法隆寺の鐘
法隆寺、という名前は知っているけれど、どういうところなのか、というのは、何も知らなかった。マップルで、法隆寺のページを見たときに、そのことに気が付いた。知っているのは五重塔くらいで、あとは、何も知らなかった。小学校の社会の授業の最初の方に出てきた、という以外に、法隆寺の名前が記憶に残っている材料がなかった。
奈良には、他にも観光地がたくさんある。若草山の鹿。東大寺の大仏。興福寺の阿修羅像。これらに対して、社会の授業で最初の方に習った、と、五重塔、で立ち向かう法隆寺は、一観光地として考えた場合、ちょっと弱かった。ちなみに、拝観料は1500円で、他の観光地と比べて、ダントツに高い。ツーリングのルートに組み込むのは難しくないけれど、時間もかかるし、どうしたものか、と、あまり盛り上がらない気分で、マップルを眺めていたら、こんなのが見つかった。
柿食えば 鐘が鳴るなり 法隆寺
これも知っている。小学校の、国語の授業で習った。法隆寺は、科目に関係なく、小学生の授業によく出る。小学生の時は、鐘が鳴って、だから何だよ、と、思った。この歳になると、柿を食べているときに、思いがけず鐘の音が聞こえる、というのは、風情があるなあ、と、思う。柿は苦手だから食べないけど。
興味が出たので調べてみると、法隆寺の鐘は、2021年の現代においても現役だった。二時間おきに、時の数だけ、鐘が鳴るという。これは、聞きたかった。観光地としてちょっと弱かった法隆寺に、行きたい理由が見つかった。
法隆寺には、予定通り、三時半に着いた。先に、五重塔を見てから、4時に、鐘が突かれるのを見に行く予定だった。
小学校の社会の授業で、法隆寺には五重塔がある、と、習ったとき、五重塔、という建造物は、建てるのに大変な技術が必要で、法隆寺に一つしかない、と、勝手に思い込んでいた。実は、日本全国の神社仏閣に、五重塔、という建造物が、ちょいちょい建っている、というのを知ったときは、だまされたような気がした。ついさっき、興福寺でも、五重塔を見た。興福寺の五重塔の方が、法隆寺の五重塔よりも、大きくて、立派に見えた。でも、まあ、社会の授業で習うくらいなのだから、法隆寺の五重塔が、日本中の五重塔の頂点なのだろう。
それより、興福寺には、スター阿修羅様がいるにも関わらず、法隆寺の最後の切札の五重塔もあったりしてしまって、法隆寺の観光地としての強みは、ますます社会の授業頼みだ。興福寺も興福寺だ。五重塔くらいは、法隆寺に残してあげてもいいだろう。私は、法隆寺の、何を心配しているのだろうか。
4時の10分前になった。鐘のところに行った。
鐘は、法隆寺の奥の方のお寺の裏に、普通にあった。時間を知らせる鐘なので、勝手に突かないでください、という、看板がかかっていた。周りは、鎖で囲われていた。鎖には、鍵がかかっていた。
由緒ある有名な鐘のライブパフォーマンスなので、オーディエンスも、それなりに集まるだろう、と思っていたのに、4時まで、あと数分、になっても、鐘の前には、私一人だった。
鐘の前で待っていると、4時直前に、お坊さんがやってきた。お坊さん、だと思う。作務衣のような服に、スニーカーを履いた、私より少し年上のおじさんだった。お坊さんは、鎖の鍵を外して、中に入った。鐘を取り囲む石の欄干の上に、手に持っていた目覚まし時計を置いた。その隣に、白い小さな石を、四つ置いた。それから、耳栓をして、軍手をはめた。耳栓と軍手から、日常業務感を強く感じた。白い小さな四つの石だけが、趣を感じさせた。
いよいよ、4時まで、1分を切った。お坊さんが、軍手をはめた手で、鐘つき棒の紐を、しっかりと握った。その姿勢のまま、前に構えた左手の腕時計を、じっと見た。欄干の上の目覚まし時計は、全然見なかった。時が止まったかのような静寂が、数秒間あった。それから、お坊さんは、鐘つき棒を、ぐっと鐘に近づけてから、躊躇なく紐を引き、勢いよく鐘を突いた。
コーーーーーーン。
思ったよりも高音の、とんでもなく大きな音が鳴り響いた。予想以上に大きな音だった。油断していたので、反射的に、首が縮こめてしまった。体で、音の波を感じた。お坊さんは、白い石を一つつまんで、動かした。鐘の音の余韻は、長く続いた。インターネットで見た観光ガイドには、この余韻が消えてから、次の鐘をつく、と書いてあった。鐘の余韻は、二十秒経っても、三十秒経っても、ずっと続いていた。細くまっすぐに滴る一筋の水のような鐘の余韻は、心地よかった。まだ、余韻は小さく続いていたけれど、お坊さんは、再び、鐘つき棒の紐を、しっかりと握った。左手首の腕時計を、じっと見た。鐘を突くインターバルは、時間で決まっているらしかった。
コーーーーーーン。
お坊さんは、いたって業務的に、鐘を突いた。正岡子規が柿を食っているときに鳴った鐘も、きっと、同じように、業務的に突かれていたのだろう。柿を食べているときに聞く鐘の音に風情があるからと言って、鐘を突く姿にも風情があるとは限らない。お坊さんだって、二時間おきに風情を醸し出すのは大変だ。それにしても、鐘の音の余韻は、心地よかった。
お坊さんは、業務的に、一分おきに鐘をついた。そして、四つ目の白い石を動かすと、鐘の余韻が続いている中、石と、目覚まし時計を持って出てきて、鎖に鍵をかけて、業務的に引き揚げていった。
目の前には、無人の鐘があって、余韻が、まだ続いていた。
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