見出し画像

想像と創造 #11

時間に取り残された微かな冷たい風が寂しく通り過ぎる。裸の木々達は小さな新芽を忍びやかに生やし、地で休息する虫達は暖かい陽の光を求めゆっくりと目を覚ます。一年の終わりを告げ、また新たな一年を迎えようと生きとし生けるもの達がそれぞれの命の繋ぎを紐解出す。

4月を迎えようとしていた。
僕は何十年もの大気に触れたであろう乾ききった畳の上に横になり、暖められていく空気の匂いを感じながら錆びつく網戸から外を見ている。人間の体を纏う任務を終えた洗濯物がゆらゆらと揺られひと時の休息をしている。僕の隣にはいつものように兄がうつ伏せになり白い紙に何かを描いていた。

「又郎は何か描きたいものないの?」
外の景色から目を移し、背丈が短くなった12色の色鉛筆を覗き込む僕に兄は聞いた。2ヶ月前に母が購入した色鉛筆は急速に自らの使命を遂げていた。
「んー、ぼくは何も描けないよ。兄ちゃんみたいに上手じゃないもの」
僕は体温が暖かくなった喉を低くならし、太陽が東から西に何時間もかけて動くようにゆっくりと返す。
「絵は何が上手か下手かなんてわからない。ピカソのゲルニカを見たことがあるだろ?あんなの何がすごいかわからない」
うつ伏せになっていた兄は首だけ僕の方に向けながら単調に答えた。相変わらずの抑揚がない低い音程を一定に保っていたが、絵について話すときはやはり心なしか熱を感じる。
兄の先には小机に肘を立て母がニヤニヤと笑いながら爪楊枝で白い歯をいじっている。兄弟二人のやり取りをどんなものかと横耳でチラチラと聞いているのがわかる。

僕は再び錆びれた網戸に目をやり首を窓枠から外に出し無限に広がる空を眺めた。透き通るような水色の広大な空に白い雲が渦を巻いている。
「僕にもなにか描けるのだろうか」
声に出していたのか、心の内で感じた声なのか無限の空に心を奪われふと言葉を発していた。
空には分裂した雲がゆっくりと動いている。その隣には結合し混じり合っていく雲もいる。それらは形を持たず綿菓子のようにも見えるし、フワフワの布団みたいで寝転びたくもなる。ぐるぐると渦を巻き雲が何かの形に見えてくる。何か描けるだろうか?頭の中の空想と本物の雲がぐるぐると動き出す。ふと、何かの形付いた雲が形成される。

「兄ちゃん、紙と色鉛筆何色でもいいから貸して」
空に浮かぶ絵面を忘れまいと一刻を争うように急ぎ足で兄に言った。身を乗り出し兄がどれにしようかと選ぶ前に、これでいいやっと紫色の鉛筆を拝借する。兄から白い紙を受けとると、もう一度透き通る水色の空に浮かぶ線を頭に入れ込み体の芯を通過させ指先に意識を集中させて書く。雲の僅かながらもはっきりと分かる輪郭を線で描き雲が重なりあう濃淡を表現できるように力の加減を調整する。

「兄ちゃん、ほれ、できた」
僕は出来上がった紙面を兄に差し出した。
「ほー」
兄は小さな眼を大きく開き微塵の濁りも見えぬ紺色の瞳をその紙面に向けた。
「なあなあ、お母ちゃん、こっち来て」
いつにもなく大きな声で兄は母を呼ぶ。爪楊枝で歯をいじりながら喉をならし、好奇心をむき出しにニヤニヤと笑いながら母がこちらに近寄ってくる。暫く兄が指差した紙面に眼を移す。
「ほー、 又郎これどうやって閃いたの?」
母は聞く。
「雲が動いたんだよ。考えてたらぐるぐる動き出したんだよ。兄ちゃんはぼくに絵を描いてもらいたくって、ぼくは兄ちゃんにドッジボールをやってらいたいって思ってるだろ。僕らはそれぞれそんなの嫌だって言ってるんだ。だけどね、実はやってみたいな、と思ってるんだ。それをね、お母ちゃんは分かっているようにニヤニヤと見てるんだよ」

それはいつの日か姉が歴史の教科書で見ていた朝鮮をめぐる日清の対立とロシアの野心を描いた漁夫の利の“風刺画”に近いものであった。
不自然な線ではあるが、不器用ながらも湖を真ん中に両サイドの異なる陸から二人の少年が釣りをしているのがわかる。一人は真っ直ぐな髪の毛でもう一人は鳥の巣のようなぐるぐる巻きの髪の毛をした容姿で坐っている。真っ直ぐな髪の毛の少年の釣り先には円いボールが吊るされ、ぐるぐる巻きの少年の釣り先には紙面と一本のペンが吊るされている。二つの陸を分裂させる湖の上には一本の橋が架かり一人の女性が爪楊枝で大きな歯をいじりながら釣りをする二人の子供の光景を見ている。

「又郎、すごいじゃんか」
兄はニッコリと笑い弟に言った。
「あんた達、いいコンビだね、一人は絵を描く“ソウゾウ”力を持っていて、もう一人は雲からアイデアを生み出す“ソウゾウ”力を持ってる」
母はニッコリと笑い僕に言った。歯茎が見えるようにニカッとし、兄と僕の素材の違う頭の上に手を置きぐしゃぐしゃにしながら笑っていた。

「“ソウゾウ”ってなんだ?」
僕は意味のわからないその言葉に疑問を感じながらも、なんだか嬉しくなり鼻をすすった。顔の筋肉が弛緩し頬っぺたが火照るのを感じる。

“ソウゾウ”か。
なんだかかっこいいや、と思いながら僕は窓から顔を出し空を見ながらニカッと笑ってみせた。いつまでも、いつまで経っても太陽が沈むことなく、無限大に澄み渡る水色の空にあればいいのに、と思うのであった。

遺伝子からの届け物 #10
貧しき者が手に取る本 #12

#小説 #コラム #エッセイ #短編 #家族 #愛 #お金 #育児 #珈琲の木

いいなと思ったら応援しよう!