先生としての役割を全うする…とは?
こんばんは、ソルティーです。
いろんな人と会うと、「なんか嫌だな」「この人とは近づきたくないな」って思ったりすることが一つや、2つあるかなって思います。
でも、その嫌なことは本当にその人の全てなのか?と言ったら違うはず。
今回は嫌だなって思った時に思い返して欲しい『心に響く小さな5つの物語』の一部を伝えます。
本の内容
どうしても好きになれない少年
その先生が5年生の担任になった時、一人服装が不潔でだらしなく、どうしても好きになれない少年がいた。
中間記録に先生は少年の悪いところばかりを記入するようになっていた。
ある日、少年のいち年生からの記録が目に留まった。
「朗らかで、友達が好きで、人にも親切。勉強もよくでき、将来が楽しみ」
とある。
…間違いだろう。他の子の記録に違いない。先生はそう思った。
二年生になると、
「母親が病気で世話をしなければならず、時々遅刻する」
と書かれていた。
三年生では
「母親の病気が悪くなり、疲れていて、教室で居眠りする」
後半の記録には
「母親が死亡。希望を失い、悲しんでいる」
とあった。
四年生になると
「父は生きる意欲を失い、アルコール依存症となり、子供に暴力をふるう」
…先生の胸に激しい痛みが走った。
先生としてできることはなにか?
ダメと決めつけていた子が突然、深い悲しみを生き抜いている生身の人間として自分の前に立ち、現れてきたのだ。
放課後、先生は少年に声をかけた。
「先生は夕方まで教室で仕事をするから、あなたも勉強していかない?分からないところは教えてあげるから」
少年は初めて笑顔を見せた。
それから毎日、少年は教室の自分の机で予習・復習を熱心に続けた。
授業で少年が初めて手をあげた時、先生に大きな喜びがわき起こった。少年は自身を持ち始めたのだ。
心を開けば心が開く
クリスマスの午後だった。
少年が小さな包みを先生の胸に押し付けてきた。
あとで開けてみると、香水の瓶だった。亡くなったお母さんが使っていたものに違いない。
先生はその一滴をつけ、夕暮れに少年の家を訪ねた。
雑然とした部屋で独り本を読んでいた少年は、気がつくと飛んできて、先生の胸に顔を埋めて叫んだ。
「あぁ、お母さんの匂い!今日はすてきなクリスマスだ」
絆の強さ
六年生では、先生は少年の担任ではなくなったが、卒業の時、先生に少年から一枚のカードが届いた。
「先生は僕のお母さんのようです。そして、今まで出会った中で一番すばらしい先生でした。」
それから六年後、またカードが届いた。
「明日は高校の卒業式です。僕は五年生で先生に担任してもらって、とても幸せでした。おかげで奨学金をもらって医学部に進学することができます」
十年を経て、またカードがきた。
そこには先生と出会えたことへの感謝と父親に叩かれた経験があるから、患者の痛みが分かる医者になれると記され、こう締めくくられていた。
「僕はよく五年生の時の先生を思い出します。あのまま、ダメになってしまう僕を救ってくださった先生を神様のように感じます。
大人になり、医者になった僕にとって最高の先生は、五年生の時に担任してくださった先生です。」
そして一年後、届いたカードは結婚式の招待状だった。
「母の席に座ってください」と一行、書き添えられていた。
自身の役割を全うする
このストーリーの伝えたいことは、人は今の行動をなぜ起こしているのか?には理由があるよということだと思います。
ですが、僕の中ではもう一つ大事なことに気づきました。
それが『先生としての役割』です。
服装が不潔でだらしない…何もこの少年の中身を知ろうとしなければ、頭ごなしに叱ってしまうと思います。
でも、この先生はこの少年の人生を紐解いた。
そして、やったことは『分からないところがあれば勉強を教えるよ』ということからです。
そのほかにもいろんなやり取りがあったとは思いますが、先生は先生としての役割を全うしたというのがとてもすごいことだなって感じるのです。
先生はあくまでも先生であり、それ以上の存在ではない。
だけど、自分に与えられた役割を全うし、その少年の心を汲んだ対応をする。
それが如何に大切で、簡単にはできないことか…。
ついつい先生はなんでもしようとしてしまうかもしれないのですが、この『役割』を最大限発揮したからこそ、この結果が生まれたのではないか?とも感じるのです。
皆さんはどう思いますか?
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