席を譲れ

 今夏の耐えがたき猛暑も一息ついたと思いきや、まだまだ汗かきぬぐいと忙しなく手拭いを動かしていた今日の午後の話をしよう。

 人に言えないような仕事では無いが全くといって誇れるものでもなく漫然と社会の底辺にぶら下がっているような立場の人間だが一応仕事で電車に乗っていた。客層はいつもと変わらない色とりどりの老若男女である。都心も都心である新宿をまたぐように移動していたころ、どの駅だったか忘れたが年幼い子供がリュックと手提げといった大荷物で乗り込んできた。大勢の大人たちの中にいて、私に荷物をぶつけながら心もとなくふらふらと電車の振動に耐えていた。

全くけしからん。
 この子は吊革に手が届かないのだ。大人どもは何故手すりの近くを譲ってやらないのか。とりあえずその子が手すりがある場所に入れるように私が身体を動かして奥へ入るよう促すと、おずおずとその場所へと潜り込んで手すりをつかんだ。その子以上に手すりをつかめた事に安堵していると、私の前の席の人間が次の駅で降りようとしていた。

よし。
 その子を席に座るよう手で促す。「どうぞ座って」なんてもしも声を出した暁には周りの大人に見つかってしまうだろう。その子も多分、謙遜するだろうし。いいの?という風にこちらを伺うその子に、何度か頷く。正直な話自分も疲れていないわけでもないし、座れるもんなら座る。でも今は優先順位ってもんがある。隣の人間が私が座らないなら、といった動きをしていたがそっちは一旦無視しておく。手すりを遠慮がちに掴んでいたその子は、ついにほっとした表情で手提げかばんを抱え込んでいた。

 偶然というほどでもないくらい乗り降りが多い駅でその子も私も降りた。何度もペコペコとお辞儀され、私のエゴなのになと内心思いながら笑顔を取り繕う。フォロワーさんたちはご存じの通りめちゃくちゃにキモい顔なので、もしかしたら化け物に席を譲られたと、その子は友達に話すかもしれない。どうかいっそ都市伝説になってくれ。

 私は電車が嫌いで、特に学生の頃とても嫌な思いをずっとしていてついに不登校となり、今はこんな調子で陰惨たる生活を送っている。大人に助けを求めても拒絶され、絶望したことを忘れられない。あの子供が自分に重なったわけではない。私のようになるな。今の世の中なら、もしかしたら大人は助けてくれるかもしれない。辛い事があった時に、化け物が席を譲ってくれたことを思い出せればいい。

 あと将来的に私がヨボヨボくしゃくしゃのフラフラになったら、その時は席を譲りたまえ。その時にはきっと忘れているだろうから、一旦ノートに書いておく。


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