20世紀ウイザード異聞【改稿】1-②
・保管庫No.5
落ちる。
何かの強力な圧力に押しつぶされそうになりながら、どこまでも落ちてゆく。
(苦しい。潰される!)
ステファンはもがきながら、自分を押しつぶそうとしているのが膨大な言葉の渦だという事に気付いた。
言葉。言葉。言葉。
脈絡のない言葉が列を成してステファンの中に流れ込もうとしている。頭が割れそうだ。息ができない。
「全テヲ受ケ取ロウトスルナ。見ルベキ物ニ目ヲ開クンダ」
ファントムの声と共に、ひやりとする金属の感触を顔に感じた。途端に、ステファンの呼吸は楽になり、言葉の渦は形を整えていく。
風の音。木々の揺れる音。眼下に森や湖が見える
ステファンは、自分がまだ空中に居ることを知った。
不安定な姿勢のまま見上げると、空の一部が窓のように四角く切り取られ、そこからさっきまで居た書庫が見えた。そうだ、『保管庫』の本の中に落ちたのだ、とステファンは思い出した。
あの四角い窓は本の入り口だ。なぜここが別世界のようになってしまったのかは知らないが、あの入り口に辿り着けば書庫に帰れるはずだ。
懸命に手を伸ばすのだが、身体はまるで風に煽られる木の葉のようにくるくると舞って、思うように動けない。もがいているうちに、入り口は次第に遠ざかってしまった。
風が吹く。ステファンは上下の感覚もなく吹き飛ばされ、気が付けば森も湖も飛び越して、岩だらけの荒れ野の上を飛んでいた。
ふと下を見ると、岩陰に人が居る。黒髪で彫りの深い顔立ち――見覚えのある顔だった。
(お父さん!)
ステファンは目を疑った。家に居た頃より随分若く見えるが、間違いない。オスカーは岩から岩の距離をメジャーで測り、目を輝かせて手帳に何かを書き込んでいる。
(お父さん、お父さん!)
大声で呼びかけるのに、遠すぎるせいか強い風のせいか、父の耳には届いていないようだ。
どう、と風が吹く。再び吹き飛ばされたステファンを強い太陽光が照らした。風がいやな臭いを運び、皮膚がひりひりとする。明らかにさっきとは違う場所だ。赤茶けた土の上を、銃を背負いヘルメットを被った人影が通り過ぎる――オスカーだ。ここにも父が居たことを不思議に思う暇もなく、ステファンは目で後を追った。
「ようオスカー、そっちは?」
誰かに呼びかけられ、振り向いた顔を見てステファンは驚いた。さっき見た時のオスカーとは違う。顔中に髭が伸びていて、頬がこけている。
「ひどいもんだ。遺跡を銃座にしてる連中まで居たよ」
「どのみち、こんな戦争もうすぐ終わりさ。早く本国に帰って赤ん坊に会いたいだろう?」
「もちろん。もう名前も決めてある。ステファンというんだ」
(どういうことだろう……)
再び風に飛ばされながら、ステファンはさっきオスカーが言った言葉を思い出していた。
(ぼくが赤ん坊って? それに戦争って? 大きな戦争なら、ぼくが小さい頃に終わったって聞いたのに)
何度も違う場所に飛ばされ、その度に違うオスカーを見た。ステファンはもう父に呼びかけようとはしなかった。
(そうか、ここはお父さんの思い出の中なんだ。ぼくの声は届かない。木の葉みたいに飛びながら見ていることしかできないんだ……)
ふと風が止む。ステファンは見覚えのある場所に立っていた。
「ステファンこっちへいらっしゃい、いいお天気よ」
長い金髪の小柄な女性が、芝生の上で呼びかけている。その灰色の目を見て、ステファンは驚いた。
(お……お母さん?)
輝くような笑顔をした、若い母がそこに居た。母がこんな風に髪を下ろした姿など、しばらく見ていない。ステファンにとって母ミレイユは、常にぴっちりと髪を結い上げ、凛とした眼差しで家を取り仕切る厳格なイメージしかなかった。
「おや、日光浴かい? そうだフィルムがまだ残っていたから写してあげよう」
カメラを手に現れたのは、若いオスカーだ。それを見て、好奇心いっぱいの顔でちょこちょこと走ってくる幼子がいる。
(あれは……ぼく?)
