珈琲の抽出は難しい様だ。確かに日本茶や紅茶とはまるで違う抽出方法。レストランのデザートの仕上げに珈琲を頂く。デミカップのシュガーレスには深い焙煎が似合う。
先ず普段の日常は低温の緑茶から始まります。これまでは緑茶に紅茶に珈琲のなかで私に一番解りにくい味覚は珈琲でした。近所で「青空焙煎所」と称して深煎り焙煎を旨として始めた人はその長年の経験から珈琲の味を引き出す豊富な話を聞かせてもらった。
日本茶としては、その旨味や微かな渋味や苦味や酸味が折り重なる事で美味しく感じていた私。しかし珈琲の味が解り辛く長年の不思議な疑問が解けそうです。それは、師走の寒風が吹く中で青空焙煎する愛好家の言葉から千載一遇のチャンスを心良く受け入れた。
最初は、先ず一粒ひとつぶの珈琲の「生豆の選別」を丹念にチョイスする事は、地味で且つ繊細な仕事。丁寧な手仕事で仕上げられた焙煎機を手に入れ自らの手で回している。大切な生豆の「爆ぜる音」を聞き分けながらの絶妙なタイミングがあるらしい。ここでは、深焙煎を旨としていてそこには、様々な蘊蓄がある様だ。温度や蒸らしの時間やドリッピングには、何だか凛とする瞬間がありその周りに芳醇な香りと琥珀色に輝くポット珈琲に見惚れていた。Prologue
◇ 昭和の時代に 謂わば数少ないサロン風な「珈琲ノヴァ」に好奇心だけで敷居を跨いだのです。
嘗て「Café nova」での珈琲には、浅煎り中煎り深煎りが有り、そこにはそれぞれの酸味 旨味 苦味 渋味とそれに加えて香りの違いを味わいました。そこに女主人の手造りのウエットでシットリ感の有る「シュトーレン」が添えられている。それは正に旬の代名詞ドライフルーツミックスとシナモン ナツメグ カルダモン グローブの香料とが熟成され薄切りにも関わらず量感に魅了されてしまった。私は勿論とでも云う深煎り派をこころざす事になる初期の記憶。
◇ 「珈琲ノヴァ」と云う名前の由来は知らない。
ここ「ノヴァ」の常連達は尋常じゃない雰囲気を醸し出していて、そこに私はジェラシーを感じていた。始めて頂くシュトーレンの香料の量感に魅了された。「良し私もいつの日かこのシュトーレン創ろう」と引き出しに収め気持ちを熟成させていた。
◇ ハンドメイドのサインボードへの想い
私は以前から気にしている「珈琲ノヴァ」の真横に近日オープンに間に合わせるべく屋外広告用のロゴのデザインをメインにしたサインボードのセッティングを只今準備中。その意味で「珈琲ノヴァ」と同業でもあるそんな「珈琲クスクス」。実は内緒だがノヴァとクスクスの間にもう一軒珈琲屋がある。詰まり三店舗のテナントは、珈琲屋さんでありカフェでもある。
しかしお客様と云うものは自分自信のヒエラルキーと云う概念を無意識に認知する力を持っていると云う余計な詮索は褒められたものではないが私は、その様な想いを深層心理に映しだしていた。
「珈琲クスクス」のサインボードの配線をやり終え点灯テストも終わったばかり。所謂ここは官庁街のど真ん中に近く、その周辺はマーケティングとしての動線価値レベルはけして悪くないと感じていた。旧びた外壁の一部分が朽ちかかった様なテナントビルの窓枠は、スチールで出来ていて錆止めの辺りまで白いペンキが剥がれ落ちている。私は、寧ろその風貌に人間味を感じていた。
その屋外の壁と屋内の2階の通路側の2組のサインボード納めた。この様なアプローチは先々大切なアイコンとなる。そんなある時代を遡る遠い遠い以前の師走の頃の話。
黄昏れ時に照明が点灯するサインボードは優しく温かく感じる瞬間でありフリーランスで工房を開いた者だけの特権が生かされている感じがする瞬間だ。
ベニヤ板にレタリングした紙を糊貼りしてそこに茶色の不透明アクリル板をもう片方のベニヤ板で挟み込みサンドイッチしたら細い釘で仮止やテーピングで固定する。そのお店のロゴタイプを中心にミシン鋸で切り抜く地味な作業の根気は半端ない。無地のキャンバスに絵を描く様に無機質なアクリル板が息を吹き返すそれは格別な想いになる。スキルの基本はストレートとカーブと難度の高いターンのそんな3種類。やる事は至極「シンプル」で次第に3種類ルーティンからは綺麗なロゴタイプが表れるが実感はまだ先の話だ。
先々の経営にも多大な影響があるだろうと自分の納めた照明看板の出来映えを自ら批評していた。と云うのもイメージとのギャップの考察は大切だからである。暫くは足繁く通いながら対話を重ねメニューあたりの追加のオーダー頂いたり集客などのリピーターの話しをしたり又別の仕事の紹介を頂いたりと仕事の全体の反省と含めて色々と有り難いものだ。
