『【ノンセンス・プロンプ】黛 冬優子』が凄まじい、という備忘録
以下は、予言機により自由意思が否定された世界を描くSF『予期される未来』の一節である。
・時間 時計 車 回転
・異化 酸素
・鏡像 不斉元素
・永遠
〇我々何時
このコミュでは、『【ノンセンス・プロンプ】黛 冬優子』に取り憑くこととなる「時間」「時計」というモチーフの登場とプロデューサ-の役割が描かれている。
プロデューサ-との待ち合わせに向かう冬優子は、駅で、「(時間に)まだ余裕があるから平気」と言って腕時計を落とした中学生を助けた後、自分のスマホの時間が狂っていることが発覚し、結局待ち合わせに遅刻してしまう。
そこでプロデューサ-は子供の車のおもちゃを直してあげていて、
壊れた車のおもちゃを見事に直してみせた、という話の流れだ。
(この時点でも察するが、)話全体を通してみれば、この流れ全てがメタファーである。
そして、冬優子とプロデューサ-が、子どもを助けたという同じ構図の中で、相補的だ。時計が狂っていた冬優子と、壊れた車をちゃんと"回転"させてみせたプロデューサ-。
コミュタイトル『我々何時』は、【三文ノワール】の、
に通ずるところがある。
「時間に対する抵抗」という【三文ノワール】のテーマと問いを引き継ぐ【ノンセンス・プロンプ】は、その問いへの返答を綴り始めることとなる。
〇異化憧憬
冬優子と『溶けた時計』の話。
・「異化」とは
コミュタイトルの「異化」とは何を指すのだろうか。
一般に、異化経路は収束性(convergent)である。
要するに、このコミュで「異化」が指すのは、「収束過程で何かを"生成"していく」ことといえるだろう。
もう少し踏み入ってみようと思う。
異化とは反対に、生成されたエネルギーを受け渡された運搬体のエネルギーを用いる同化経路は、発散性divergentである。
この図は収束性異化経路と、発散性同化経路を表したものだ。
この図における好気的な赤色=異化の段階を、「呼吸」という。酸素を消費してCO₂を生成する、細胞呼吸の過程のことである。この過程により、呼吸鎖では、ATP合成酵素(モーター)の回転でATPが合成される。
映画や絵画といった芸術作品とは────いや、遊園地やアイドルも────そういう図式なのかもしれない。
さまざまなものが収束して一つの形になったものが作品である。そうして、それは、そのエネルギーを受け取った観る人のエネルギーによって解釈され、拡散していく。
運搬体(観る人)へのエネルギーの受け渡しは、呼吸⇒"回転"によるものだ。"回転"は、本コミュにおける「時計」と「車のおもちゃ」の────「観覧車」と「パンダカーのハンドル」の────共通項として描かれる。「時間の進行」と「存在の進行」。
ああ、確かに、死して尚それが続くというのなら、"幽霊"だ。
呼吸が、回転が止まって、エネルギーの生成がなくなり、運搬体のエネルギーも失われた時どうなるだろう。それは、簡単な話である。
プロデューサ-がリフレッシュ案として提示した中で、冬優子は"気分"で美術館を選び取る。
その美術館で、『溶けた時計』が彼女の目に留まった。
冬優子が見た『溶けた時計』とは、サルバドール・ダリの『記憶の固執』であると思われる。
とにかく「時計」というモチーフに、このコミュ/冬優子は一貫して取り憑かれている。冬優子が『記憶の固執』に何を感じたのかは読み手はわからないし、わかる必要はないのかもしれない。それでも、答えが用意されているのだとしたら、それがコミュタイトルでもある『異化憧憬』なのだと思う。
ここで、『【三文ノワール】黛 冬優子』の話を少しだけ書き留めておきたい。
・【三文ノワール】の問い/『記憶の固執』に彼女は何を感じたのだろうか
【三文ノワール】で問われたものは、「時間に対する抵抗」である。
冬優子をオファーした映画監督は彼女を高く評価する一方で、いや、高く評価するからこそ、
と言う。
『その時に注目されたものが流行って、消費されて少し経つと、また次の流行に人が移っていく────』
『その替わりもまた消費されて、新しいものに取って替わるそういう恐ろしい構造の中で黛さんは頑張ってるんだよね』
『エンタメそのものを否定したいわけじゃないただボクにはとても耐えられない……その儚さが』
と。
そして、彼は、「時間への抵抗」としての映画論を語り始めた。
それに対して、冬優子はこう返す。
この「時間に対する抵抗」についての命題は、この後の車内でのプロデューサ-とのやり取りや次のコミュ『向上の出口』でも印象的なように、彼女に纏わりつくこととなる。
『向上の出口』では、
とプロデューサ-が返したことに対する、
彼女の、悲しそうな表情が印象的だ。
……では、True Endで描かれた【三文ノワール】の作中作(映画)はどういう内容か。