確か三歳くらいの頃だ。ここは黄色い屋敷の中庭に違いない。この日のことは覚えていないが、柔らかな陽射しの中でカメラを向ける父の姿だけは、妙に覚えている。
「ステファンだめだよ、そんなにカメラに近づいちゃ写せないよ」
オスカーが笑いながらシャッターを切る。その隣で声をあげて笑うミレイユ。
こんな日もあったのだ。
こんな明るい母もいたのだ。
見ていると鼻の奥がきいぃと鳴り始める。
「お父さん! お母さん!」
聞こえないとわかっているのに、ステファンは叫びながら思わず手を伸ばした。
カラン。
金属の落下する音と同時に、目の前の全てが消えた。
「フウ、危ナイ危ナイ」
さっきまで顔に貼り付いていた仮面が外れている。茫然としているステファンの足元で、そいつは鈍く光りながら笑っている。
「ファントム!」
ステファンの息はあがり、頭はガンガンしていた。見回すと、オスカーのコレクションがいっぱいだ。つまり、ここはNo.5保管庫の本来の姿だ。
目の前の床には一冊の分厚いノートが落ちている。ファントムは舞い上がり、ノートの上に降りた。
「弱虫、泣キ虫、過ギタ時間ハ戻ラナイ」
「なんだよ!」
ノートの上からはたき落とそうとするステファンの手を、ファントムはたやすくすり抜けた。カンに障るような笑い声が響く。ステファンは構わずに、ノートを手に取った。見覚えのある文字と写真が並んでいる。
「これ、お父さんの字だ……」
各地の遺跡を研究していたオスカーは、その記録を克明に残していた。さっきステファンが飛んでいたのはまさに、このノートに記録されている場面だ。だが最後のページに貼り付けられていたのは、遺跡ではなく、無邪気な笑顔を向ける幼いステファンの写真だった。
「他には? この続きはないの?」
薄暗い保管庫の中には、まだ整理のついていない魔道具と共に古文書やノート類が積み上げられている。ステファンはその中にオスカーの筆跡を探した。
「探サナイホウガイイ」
ファントムの声など無視してステファンは探し回ったが、ふと思いついて、本の山に呼びかけた。
「ステファン!」
すぐに、何冊かが反応して光り始めた。これはオスカーが教えてくれた『言葉探し』だ。本に向かって単語を言うと、該当文字が光って見える。もちろんミレイユには内緒の、ステファンだけにできる遊びだった。ステファンはその光を頼りに、片っ端から本を開いてみた。
『Stephan』のおおかたは古い聖人の名であったり、外国の作家名であったりしたが、やがて一冊の日記帳らしい本に、ひときわ強い光を見つけた。「ヤメロ!」
ファントムの声が遠ざかる。ステファンは再び本の中に自分の意識が落ちていくのを感じた。
再びの、言葉の渦。
ステファンはなんとかこらえようとしたが、幾千の音叉が頭の中で鳴り響くような感覚に耐えられず、結局あの憎たらしい仮面に助けを求めてしまった。
「ファントム!」
すかさず冷たい金属が顔に貼り付く。情けないが、この仮面の助け無しにこの渦を乗り切ることはできないようだ。
ここはどこだろう。
古いゴブラン織りの椅子と猫足のテーブルには見覚えがある。そうだ、ここはステファンの生まれた家、黄色い屋敷の中だ。
「ほうら、できたよステファン」
居間の入り口に現れたのは父オスカーだ。紙を切り抜いて作ったハトをテーブルに乗せて微笑んだ。
「やってみてごらん」
幼いステファンは嬉しそうに目を輝かせ、テーブルに向かって叫んだ。「ククゥ、つかまえた!」
その声に応じるかのように、テーブルにあった紙のハトがひらひらと舞って、小さな掌に落ちてくる。ああそうだ、と見ているステファンは思い出した。「ククゥ」は父がよく作ってくれたハトだ。こんな小さな頃から遊んでいたっけ。
ところがそんな感慨も、聞き覚えのある声に吹き飛んだ。