私の場合は、正直云うと大したスキルの持ち合わせが無く始めてしまった経緯があり、その意味では誰よりも何倍もの努力を積み重ねその仕上がりは最低であっても出来上がり次第納品します。
その様な無鉄砲で無理難題を承知で始めた屋号は名刺を作り変える度にそれを新しい屋号に変えていた。最終的に「生活工房」に落ち着いたと云う話。
◇ 私に感性と云うワードを伝授してくれた人
クリエイトオフィスは、知人であり恩人であり飲み友達でもある。スペース空間デザイン事務所[ Space Design Creat ]を私より少し早めに輝かしく始めていた。そんな勢いもあり私も筆一本でやれる屋外広告の工房を始めるきっかけになった独りだった。何せ筆一本で出来るのですからアナログは良い時代。
「珈琲ノヴァ」の尋常じゃないと云うのは先ずオーナーママがアブストラクトな油絵の画家だし相方も広告屋をしながら絵を描いている。店内の壁面には小さな作品がさり気なく展示してありそれらのママの作品は安定した描写が際立つのが私には心地よい。抽象表現が一般に浸透していない中では、ある意味時代の先取りに他ならない。安定と一言で云うならば筆と筆が重なりあう色彩は深みが加わりマチエールの持っ物量に確かな評価基準の1つがある。心象風景と云う解釈は心理描写や物の本質を切り込む哲学的な要素があるにはある。入眠心象の関係にあるのだろう。私もアブストラクトな時間を意外と経験していてそんな入眠心象風景だ。身内にもアブストラクト派が居たりして幼い頃から普通に絵として認知度は、あった様な気がする。そんな環境はある意味価値観が固定化してしまう欠点もあると云う中で自由さがもっと必要かもしれないと今は感じている。
◇ グラフィックデザインの公募展と界隈の人々
その頃私はデザイン部門の公募展に毎年ワクワクしながらB全ポスターを製作していた。そんな公募展を否定する人も中にはいたが私は自分自身のスキルアップの為にやりたかったし、何よりも自分のアイデアが100%出せる自由な発想は宝に等しいと感じていた。又そこで出逢った人々と親しくなったりするのは重ねて宝である。
「珈琲ノヴァ」常連客には詩人や現代舞踏家や陶芸家更に茶道家に哲学の教授に写真家に着尺地の草木染め織物作家と謂わゆるフリーランスな作家達が多い様だ。
この頃は中堅の芸術家達は仲間意識が高かった様に思う。勿論私は茅の外の存在であり自分自身のブランドやプライドは課題だった。文化芸術集団と云うところの雰囲気だがそこの敷居は可なり高いと想われる。そこのメンバーに特別な人がいた。
普段から下駄履きに常に風呂敷包みされた書籍を持ち歩くもキャシャに見えて眼光は鋭い詩人がいた。
彼は普段こそ眼鏡屋に籍を置いているが実際如何なる接客を披露しているのかまだ確かめては居ない。ある時、彼とバッタリ⁈偶然にとあるバーで隣合わせになったのだ。普段の風呂敷姿とは打って変わってその日は極く普通に近い革のバックから文具の色々を無邪気に披露してくれた。普段の印象とまるで違うキャラクターなので不思議な感覚に驚きを隠せなかった。風呂敷は社会的立場を主張するアイテムで今宵のステーショナリーはプライベートなのだろうか⁈もしかすると真逆かもしれない。その時そのステーショナリーは、何をするのかを尋ねるのを私は忘れてしまった。下駄履きに風呂敷の存在感は今でも健在なのだろうかと更に詩も健在だろうか...その詩は常にモダンジャズがテーマだったし本人がウッドベースを演奏する場面に遭遇した時は余りにも私が驚き過ぎて詳しくは記憶から消してしまった。きっと私の得意なジェラシーだった。
そのジェラシーは私のエイトビートの半端なドラムに奏法の「グルーヴ感」の無さにあった様に消失感に他ならない。
◇ 記憶に残るChristmas tree
この頃丁度クリスマス商戦シーズンの幕開け時期に知人(店舗デザイナー)と2人であるショールームのディスプレイの為にワゴン車にギッシリ道具を詰め込み100キロ先の山道を走った。常緑樹と落葉樹が交錯する隙間からの山道は夜空の星を更に輝かしさを感じさせてくれる様だ。