冬優子演じる────おそらくは、冬優子から"ふゆ"を切り離したもの(優子)のメタファーでもある────「ユウコ」は、人を助ける力があるという。ただし。彼女の願いを第一に付き添う形で共に旅をしてきた────これもプロデューサ-の隠喩だろう────主治医がいるが、彼女はもう、長くないのだ。
そこに、義体開発者が現れる。
「我々が協力すればもっと多くの人を救うことができるかもしれない」
「義体化すれば、ユウコさんは半永久的に生き続けられます」
「肉体はいつか滅びてもその力は残り続ける」
これは、アイドルの"ふゆ"でなくても、いや、ない方が生き延びられる、その力が君にはある、と映画監督が冬優子に言う構図と同じだ。
しかし、ユウコはそれを受け入れたようには思えない。主治医に向かって『……先生 …………私は────』というシーンが映された後の暗転の中、波の音と彼女の独白で、映画は締めくくられる。
波の音の中、主人公とヒロインの語りとしてアルチュール・ランボーの詩「永遠」を引用する、映画『気狂いピエロ』のラストシーンを想起させる終わり方だ。
もっとも、【三文ノワール】では、彼女独りの語りであり、「それは」に次ぐ続きの台詞もない。
「ユウコ」が見つけた「永遠」とは、なんだろうか。
永遠とは、時間に対する同一性の抵抗である。なるほど確かに、義体開発者の言うことは、ひいては、映画監督の映画論は、このまま朽ちることに比べれば「永遠的なもの」であろう。しかし、その"幽霊"としての永遠を選ばず、ゆえに時間の暴力に屈服することを選んだように見える彼女は、それでいて「永遠」を見つけたと言ってみせる。
……例えば、彼女が『気狂いピエロ』のラストシーンと同じく自死(瞬間的死)を遂げたのだとしたら、それは、同一性の敗北を"時間"によってではなく自らの意志によって選び取るという、「永遠」だろう。
幽霊としての「永遠」を選ばなければ、そういった「永遠」しか残されていないとでも、あの映画監督は言うのだろうか。
でも、それは────、だとして────
彼は何をしてやれたのだろうか。
観終わった後、プロデューサ-はこの映画を「良い────映画だったな」と言った。
そう言う彼に対して、冬優子は尋ねる。
と。
そして、
また、彼女は少し悲しげに微笑んだ。
さて、カマンベールチーズが溶けていくのを見てインスピレーションを得たという『記憶の固執』は、シュルレアリスム的なものだ。この作品の一般的な解釈がどういうものかは、ここではあまり意味をなさない。「時計」に取り憑かれた冬優子が何を感じたか、である。
もしかすると、彼女は、「時間」への恐怖、朽ちることへの恐怖を、感じ取ったのかもしれない。
しかし、思うに、それよりも冬優子は、絶対的な「固い時計」=「時間」と、同一性を保持できない「柔らかいカマンベールチーズ」=「時間に屈する存在」という、相反するものを分解し一つのものに書き上げてエネルギーを生み出す────「異化」に、そうして時を経てもエネルギーを生み続け、観る人による「同化」も絶えることのない、「永遠」かのようなそれに、憧憬を抱いたのではないだろうか。
彼女が負う問いとはまさにそういうものなのだから。
『記憶の固執』に対する「同化」を終えた彼女は、『…………お腹空いた』と口にする。「同化」が亢進した後、空腹時には「異化」へと傾くものだ。なるほど、『異化憧憬』である。
〇鏡像去来
・不斉炭素と鏡像異性体
【ノンセンス・プロンプ】における不斉炭素と鏡像異性体については、True Endコミュ『不斉元素』への言及の際に書き留めようと思う。
・『バイバイ、マタネ』
「なんとか時代にしがみついている」遊園地のPRを任せられた冬優子。
コミュタイトルの"鏡像"とは、「ふゆ」と「ユウコ」のような関係を指しそうなものだが、このコミュの内容を踏まえると、「ふゆ」と「遊園地」、「時計」と「観覧車」、次のコミュ『周縁回帰』も含めれば、「プロデューサ-」と「整備士」もまた、
ユウコ(冬優子)─ふゆ─壊れた時計─プロデューサ-─壊れた車のおもちゃ
↑
↓
園長─遊園地─ゴンドラが止まる観覧車─整備士─ガタがきているパンダカー
のように鏡像になっている。
コミュタイトル『鏡像去来』とは、思うに、この鏡像における、『バイバイ、マタネ』という機械に乗せた去来の願い、鳴り続ける限りは「永遠」の記号。
でも、それは「永遠」ではない。永遠に鳴り続けることができないからだ。
〇周縁回帰
周縁とは、逸脱である、と思う。もののまわり、なのだから、まさに逸脱だ。懐かしいもの。この遊園地は、観覧車は、周縁を廻っている。
プロデューサ-と冬優子を乗せたゴンドラ────観覧車の回転が、止まった。
・ノンセンス・プロンプ
彼女が抱えていたものをプロデューサ-に吐露し始める。【三文ノワール】でこぼした『────今って、いつまで今……?』からずっと彼女の中にあったもの。
それに対して、プロデューサ-はこう返す。
と。
そういう冬優子に、こう言うのだ。
と。
