どうで駄目でも夢を見よ #13
時として、過去歩いてきた路(みち)を省みてあっちが良かったこっちが悪かったなどと、己が決めた意に疑いを持つ事がある。疑いが晴れようものなら清々しい空気を腹一杯に吸い込み、脳の隅々まで流し入れたいと望むものだが、過去に遡る事など到底できない。そう云う事は百も承知だとわかっていながらも、尚も繰り返し自分が選択した帰路に立ち返ってしまうものである。
僕の母に翼を与え過去来た路に戻れると云うのであれば、母はその翼をへし折って鼻唄でも歌いながら前に進んで行くであろう。或いは、その翼を堂々と拡げ後方に目もくれず前々と飛び出して行くだろう。
母は仕事と家事をしていない合間、誰かもわからぬ手垢がこびり付いた書籍を読んでいる。紙面を捲る節々に、書籍の傍に置いてあるチラシの裏紙を束ねた自家製のノートにつらつらと何事かを書き綴る。うーんとかふーんとか云いながら、また何かを書き綴る。
「母ちゃん、何書いてるの?」
僕の隣で筆を動かす母に問う。
“ライト兄弟”に出会ってからだろうか、ダンボールの本棚から、書籍を抜き取り本を読むようになっていた。漢字も儘ならぬ一桁代の少年には複雑な漢字など読めぬ。ましてや純文学や古風満ち満ちた海外の文学など遠回しな表現かつ人生経験のない小僧には呪文のような感覚になるのであった。しかしとて、陽気に歌を奏でる姉と、黙々と絵を描く兄を横目に、特段趣味や特技のなかった僕は、仕事と家事から解放された母の隣に座り同じ事をする事は楽しくてたまらなかった。
「いい言葉があったらね、こうして書いてるんだよ。母さんはね、このおじさんみたいにいつか本を書いてみたいんだ」
そう云うと母は読んでいた裏表紙に写る彫りの深い男性を指差す。髭を生やし頬骨がこけ落ちた悲しげなその顔が、ロシアの文豪ドフトエフスキーであった事はそれから四年後僕が12歳の頃にようやくわかった。1846年、死刑宣告から一命を取り留め壮絶な人生感を得たドフトエフスキーの処女作となった「貧しき人々」の書籍であった。
「母ちゃん本書く人になるの?」
「なる、じゃなくて、なりたいだけよ」
そう言うと、母は再び筆を執りまたつらつらと書き始めた。
「本書く人になるのは難しいの?」
「そうね、小説家に私はなったことないからわからないけど、簡単ではないかしら。」
「しょうせつか?難しいんだね。いつごろなるの?」
「いつかしら、でももし小説家になれなくても、なりたいって思ってるのが楽しいのよ」
母はそう言うと、ニカっと笑って読んでいた頁に栞紐を挟み本を閉じる。水汗を垂らすアイス珈琲が入るグラスを持ち中に入っている液体を揺らす。そしてまた何かを思いついたかのようにつらつらと書く。
母は幼い頃から読書が好きだったらしい。当時夢見ていた小説家になる事を目指し文学の学校に入ろうとしたが、貧しい家庭であったせいか、大学に行く金はなく高校を卒業して働き始めた。儚くも仕事帰りに町の図書館や古本屋で立ち読みを繰り返し僅かな小銭を手にしてはお気に入りの書籍を買っていたと云う。
夢を見つける事は誇らしく夢を叶える事は尊い。しかしとて、幾千の可能性を持ちながらも其れを実現することの出来る人間は数える程でしかない。それが夢というものであり、幾多の失敗を繰り返し時として何一つ残さず散りゆく花を見届ける。振り返ると、歩んできた路は虚しく見え憎しみさえ生み出す。
ただ何故か、夢を追うと云う事は見る者の心を奮い立たせ何にも代え難い美しさを持っている。