「オスカー! なんて遊びをさせてるの!」
家でよく聞いた、母のヒステリックな声だ。
母はひきつった顔で幼いステファンを抱き寄せると、「ククゥ」をむしり取って言った。
「こんな遊び、しちゃいけません!」
「ミレイユ、別にいいじゃないか。この子は才能があるんだよ」
呑気な口調で言うオスカーを、ミレイユはキッと睨んだ。
「そんな才能、要りません。あたくしの息子は、兄たちのような目には遭わせないから!」
幼いステファンは母の剣幕に驚いてか、泣き出した。ミレイユは構わず、息子の手を引っ張って居間から出て行ってしまった。床の上に残されたクシャクシャの「ククゥ」を拾い上げた父オスカーが、やれやれという風に首を振る――
風が吹く。本のページをめくるように、目の前でいくつもの場面がせわしなく入れ替わる。
その中のいくつかの場面は、ステファンの記憶にもあるものだった。
オスカーが教えてくれた言葉探し。初めて乗せてもらったスクーター。不思議な魔道具のコレクション。銀髪のオーリの姿もかいま見えた。そして――
「何度言ってもムダですわ。魔法なんて、この世には存在しないんです。ステファンは普通の子供で充分。オスカー、どうしてもこの子の変な力を認めさせたいというのなら、あたくしにも考えがあります」
凛とした母の声が聞こえた。暖炉に火が焚かれているところをみると、ここは秋か冬だろうか。
暖かいはずの居間の中は、凍りつくような空気だ。険しい眼差しを向けるミレイユの次の言葉を、ステファンは覚えていた。
「いつもいつも夢みたいなことばかり言って。あなたは遺跡やコレクションと結婚すれば良かったんですわ。あたくしは決めました。オスカー、あなたとは離……」
「やめてーっ!」
ステファンは耳を押さえ、目を閉じた。途端に顔に貼り付いたものが剥がれて落ちる。
目を開けると、元の保管庫の中だ。ステファンは崩れるように座り、そのまま仰向けに倒れた。
「原因はぼくだったんだ……」
仰向いたまま、ステファンは苦しい呼吸をした。頭が割れそうに痛み、目の端に涙がこぼれる。
「お母さんが機嫌悪かったのも……お父さんが出て行ったのも……ぼくが変な力を持ったせいなんじゃないか! こんな力のせいで……」
「ダカラヤメロト言ッタンダ」
ステファンを覗き込むようにして、ファントムが宙を漂っている。泣き顔を見られるのが嫌でステファンは腕で顔を隠したが、こらきれない泣き声が喉の奥から込み上げてくる。
もういいや。どうせファントムなんて仮面じゃないか。他には誰にも聞かれないからいいや。そう思うと、ステファンは小さい頃のように大声をあげて泣きだしてしまった。
どのくらいそうしていたろうか。
さんざん泣くだけ泣いて、ステファンはのろのろと起き上がった。
「……ファントム、君はお父さんのこと知ってたの?」
「ノン、ファントム、答エナイ」
いちいちカンに障る言い方だ、と思ったが、ステファンにはもうファントムをつかまえる気力はなかった。
「いいやもう。変な力なんていらない。魔法なんて修行したって、意味ないよ……」
「ケーッケケケ!」
ファントムが再び笑いだした。
「ヤッパリ弱虫ダ。弱虫、泣キ虫、イジケ虫ィー」
「なに……」
ステファンは痛む頭を押さえて立ち上がった。
「いいかげんにしてよ! ぼくは、そりゃ、ちょっとは泣き虫だけど、弱虫でもイジケ虫でもないぞ!」
「ソウコナクチャ」
ファントムはひらりと舞い上がると、急に重々しい声で言った。
「愚カナ迷子メ。拗ネテ済ムノナラバ、ソウシテイルガイイ。ダガソレデハ、イツマデモココカラ出ラレナイゾ」
さっきまでとの口調とは違う。仮面の表情までが厳しくなっている。
「ファントム? ぼくに、どうしろって?」