最初の客には、最期の客である権利と義務があるという、観覧車の整備士の話。たとえ閉園したとしても、観覧車が回ることをやめようとしない限り、整備を辞める気はさらさらない、と。
そして、プロデューサ-は、こう言ってのける。
────ああ、なんて、ノンセンスな台詞だろう。
『記憶の固執』のようなシュルレアリスムでもない、答えになっていないくせに理性的な口ぶり。
けれど、それは冬優子にとって────
実は、これらに関しては、【三文ノワール】一つ目のコミュ『発火1/2』で『────今って、いつまで今……?』に対して近しいことを言っている。
この時、『答えになっていない』とか『わかってる、どれだけ一緒にやってきたと思ってるの』だとか冬優子は返した。
しかし、【三文ノワール】ではその後のコミュで、『あんたも入っちゃえば?────カメラの中』に対してプロデューサ-は『俺には"資格"がない』と言ったり、そうして台詞が途切れて終わる彼女独りの結末を目にして『内容も良かった』というプロデューサ-に冬優子が『あの結末も?』と聞いたりして、彼女は悲しげな表情を浮かべる。
【三文ノワール】は、幽霊としての「永遠」を拒むなら、そこには自死という時間への抵抗による「永遠」しか残されていないのだと、冬優子に告げていたようなものだ。美しいと言わんばかりの拍手が響き渡った、そんな「永遠」は、彼女にとって望むものなのだろうか。
……彼女は、見せて欲しかったのだろう。彼に、途切れてしまう最後の台詞の続きを。どれだけ他のものが尤もらしい「永遠」を唱えても、アイドルがそんな「永遠」を持ち合わせてなかったとしても、「誰もいなくなっても、最期まで共にいる人がいるのだから、そんな囚われた幽霊の"永遠"なんかよりずっと"今"を長く生きよう。」────そんなノンセンスなプロンプを。
……そして、観覧車は再び動き出す。
観覧車を後にする彼女は、目前の彼の後ろ姿に、ついに晴れやかな微笑みを見せる。観覧車越しの空に、虹が架かっていた。
〇不斉元素
・「不斉元素」とは何を指すか
『鏡像去来』を中心にこのコミュ全体を思い返したい。遊園地と鏡像を取ったのは以下のものである。
ユウコ(冬優子)─ふゆ─壊れた時計─プロデューサ-─壊れた車のおもちゃ
おそらくこの中で、結合を作用と捉えるとして、今回のコミュにおいて「不斉元素」たりえたのは、プロデューサ-ではないだろうか。
「車」と「時計」はどちらも回転するものとして扱われているが、車のおもちゃは「存在の進行」(パンダカーのハンドルが利きづらかった描写を踏まえると、向かう先を決める意志とそこへ向かって進むことを含意するだろうか)の、時計は言わずもがな「時間の進行」の象徴といえるだろう。どちらもプロデューサ-は直してみせる。
「不斉元素」であるプロデューサ-により、鏡像異性体────アイドルの世界が存在することになる。
それは、鏡像なのだから、きっと偽りのものには違いない、けれど、誰かにとっては夢だったおとぎ話である。
鏡像異性体が同じだけ存在すれば、旋光性は相殺されて、旋光度0となる。
彼が"そのままで"あれば、そして、そのアイドルという鏡像を彼女が、そんなものは嘘だと、いつか尽きると知って尚、騙くらかされ続ければ────彼が、時計や車のおもちゃを直して見せたみたいに────"回転"のズレは直り、光はまた、まっすぐと進み続けるのだろう。
・「永遠」とは
最後の独白は、プロデューサ-と恐らくは自分自身にも向けたものだ。
それと同時に、プロデューサ-という存在が加筆されたことによる、【三文ノワール】「時間に対する抵抗」への返答────台詞に続きのないあの結末へのノンセンス・プロンプなのだとも思う。
嘘という酸素が尽きるまで呼吸────異化は続く。彼がいる限り、アイドルという鏡像異性体は存在することになり続けて、最期まで共にいるというなら、細々としたものだとしても、同化は続く。亡霊のものではない、"今"として。
猫の鳴く声。箱を開けてしまえば、二つの状態の重ね合わせなんてことはない、抗いようがない真実がそこにあるに違いない。アイドルという鏡像は消え去り、時間に屈した現実だけが残るのだろう。だけれども────。
そして、時計の針がまた動き始める。
永遠の同一性など存在しないことは周知の事実である。であるのに我々は、永遠をどこかで信じ、あるいは「時間」に対抗しようとする。そうでなければ、なんだか"今"を否定されるようだからだと私は思う。
一方で、我々は、何かに向かっていく意思を重んじる。それは、永遠の同一性などないことの証左でしかないのに。
だから、きっと、我々が何かを願う時、きっと嘘をついているのだ、と思う。永遠などないと知って、終わりゆくものを知って、生まれるものを知って、それでも尚、救われてみせるのだから。
──────彼女とプロデューサ-の物語は悲劇となるだろうか。私はそう思いたくはない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?