建前について
5月だ。
5月といえば、NPO的にドタバタする季節。
そう、『総会』という時期だ。
教員支援の法人T-KNITの総会もそろそろだ。
しかし、総会という形式に苦しさに僕はモヤモヤしている。
そもそも総会は司会を立て、議長を立て、参加者からの質疑応答がある。
さらには台本もある。
すべて形式が整っている。
しかし、心には響かない。
そもそも総会は建前で行う会合らしい。
一体何が嫌なのか分からないが、僕の戯言に今日は付き合ってほしい。
建前とは何なのか?
本音と建前という言葉ある。
「本音」は、何かしらの事柄に対して、個人や集団に共有される意識に内在する感情や欲求を含む価値観に照らして心に抱かれるものであり、これは全く自由な心の働きによって形作られる。同義語には「本心」が挙げられ、自身に対する偽り(嘘)を含まない。
ただこういった本音は、その人や集団が社会から期待されていたり求められるものとは食い違うこともある。そういった対外的な要素を加味して形作られるものが「建前」である。建前では、本音のうちで余り他に知られることが芳しくない事柄が語られない一方、例え本音では自身が望まない事柄であろうとも、それを肯定することで結果的に自身の望む結果が期待されるなら、敢えて認めるなどされてしまう。建前は「表向きの方針」とも解され、実際の方向性はともあれ、対外的に表明される。そのためメディアであったり公的な場では、本音が語られることは少ない。
建前は自身が望む結果を得られるなら、苦虫を噛み潰したような形になろうとも、自身の目的・目標を達する。
これが重要なことなのだと。
うーん、しかし、モヤモヤする。
僕的にはこの形だと「とりあえずやる」というイメージが強い。
大事なのは「伝える意識」ではないだろうか?
建前がもたらす効果
さきほどの話だと建前は必要悪というイメージだ。
建前があるから本音が輝く。
本音に人が集まってくるというイメージがある。
しかし、このガチガチな形式はひどく男性的だ。
共感も感動もなく、ただ淡々と冷静にまるでロボットように進められるのだ。
分かち合うなど今までの総会では感じられなかっただろう。
本音というより素直でいたい…が。それはエゴなのだろうか?
できれば僕は本音で…いや、どちらかというと素直でいたい。
しかし、それで必要なものが揃わないということもある。
しっぽを振ればたくさんの人が助かるのかもしれない。
乗っかれるところには乗っかる。
とても大事なことだ。
僕がこういう形式が嫌いだというのは単純に僕のエゴだ。
それはどんなに辛いことがあっても、手段を選ばず勝ちに行く!ということからは程遠い。
私情をはさんでいる状態だ。乗っかれば助かる人はたくさんいるだろう。
しかし、それが世界の秩序を乱しているかもしれない。
それがかたっ苦しい形式だ。
会議・オフィス内よりもお酒の席で本音が語られやすいので、飲みにケーションによる接待・根回しも必要とされることも多い。しかし子供のいる女性の参加が難しく、それが日本で女性管理職が少ない原因といわれている。社会問題・事件については、ニュース⇒ワイドショー⇒週刊誌⇒居酒屋談義・ネットになるにつれ本音が語られやすい。
本音を語る場は建前の後に設定されることが多い。
それが新しい世界、今までいなかった人たちの排除につながっている。
女性進出が妨げられる要因の一つだ。
本音で語ることを忘れ、建前で生きる。
そんな世の中に明日はあるのだろうか…。
悩む今日このごろであった。