「ファントムハ注告シタ。ファントムハ止メタ。ダガオマエハ、ミズカラ踏ミ出シタ。ナラバ知ルコトヲ恐レルナ。オマエニ勇気ガアルナラバ、マダ知ルベキ事ガ有ルダロウ」
知るべきこと――ステファンは誰の名を口にするべきか、わかる気がした。ただし、今度は自分の目で事実を見よう。ファントムの仮面越しでなく。そう冷静に考えながら本の山に呼びかけた。
「――ミレイユ!」
考えてみれば、母ミレイユがなぜ魔法ぎらいなのか、ステファンはその理由を一度も聞いた事がなかった。ただ叱られるのは嫌だったし、たぶんおおっぴらにこの力を使ってはいけないんだろうな、くらいにしか思っていなかった。
『ミレイユ』という言葉に反応した光のうち、本ではなく箱の中から発せられたものがある。
開けてみると、中身は古い手紙の束だ。どれも開封済みだが、その差出人の細い文字は、確かに母ミレイユのものだ。
「ミレイユ・リーズ?」
ステファンはサインを見て首をひねった。リーズといえば母の旧姓だ。封筒をひっくり返して消印の日付を確かめると、どれも12、3年前の古い日付になっている。つまり、まだ両親が結婚する前のものだ。
手紙の束を手にして、ステファンは戸惑った。
両親の若い頃の話など聞いた事もないし、今まで気にした事もなかったが、娘時代の母ミレイユがオスカーに宛てた手紙だと思うと、急に眩しく思えてくる。きっとそこにちりばめられた文字は、父と母だけの大切な言葉だ。いくら息子でも、ステファンが勝手に読んでいいとは思えない。
けれどその中に、一枚だけ葉書があった。細かい文字でびっしりと書かれている。
葉書なら――そう思ったステファンは、心の中で母にごめんなさいを言いながら文字を目で追った。
意外にもそれは、母の兄姉について書かれたものだった。
『兄や姉は昔から、物を浮かせたり、見えないはずのものを見たりできるというのです……
私は信じません。そんなものは自然に反する、不道徳な力です。
その証拠に兄たちは皆、不幸な亡くなり方をし……
13人兄妹のうち……私だけでも正しい人間として生きていこうと……』
ところどころインクが消えかかって読みにくい文字を拾い読んでいたステファンは、信じられない思いで顔を上げた。
「変だよ。お母さんのきょうだいって、魔女や魔法使いだったの? ぼく、聞いた事ないよ」
「魔力ヲ持ッテイルダケデハ、魔女ヤ魔法使イトハ言エナイ」
ファントムは落ち着いた声で言った。
「あ、そうだね。お父さんだって魔力を持ってたらしいけど、魔法使いってわけじゃないってオーリ先生が言ってた。ねえファントム、さっきお父さんの日記の中で『兄たちのような目には遭わせない』ってお母さんが言ってたよね。それって、伯父さんたちが魔力をうまく使えなくて不幸な死に方をしたってこと? この手紙に書いてあるのも、そういうこと?」
ファントムが質問に答えないことを知っていたので、ステファンはぶつぶつと独り言を言った。
「だとしたら、ぼくの力はお父さん譲りってわけでもないのかな。あれ? でもお母さんには魔力は無いんだ。それじゃ……」
『へへーん、びりっかすのミレイユ!』
突然子どもの声がして、ステファンはびくっと顔を上げた。
薄暗がりの中にぽっかりと明るい空間があり、そこに何人かの子どもが立っている。その中に、ひときわ痩せて小さい女の子が見えた。女の子はぎゅっと口を引き結んで、目の前の大きな男の子を睨んでいる。
『おいミレイユ、こーんなこと、できるか?』
男の子は手の上で棒つきキャンディーを浮かせてみせた。
『俺たちはみんなできるぜ。お前にもできるんなら、キャンディー分けてやるよ』
女の子は懸命に手を伸ばしている。その小さな指先をかすめて、からかうようにキャンディーが踊る。
『ほら、ほーらあ、捕まえてみろって。できないのか?』
『無理よ、ミレイユったら変わり者なんだから。なぁんにもできないビリっ子ミレイユ!』