勿論運転は私に任されてハンドルを握ったまでは良いが、しかし実の所私は余り車の運転は得意じゃ無く好きでも無く...と云うより怖かった⁈のだ。私はハンドルを握るやいなや既に緊張していたし、ましてや夜間の運転などには昼間以上の緊張感が走る。車を走らせながら2人は、ほぼ会話が無くこちらから話を仕掛けても会話は続かないしその時間の経過にやや退屈さえ想いは過ぎ去りその内に「欅通り並木道」のある街に入り目的地に辿り着いた。
辺りは小ぢんまりとした店舗が所狭しと並んでいて妙に可愛くて愛おしくさえ想う私はそんな気持ちを勝手に微笑んでいるのだ。
先ずは食事を用意して頂いている先方のオーナーは知人(栗ちゃん)の先輩らしくレストランに案内された。私には豪勢な洋食レストランで食事など珍しい事になりクリスマスシーズンの先駆けとして気持ちが盛り上がった。私にもその様な立場の当日が訪れるのだろうか⁈と自分の未来予測の難しさを感じていた。
夕食後早速ウィンドウのクリスマスのディスプレイに取り掛かる。先ずはスペースを確保しそしてガラスは表からも裏からも拭きあげ磨き上げた。普段は怠惰である私がこんな状態の気持ち成り気持ちもクリアになるから不思議だ。
◇ ショーウィンドウのディスプレイは楽しい
コンセプトは雪が降り積もる樹木を中心とした白いクリアな豆球が木の枝の輪郭を構成すると云う事でとてもシンプルなWhite Christmasな銀世界だ。
樹木は50ミリ厚の発砲スチロールを6枚程重ね中心に角材を挟み込み、そこに接着剤のコンクリートボンドのダークグレーは活かされ後で発揮してくる。ノコで無造作に丸い樹木に仕立て継ぎ目の接着剤のダークグレーが表情に加わると可なりリアリティが増して行く。円柱形から先をタイトに更にノコを入れて行き、そこの先端の角材に丸のヒートン金具をつけた。鋸屑は雪になる為大切なアイテムで決して無駄な屑にはしない。これはアーティストのセオリーだ。
スチロールの樹木をイメージの場所に固定する為に先端のヒートンと天上のヒートンで三方からテグスで引っ張る。足下はロウソク用のスタンドに上から落とし込む様にして樹木の固定完了だ。
ここからがシンプルにしてビューティなプロセス。左右に四方に天上から豆球で枝の輪郭線はやや丸く半球体は天上のヒートンに掛けるて樹木の枝の輪郭線が期待値に向かい出す「ン〜」「まずまず」だ。
この先は不必要な明かりは消して点灯テスト。いきなりミュージックが聴こえてくるそれは、後はオーナーのセンスにバトンを渡す。
白い樹木に可愛い白い豆球が点灯始めた。知人の名前はクリエイト栗山(実名)さん「Kuri_chan」がリードするそこにアシスタントとして参加した私と栗ちゃん2人にオーナーが叫んだ「ブラボー」とその瞬間の記憶は私の中に「感性」と云う言葉が叩き込まれた瞬間だ。正にクリエイトに映る瞬間だ。
スチロールの白い樹木に豆球の明かりはホワイトアンドホワイトの白一色のコンセプトはイルミネーションとして微かなオレンジ色に点滅する様は最高だったし、あれ程コンパクトでシンプルでWhite Christmasのディスプレイは今はもう無い。「Kuri_chan」Thanks.フリーで独立して間もない仕事はKuri_chanのアイデアが充分発揮されていて私も苦手な運転も帰りは気分良く運転できた。行きは無言のデザイナーのクリチャンも軽快に冗舌になっていた。
◇ 後記 シュトーレンへの想い
私はこの様な記憶が蘇るのは静寂な夜に冷蔵庫のコンプレッサーの音だけが僅かに響いている。Happy Christmas.今正にシュトーレン生地にドライフルーツを愛で包み込みそれを焼きながら30分間の待ち時間にそんな想い出がふと浮かび上がった。
「そうなんです」敢えて師走は忙しいからシュトーレンを焼くと決めていました。過去に「シュトーレン」は数回食べた記憶を引き出しで大切に熟成さていて、それを作る予定に入れていました。今年は自家天然酵母培養の実験に明け暮れた年であり強力粉を捏ね方も少しづつ慣れて来た。「良し2021」は土を捏ねて何か創ろうと今考えている。そして蕎麦打ちもやりたいし更に青竹の箸まで行けたら良い。
「 生 活 工 房 」。
Noteはやはり好きですね。何よりも文字も画像も自由に入れ替えが出来る事は、やはり最大の良さだと云うワードにとどまらず辞書もありリンクもあり正にNOBAです。Thanks Note.
https://www.instagram.com/p/CHNf50YAAVA/?igshid=16z3vfi3po2ob