郁田はるき/鈴木羽那WING備忘録&『バイ・スパラル』の再解釈―バイ・スパイラルとは"永遠回帰"的な、彗星の飛来とは"大いなる真昼"的な―
<追記>
より再整理したもの
↓
〇『バイ・スパイラル』
はるきも羽那も元々アイドルを目指していたわけではなく、その道に引き込んだプロデューサーのことを「アイドル」への道しるべにしていて、なんというかそういったアイドルというものに対する拠り所を失ってきたルカと対比的だと感じる。
ルカのソロ曲『神様は死んだ、って』では、明らかにニーチェを想起させるようなフレーズを含む。向かう先あるいは"アイドル"を定義づけていた拠り所を失った斑鳩ルカの様(思想ではない)を表すものとして、あらゆる追求すべきものの根拠を別次元の存在から与える二世界説を無用としたニーチェの『神は死んだ』を比喩的に重ねたわけである。
ところで、『バイ・スパイラル』は、コメティック追加に際して、「ルカ加入に対する『セヴン#ス』及び5thライブ」のような役割を果たしていたように思える。それは、『光と闇の魔法使いは……その後どうなったの────?』に対する甜花ちゃんの、
と、その直後の彗星到来のニュースからもわかるように、今後描いていくテーマとして提示されていたわけである。これは、二項対立の脱価値により「共にある」可能性を一緒に考えていこう、というメッセージでもあるわけだ。
さて、『バイ・スパイラル』では"光と闇"をはじめとした相対するものが多く登場する。
光の魔法使い←→闇の魔法使い
283プロ←→斑鳩ルカ
甜花ちゃん、会社経営しているAのクラスメイト←→A(甜花ちゃんのゲーム友達)
太陽←→異物
在来種←→外来種(ザリガニ)
ドアを叩く人←→ドアを叩かれる人
ドアが開かれた"明るい部屋"←→閉じこもった"暗い部屋"
光が届く人←→光が届かなかった人
など
ただし、それらが、どちらかが善/悪というわけではないというお話である。二元論を押し出しているというより、人間の認識がどうしようもなくこんなもので、こういった対立による"差異"によって凡ゆるもののそういった価値を断じてしまうことこそ呪いである、というような向きである。現に、多くの人が、上記のように、こちらが光でこちらが闇だと割り振れてしまえる。そういった人間の性質こそが、このコミュが描く根本構造にある。
そして、最後のシーンの彗星到来なのだが、これは一見よくわからない。第一、コミュのタイトルである『バイ・スパイラル』というのも何だか掴めないままである。
しかし、これらはニーチェの諸概念と記号的に照らし合わせることができる。
……ニーチェはあらゆる追求すべきものの根拠を別次元の存在から与える二世界説を無用とした───これは善・悪等の価値は現実世界における心理的な、あるいは社会的な"差異"のみで成立するものとしたからである。つまり、あらゆる価値というのは、全くもって絶対的でないということであり、そういった「価値」を失う。ニヒリズム(虚無主義)である。
先述したが、『神様は死んだ、って』のようにこの状態が比喩的/記号的に───ニーチェが辿り着き肯定したニヒリズムではまだないのだが───重ねられたのが、"神様"を失い、「なんもかんも意味がない」というルカである。ところで、ルカと同じく自分を痛めつけていたにちかは、"神様"と思っていたものを自分が立つ同じ現実世界のものとして認識し、原体験への回帰や『家』という、諸意思によって生じた「自我」の遡及により解決を迎えた。ならば、ルカも───ということには現状至っていない。
ルカのここまでの道程は、ニーチェの"ニヒリズムの勝利の諸段階"に沿っている。あらゆる従来価値を否定するニヒリズムは、"永遠回帰"に行き着き、"大いなる真昼"が訪れようとする。ここで確認しておきたいのは、"永遠回帰"にスパイラル(spiral、螺旋)という訳語は当てないだろう。