大きな子どもたちがゲラゲラと笑う中で、小さいミレイユは灰色の目にいっぱい涙を浮かべている。
見ているとむかむかとしてきた。まるっきり、ステファンが学校でいじめられていた時と同じ光景だ。
「やめろよ!」
思わず手近にあった本を男の子に投げつけた。
が、本は男の子の体をすり抜け、向こう側の壁に当たって落ちた。と同時に目の前の光景もかき消えてしまった。
「ヤレヤレ。ファントムノ助ケモ無シニ、イキナリ意識ヲ引ッパラレタカ。オマエ、イマニ壊レルゾ」
肩で息をするステファンの頭上で、ファントムが呆れたようにつぶやいた。
「だい……じょうぶ、3度目だもの、慣れちゃったよ……」
ふらつきながら、ステファンは無理して笑ってみせた。
「それよりさ、なぜお母さんがあんなに魔法を嫌うのか、少しわかった気がする」
ステファンは葉書の文字をもう一度見つめてから、丁寧に箱の中に戻した。
13人ものきょうだいの中で『ひとりだけ違う』と言われ続けたミレイユは、どんな気持ちだっただろう。集団の中で異端視される悲しさや怖さは、ステファンには嫌になるほどほどわかっていた。
母は、魔力を持たなかったために。
自分は、魔力を持ってしまったために。
変わり者と言われ、普通ではないと言われるなんて。
それじゃ、異端って何だろう。普通ってなんだろう。
「ばかみたいだ」
ステファンの目に再び涙が浮かんだ。
もしも時間を飛び越えてさっきの小さなミレイユと話ができたら、そんなキャンディーいらないって言っちゃえ、と味方してあげたかった。なんなら意地悪な大きい子たちに向かってあっかんべえくらいしてやる。
けれどあんなに偉そうに言ってたって、ミレイユの兄たちは結局みんな死んでしまったのだ。本当に、ばかみたいだ。
「ねえファントム。もし伯父さんたちにオーリ先生みたいな師匠が居たら、魔力のために不幸な死に方なんてしなかったよね? 伯母さんたちだって、あんな意地悪いわなかったよね?」
「答エナイ」
ファントムはいつもの調子で言いながら、なんだか嬉しそうな表情になっている。
ステファンは保管庫の天井を見上げた。いつの間にか四角い窓のような出口が戻って来ている。
「ココカラ出タイカ?」
「うん、出たい。外に出て、先生に会いたい。それで、ここで見たこと全部話したい」
「ウィ、ウィ。ソレナライイ」
出口の光がみるみる近づいてきた。ステファンは手を伸ばし、保管庫の縁にぶらさがった。
「ステファン!」
「ああ、やっと帰ってきた!」
出口からオーリとエレインの顔が覗き込んでいた。二人は両側からステファンの手をつかみ、そのまま保管庫の外へ引っ張り出してくれた。
「先生……エレイン……」
「いつまでたっても書庫から出てこないから心配したぞ。まったくなんて子だ!」
オーリは言葉と裏腹に嬉しそうな目を輝かせ、大きな両手でステファンのほっぺたを挟んでぐにゃぐにゃとする。
二人の顔を代わる代わるを見るうちに、ステファンはホッとすると同時に猛烈な眠気に襲われた。
「先生……ごめんなさ……」
言い切らないうちに、ステファンはオーリの肩に頭をぶつけて、いびきをかき始めた。
パチパチッ、と金色の火花が頭の中に飛んで、ステファンは目を開けた。「や、おはよう。それともお帰りというべきか」
水色の目がのぞきこんでいる。
途端に意識が鮮明になって、ステファンは慌てて起き上がろうとした。「ああ、急に起きないほうがいい。頭痛がするだろう」
確かに。頭の中で調子っぱずれの音叉が鳴り響いているようだ。再び枕に沈み込むしかない。
オーリはクッションをいくつか抱えてきて、ステファンの上体が起こせるようにしてからコップを差し出した。
「とりあえずは水だ。それから食事、と言いたいが3日ぶりじゃ胃にこたえるな。マーシャが今スープを用意してるよ」
