キモノ業界 あるある?
~ 作り手の振りをする人々~
(後染め分野についての話題です)
「商売人」 と「作り手」の違い
キモノ産業には、様々な業種の人がいます。
悉皆屋(染匠)さん、問屋さん、呉服屋さん。
彼らは、商売人です。
つまり、キモノを販売することを、主な仕事ととする業者です。
売り手です。
現場には、製造や加工を担う職工さん達がいます。
彼らは、作り手です。
至極普通のことです。
前者は、流通業者。
後者は、製造業者。
明らかです。
ですから、前者の中には、実際に反物を染める経験すらしていない人が、たくさんいます。
にもかかわらず、自らを「作り手だ」と言い張って、展示会や発表会をする場合があるのです。
何かヤバい闇を感じてしまいます。
習字の思い出
小学生や中学生だったころ、習字や書道といった授業がありました。
お手本を、隣において書いたり、敷き写したりしたことを覚えています。
授業の初めに先生が、教科書に載っている熟語を選び出します。
教室内の生徒は全員、同じ文字を書き出して練習を始めます。
そして、授業の最後には、自分の名前や学年を半紙の左脇に書いて、清書を提出しました。
後日、教室の後ろや廊下の壁に張り出されると、同じ手本の、同じ書体の、同じ文字でも、全員全く違う字がありました。
随分昔の記憶なので、ぼんやりとしていますが、クラスの中にはとても綺麗な字を書く女子生徒がいたことを覚えています。
運動会の賞状に、入賞した生徒の名前を先生に代って、書いていたことも思い出します。
絵の作り手
私は、キモノ産業の中の商売人ですが、一方で、近所の美術予備校で実技指導もしています。
美術や工芸、デザインが好きな方は、鉛筆描写(デッサン)の経験があると思います。
特に、関西で盛んな卓上描写は、京都のキモノ事業者の方からすれば、馴染み深いものでしょう。
美術教室では、講師側から生徒全員に、同じ描写課題を提示します。
同じ時間で、同じモチーフで、決められた範囲の同じ道具で、同じ環境の下で、同じ日に制作されます。
終了後の講評では、受講生の作品全てを張り出します。
全員、異なった作品です。
同じモチーフを描く課題ですが、全員、違う絵になります。
同じ条件で描く課題ですが、すべて異なります。
当然です。
生徒には各々異なった特性があるために、自分の作品画面の中に、モノの捉え方や感覚、修練度と合わせて、個性が反映されるからです。
作品は、受講生一人ひとりが制作者となって、作ったものです。
受講生は、「作り手」です。
キモノの作り手
産業の中のキモノ作りと、照らし合わしてみます。
(後染めキモノについて考えます)
「題材はこれです。指示に従って、上げて下さい。」と流通業者が、製造業者に発注します。
生地、指示書、加工伝票と共に、参考資料や参考図案、色見本が外注の職工さんに渡されます。
その後、 この加工指示のもとで、実際に手を動かす方々によって作られた、そのようなキモノが出来上がります。
発注者がこのキモノに関わったことは、外注先への指示だけです。
発注の指示者は、実際には何も作っていません。
なので、作り手ではありません。
作り手は、手を動かした外注先の職工達だけです。
指示者は、「キモノを作った」と言うことは出来ません。
理由は、簡単です。
「外注への指示」と「モノを作る」は根本的に、異なる行為だからです。
作り手の振りをする人々?
もし、指示者が作り手だとしましょう。
そうすると、前述のデッサン授業では、生徒全員の絵は、実技講師が、つまり私が、作り手となってしまいます。
受講生が60人いると、60通りの違う絵が出来上がります。
それら全てが、私の個人作品となってしまいます。
講師は授業を作っているのであって、生徒一人ひとりが作り手となって制作する、その様な、自分の作品を作っているのではありありません。
ですから、キモノの発注指示者は、キモノが作られる機会を作っているのであって、キモノを作っているのではありません。
キモノの発注指示者(呉服屋、問屋、悉皆屋、染匠)は、作り手ではないのです。
商人なのです。
別の人が手を動かして作ったキモノを売る、そんな人です。
売り手なのです。
染め出しと呼ばれる発注担当や商品仕入担当、あるいは、中継ぎ担当で、産業にいる人々(呉服屋、問屋、悉皆屋、染匠)は、実際に自ら手を動かさないと、作り手としての立ち位置がないのです。
小売業、問屋業、悉皆(染匠)業の方々が、実際には全く自らの手を動かさず、外注先である加工業者や職工人に手を動かしてもらい、そして、作ってもらったキモノを前にして、
「弊社はキモノを制作しています。」とか、
「このキモノを私が作りました。」などと言えば、
作り手の振りをしているように聞こえます。
〈おわり〉
☆おまけ☆
注文や指示する人は、他人が何かをつくる機会を、作る
字を書くことの苦手なお客さんが、案内状や賞状、封書あて名などを筆耕屋さんに書いてもらう場合を考えてみます。
ある日、好きな和紙に好みの字体で書いてもらおうと、自分で考えた文面を持ち込みました。(「自分で考えた文面」について、ここでは、良く知られた文面と同程度のものを想定しています。)
毛筆の雰囲気やレイアウトを確かめるために、筆耕屋さんにサンプルを制作してもらい、その後で注文しました。
後日、とても美しい筆運びで書かれた品モノが出来上がりました。
この案内状や賞状などは、誰が書いたものとなるでしょうか?
と問われれば、
筆耕屋さんです。と即答できます。
では、誰が作ったのですか?と問われた時、どのように返答するのが良いのかを考えてみます。
そもそも、字の苦手なお客さんです。
自分で書くことが無理なので、筆耕屋さんに注文した案内状です。
お客さんが、紙や字体の指示や文章のアイデアを持ち込んだとはいえ、
美しい筆跡で、自分好みの案内状や賞状となるために作られた本質部分は、筆耕屋さんが制作したものです。
注文したお客さんではありません。
でも、お客さんは、自分で案内状を作った。
あるいは、自分で書いた。
と言うかも知れません。
この「作った。あるいは、書いた。」という言い回しは、あくまで習慣的なものです。
文面を考えたり、紙の材料を選んだり、字体を選択したりするような、計画や企画を行うことを、「作った。あるいは、書いた。」という発言に言い換えているのです。
思い付きやアイデアの表層部分と、実際に手を動かして作成される本質部分との、価値の違いをはっきり認識すれば、どのように返答するのが良いかは、明らかになります。
注文したお客さんは、筆耕屋さんに本質部分書いてもらう機会を作ったことを、短縮して言い回しているだけです。
ですから、注文や指示する人は、本質的な制作に携わっていません。
アイデアよりも、手を動かすことの方が本質的な価値を持つ場合、
注文や指示する人は、他人が何かを作る機会を、作るだけなのです。
〈おしまい〉
PROFILE
中井 亮 | nakai ryou
1966年生まれ。京都府出身。
幼少の頃より 家業のキモノ製作現場に親しむ。
友禅染めを中心に、古典柄から洒落着まで、様々なジャンルの後染めキモノ製作に携わる。模様染め呉服悉皆業を営む。
また、染色作品の個人制作や、中高校生へ基礎美術の指導を行っている
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