ルカの姿を見て、A(甜花ちゃんのゲーム友達)は『明るくなくてもいいのかな』という風に思えた。「二項対立による物差しが無自覚に善悪等の階層的価値を規定してはいないか」といった訴えがコミュの前提にあり、彼女が救われたのは、暗い部屋で選び取った一点の光、傷をむき出しにしてでも歌い続けるルカの姿なのだ。これは、まさに、『明るい部屋』での写真的な────"暗い部屋"を"明るい部屋"へ重ねていく────アプローチなのだが、そこの解釈については、今後の斑鳩ルカの描写を待ちたい。
螺旋は、繰り返し(反復)の構造ではあるものの、同じ場所はたどらず、一方向に進めば上昇などといった方向性を持つ。「<同一なもの>の反復」を一見イメージしてしまう"永遠回帰"とはその点が大きく異なる。
"永遠回帰"的であるが、それでも────ランタンと、ルカに救われたAのように────同一なものの反復ではない、"光と闇"の両義性の螺旋、これが、『バイ・スパイラル』なのではないか、と思う。
また、善悪等の諸価値を各人の心の中に生み出す"差異"が消滅し価値転換が訪れようとする状態がニーチェのいう"大いなる真昼"(影、コントラストの消滅)である。
であれば、"大いなる真昼"的でいてそれとは異なる、本コミュの、断絶されたかのような"差異"に対して、それは隣り合うものであるという前提を本コミュで共有した上で、あまつさえ重ね合わせようとすることこそが、"黒色彗星の到来"なのではないか。
"黒色彗星"という、光と闇という性質が"隣り合った"ないし"重なり合った"ような表現もこれで頷ける。本コミュで示唆されたのは、"差異"による呪いとルカを傷つけ続けた『神様は死んだ』というニーチェ的記号(の誤解を生む見かけの暴力性)からの脱却なのではないか。
故に、コメティックを機に描いていくテーマの一つは「光と闇という二元論的"差異"が、"隣り合う→重なり合う"ために」だと自分は考えている。
一方で、『バイ・スパイラル』やシャニソンのコミュにも言える彗星=どうせ消えるもの、という部分がどう言及されていくのか、も気になるところだ(その一つとして示唆されたものが螺旋なのだろう)。
〇郁田はるきW.I.N.G.編備忘録
・原動力のようなもの
はるきWING編のこのあたりの言及は、はるきが黒を『全部違う色がこの中にある』と解釈していることにも繋がってくる。
これは、主体のない(無意識の)諸意思を見据えようとする試みの示唆のようにも見えるし、あるいは、二元論的な"闇"もまた、光が周知の事実として多数の色からなるのと同様だとする主張にも見える。
〇鈴木羽那W.I.N.G.編備忘録
・『美しいままで』
このテーマは、「光と闇の"差異"が、"重なり合う"ために」乗り越えるべきものの一つとなるように思える。WING編において、羽那の心理描写はあまりに少ない。羽那が持つ『美しさ』として描かれたものは、ファン、友人、プロデューサー、イベントスタッフ等、常に他人が固定し実体として投影したものである。それにあまりに従順に応える(ように見える)彼女だが────、彼らは、"そうでないもの(差異)"を果たして許容するのだろうか。
羽那WING編が"天性のアイドル"という他人からの宗教的志向を提示したのに対し、はるきWING編では自分(はるき)の哲学的志向を提示している。これもまた、語弊を恐れずに言うと、"光と闇"である。
しかし、『神様は死んだ』と言って、全てを終わらせることはしないのではなかろうか。『バイ・スパイラル』が示唆する、"差異"による呪いからもニーチェ的記号からも脱却しようとする「光と闇の"差異"から、"重なり合う"ために」が描かれていくのではなかろうか。
現段階では、まだ、『くだらないや』や『平行線の美学』の歌詞を歪めずに解釈することは難しい。しかし、少しずつ見えてきたものもあり、なによりこれからどういった軌跡を描くのかが楽しみである。