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孤独の先にあるもの(2/2) #6

「お母さんね、明日運動会に行けなくなったの。」

母は味噌汁を兄の茶碗に分ける時にそう呟いた。“行けなくなった”その言葉の意味を僕はすぐ理解する事ができなかった。きっと姉も兄も同じだったのだろう、”行けなくなった”を意味するものが、willではなくwill notであり否定形の言葉である事を瞬時に脳が分別できなかった。

人は言葉を理解する時、理解したいと思うものを前提とし脳が識別するのだと思う。音の意味を認識する時、耳の外耳道から音波がスーっと通過し鼓膜に当たりそれが振動となり最終的に蝸牛に伝わる。しかし、”理解したくないもの”が入り込んだ時、耳の奥にいる小さな耳の門番が待ち構え「通行禁止」と言わんばかりの顔をしている。仕方なく、振動は元来た道を全く同じ経路を辿るように戻る。そんな感覚が耳の中でぐるぐる回り”事実”を拒絶しようとする。

母の言葉を聞いた後、子供達は互いの顔を見合わせて首を傾げた。
「ごめんね、お母さんは明日どうしても仕事に行かなくちゃいけなくなったの。こうしてみんなとご飯をたべるために、お母さんは仕事に行かないといけないんだ。」
母は同じ言葉を違う言い方で繰り返した。”言葉”という人に伝える手段が有効に使えていない事を示唆するように、ゆっくりと子供達に伝えた。
兄も僕も黙っていた。僕は徐々に目頭が熱くなるのを感じ、どこで覚えたかもわからない力を体中に張り巡らせ必死に堪えた。

暫くの沈黙の後、姉は言った。
「お母ちゃん、大丈夫だよ。私は運動会なんて全然楽しみじゃないもの、みんな(弟2人を見る)運動神経だってよくないし、運動会なんて国語の授業みたいにつまらないもの。又郎なんて亀みたいにノロいしかっこ悪いところみんなにわざわざ見せるんだから」
姉は今までに見たこともないような奥深い光を放つ瞳を母に向け、ニカッと八重歯の目立つ歯をむき出しにし言葉を発した。僕は比較的国語の授業が好きだったのに加え”亀”と比喩された事に僅かに苛立ちを覚えたが、そんな事よりも姉の凛とした言葉が下を向く僕の背中を突(つつ)くのであった。
姉の言葉を聞いた後、母は左手を口に覆うようにして姉をじっと見た。
その後、母はゆっくりと机に視線を変え、兄、僕の順に顔を向けた。
「ぼくもぜんぜん大丈夫」
物静かな性格の兄は言った。兄の声は小学二年生にしては低めの声であったが、その声は少し震えていて音程がコントロールできていないようだった。
「ぼくも」
何を言っていいのか分からず、姉兄が言う言葉をただただ僕は短くして言った。

立てていた計画が急遽変更され寂しく感じることはある。しかし、当たり前だと思っていたことが突如世の中のルールから消えた時、自分がたった一人世界に取り残された感覚になる。それが明確な目的を持ち、ひたすらにそれに向けて夢中になっていた時こそほど失われたその空白は大きくなる。僕にとってその日は、生まれて初めての”母のため”の運動会だった。

僕が言葉を発した後、母は、僕、兄、姉の順にまたゆっくりと顔を向けた。
母と目があった姉は何かを思い出したかのように、唐突に立ち上がり冷蔵庫の扉を開けゴソゴソと中身を物色し始めた。何事かと思った母は「どうしたの?」と姉に聞く。母の声はどこか抑揚さを失いいつもの根拠のないパワフルな自信が欠落していた。
姉にはその問いが聞こえなかったのだろう、何かを見つけ背中を向けたまま冷蔵庫の扉をそっと閉める。そして、また唐突に180度クルッと回転し母に全身を向けた。

「じゃじゃーん、3人で作ったお母ちゃんの特性パワフルジュースー!」
姉は腰に手をあて右手を真っ直ぐと、そして誇らしげに掲げた。アメリカとフランスの友好を象徴し”世界を照らす(Liberty Enlightening the World)”を意味する自由の女神のように、堂々と無限の空を突き抜けるように右手をあげた。彼女の右手には、3人の幼き調理師が今日のために見よう見まねで作った異様に濃い深茶色をした液体が入るグラスがきらりと光った。

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