述べている。

かつて人が生きていくには、動物を殺す行為を直に見たり、行ったりしなければならなかった。                                                                                          その頃、動物の死は身近であり、人はその「痛み」を感じ、その死に対して、想像力を働かした。                                           それが文明が進むとともに、痛みを伴う行為を「悪」として身の周りから排除し続けてきた。合わせて、動物の死も遠ざけられ、隠蔽されていく。       

痛みを感じずに生きられるから、わが身に置き換えて痛みを感じる想像力すら失われて、私たちは次第に動物の死に対して鈍感になっていく。     だが、本当は痛みを感じることこそ、生の証であり、痛みを感じないのは生の実感を失くしていることに他ならない。

のちに、産業動物のところで、述べようと思うが、今の子供たちで、食事の際、肉を食べる時に、その犠牲になった家畜たちの死に思いをはせるものが、どれほどいるだろうか?                     時として、動物たちの死の意味を深く考えようとする大人がどれだけいるだろうか?
ただ、そういう世の中の無関心さは、単に産業動物だけではなく、私たちに最も身近な、犬猫を中心とした伴侶動物にも及んでいる。

私はここで、多くの専門家が問題提起していることについて、それをなぞることをしようと思わない。ここで述べるのは、ささやかだが、自身の経験と真摯に向かい合った自分なりの考えを述べる。私見であるがゆえに、意見の相違についてはお許し願いたい。

もう数十年前の事である。
私は地方の新聞社で取材の手伝いをしていた。
新聞社と言っても、ある財閥企業が主体となった、いわば、御用新聞で私の仕事は、その町でのイベントを紹介したり、町での小さな出来事をまとめるものであった。

ある日、動物愛護センターの慰霊祭があった。               保健所に持ち込まれて殺処分された犬猫を弔うものである。       それは毎年行われる恒例行事でその新聞にとっては、いわば、埋め草的な記事で、その年は私が駆り出されたのである。              

その日、私はいくつかの発見をした。というより、現実を知ったというべきだろうか。                                  センターに収容されている犬猫の大半は、当初の目的である野犬や野良猫の捕獲によるものではなく、飼い主によって不用となって保健所に持ち込まれたものであった。持ち込まれた理由は様々だったが、大抵は身勝手なものだった。                                 

センターには三つの檻があった。                     収容数が多くなれば、一つ目の檻から真ん中の檻へ移動され、次には最後の檻。                                  それまでに引き取り手がなければ、そのまま殺処分機へと送られる。                                  

写真を撮りながら、こちらを見つめ、何かを訴える多くの目が切なくて、私のささやかな良心が痛んだ。                      だけど本当にショックを受けたのは、それではない。           

慰霊祭のあと、センターの職員に簡単なインタビューをした。        職員の一人は、地域の安全と環境を守る仕事に誇りを持ちながらも、その仕事の詳細は、家族にすら告げていないという。              

徘徊犬がいるという通報を受けて出動すると、通報した人間は表に出てこない。学校に野犬がいるというので、行くと、子供たちの前では捕獲しないでくれ、と先生が言う。犬殺し、という露骨な差別用語を聞いたこともある。それでも、結局、誰かがやらなければならないこととして、毎日葛藤しながら、仕事を続けているのだという。                    

私は、その時、単なる可哀そうとかいう言葉では表せない複雑な動物愛護の多面性を見た気がした。                          そして、そういう人たちの苦労と葛藤の下、自分を含めて、現実には目をふさぎ、表面だけの「いのちの大切さ」を訴える人たちの、薄っぺらさが鼻についてきた。                            センターに犬猫を持ち込むのは、特別な人ではない。普通の人である。

それから、数十年が経った。                     その間に動物に関する法律も変わり、人々の意識も少しは変わって、犬猫の殺処分数は大きく減少した。                         一番大きな理由は現場が声を上げ始めたことだ。             殺処分0をうたった熊本市、横浜市を筆頭に自治体が安易に不用犬を引き取ることを拒絶するようになった。                     やむなく引き取った犬猫も里親を探し譲渡するという方向に力を入れ始めた。誠実な動物愛護団体も尽力した。

しかし、すべてが解決したわけではない。
今でも全国のどこかで殺処分は行われている。それでもやむを得ずそうするときには、少しでも動物たちの苦痛が少なくなるように努力していて、今も現場の葛藤はつづいている。

ただ、動物たちの死を隠蔽する社会のシステムが変わったわけではない。 確かに数字は改善したが、今度はそれとは別に「伴侶動物の死」に関するひずみも散見される。それはここでは述べない。

かつて総理府が行ったアンケートによれば、犬猫を飼って、よかったことのトップは、生活に潤いや安らぎが生まれる、というものだった。     それならば、飼い主は少なくとも終生飼養の原則だけは守って、大切なパートナーである犬猫たちが無益な処分をされることを防がなければならない。飼い犬、飼い猫たちの死を人に押し付けるような卑怯な真似をしてはいけない。

前置きが長くなって、今回は本題に入れなかった。次回は、もう少し具体的な話をしたいと思う。                                 ただ、一つだけ言えることは、一番身近な動物たちが生きにくい社会は、人にとっても生きにくい社会である、ということ、それだけは確かである。


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