「み、3日も寝てたんですか?」
コップの水を一気に飲み干してむせながら、ステファンはバツが悪い思いになった。
「正確に言うと、書庫に立てこもってから1日半、出てくるなり眠り込んで1日半。ファントムから聞いたよ。書庫でとんでもない透視をしてみせたって?」
「ええっと……」
ステファンは思い出そうとしたが、いっぺんにいろいろな事柄が頭に浮かび、どれから話していいかわからなくなってしまった。
「うん、ぼく謝らなきゃ。先生、約束破ってごめんなさい。No.5の鍵をひとりで勝手に開けちゃったんだ」
「そうだ、想定内の約束違反だ」
オーリは涼しい顔をしている。
「けど、保管庫に入ってからのことは思いもよらなかった。無茶というか、無謀というか、途方もないな。悪いけど、寝てる間に記憶を見せてもらったよ。教えてもないのにあんな危険な魔法なんてやっちゃダメだ」
「あれって魔法、だったんですか?」
「やれやれ、無自覚にあんな力を出したっていうのか。いいかい、あれは同調魔法といってね、モノや文字に刻み込まれた記憶に入り込んで追体験するやり方だ。訓練を積んだ大人の魔法使いだって、気をつけないと意識を引っ張られたまま戻れなくなることがあるんだよ。現にそれで廃人になった人もいる。ファントムが道案内になってくれなかったら、君は今頃どうなってたか」
ステファンはぞっとした。仮面のファントムに『今に壊れるぞ』と言われた意味が、初めてわかった。
「オスカーが居なくなったうえに君までどうかなってしまったら、残されたお母さんが可哀そうすぎる。あんまり突っ走るなよステフ。何のために師匠がいるんだい」
ベッド脇に腰掛けたオーリは、なぜか顔を向けずに、手だけ伸ばしてステファンの頭をがし、と捉えた。父と同じにおいがする。
「こんな頼りない師匠でもだ」
そう言って振り向いたオーリは、急に銀髪を振って頭を下げた。
「悪かった!」
叱られたパグ犬のような表情の師匠を見て、ステファンは面食らった。子どもに謝る大人なんて初めてだ。
「最近ずっと家の中がギスギスしてて君は辛かったよな。かっこつけて強引に連れてきておいて、このざまだ。大切なオスカーの息子なのに……ごめんな。言い合いをする場所は選ばなきゃ、ってエレインとふたりで反省したんだ」
あのエレインも反省するんだ、と驚いていると、オーリは気取った公用語ではなく『僕』口調の田舎なまりになって話を続けた。
「君もうすうす気づいてるとは思うけど、僕の目は人の心を読んじまうことがある。だから他人との会話コミュニケーションで苦労したことはあまりなかったんだ」
やっぱりなのか、とステファンは思った。それってずるくはないのか。「けどエレインだけは別だ、どうしても心が読めない。まして彼女は竜人だから、僕ら人間とは違う考え方をする。言葉を尽くして理解し合わなきゃって頭ではわかってるんだけど。お互い感情的になっちまったらどうにもね……対等に考えを伝え合うってのは、こんなに難しかったんだな。まだまだ修行が足りない。ダメ師匠だ」
オーリがあまりにしょげかえっているものだから、ステファンはいたたまれなくなってきた。
「そんな、ぼくのほうこそあの、ごめ……」
「ステーフ! 起きた?」
赤いつむじ風のようにエレインが飛び込んできた。返事をする間もなく、オーリからステファンをひったくると、
「生きてる! 生きてる! 良かったぁ!」
と、骨も折れんばかりの怪力で頬ずりしてくる。最初に会ったときと同じだ。どこが反省してる、だ? ステファンは必死で突っ張った。
「痛い痛い、頭が割れるっ」
「そのくらいは我慢しろステフ、エレインのハグなんて贅沢なんだぞ。さあもうお互いに『ごめんなさい』は終わりだ!」
オーリはいつもの笑顔に戻って両腕を広げ、2人をいちどに抱きしめた。「坊ちゃん、スープを……おやまあ」
スープの盆を持ったマーシャが、子供部屋で大騒ぎする3人を見て呆れ、それから袖口でスン、と鼻をすすった。
――なんだ、ケンカしても仲直りってできるもんなんだ。
もみくしゃにされて笑い転げながら、ステファンは今さらのように帰ってこられて良かった、という思いをかみしめた。それに両親以外にも、自分を大切に思ってくれる人たちがいるのは、うん。なかなか悪くない。
翌日にはもう外に出たくてしょうがなかったのに、ステファンはベッドでおとなしくしているよう厳命された。
「あれだけ消耗したってのに自覚してないとはすごいな」
オーリは呆れた顔で、ついでに書庫もしばらく立ち入り禁止と告げた。これはショックだったが、約束を破って鍵を使ったのはステファンだ。罰は受けなくてはならない。ベッド脇に掛けてあった服のポケットから鍵束を返そうとするのを、オーリが制した。
「持っていなさい。そもそも僕に鍵なんて必要だと思う? 解錠なんて初歩の魔法だよ」
「ええ? じゃ、なんのためにこれを……」
「君のために決まってるじゃないか」
オーリはニヤリとして答えた。
「ステフならきっと、旺盛な好奇心で保管庫の探検に出かけると思っていたんだ。ファントムも居るし、まさかあんな高度な魔法を使うとは思っていなかったから、油断してた。力を上手く制御するためにも、そろそろ杖が必要かな……手続きがややこしいけど、申請しておくか。あと、君は文字の力に影響を受けやすいようだから、書庫のほうも整理したい。しばらく時間をくれないか」
「あ、なんだそういうこと」
ステファンは胸をなでおろした。
「それにしてもあの保管庫ってすごいや。いったいどんな魔物が作ったんですか? 会ってみたいな」
「もう会ったじゃないか」
「え、どこで?」
「書庫の中だよ。君は、いったい誰に道案内してもらったんだ」
あ、とステファンは目を見開いた。
「ファントム! あのファントムが、魔物だったの?」
「そう。ファントムという名は、僕が勝手につけたんだ。彼は古い時代から生きてるらしいけど、あの仮面に封じ込められて長い間古魔道具屋で埃を被ってた。ああやって空間を拡げてもらう代わりに、こちらは新しい知識を与える、って取引をもちかけると、喜んで書庫の主になってくれたよ」
書庫の主。確かにそういう感じかもしれない。自由きままに飛び回る仮面の姿を思い出して、ステファンは可笑しくなった。
「でも彼は今眠ってるよ。本来は人間に知識を与える存在じゃないのに、何度か君に助言を与えたりしただろう。だから疲れたって」
「そうなんだ。お礼を言いたかったのにな」
「11月の聖花火祭にはまた会えるさ」
聖花火祭、父オスカーが家を出たのもその頃だったなと、ステファンはぼんやり思った。
ステファンが起きて歩き回れるようになった頃、母から手紙が届いた。ミレイユの文字は相変わらず几帳面で細かい。文面を目で追ううちに、ステファンは笑い出した。
「先生、見てよこれ」
居間でお茶を飲んでいたオーリは、怪訝な顔で手紙を受け取った。
「えーとなになに『私の大切なステファンへ どうしても言っておかなければならないことがあります、驚くとは思いますが冷静に読むように』……これ、僕が読んでもいいのかな?」
ステファンは笑いながらうなずいた。手紙を読み進めたオーリは、うーん、とうなった。
そこにはリーズ家13人兄姉でミレイユ以外の者が持つ『変な力』のことが、まるで重大な秘密を告白するかのように綴られてあった。しかもミレイユ自身はなぜかそのことをしばらく忘れていたというのだ。
「これによると、お母さんは君が保管庫で見たのとそっくり同じ光景を夢で見て、昔を思い出したってことだね。しかも日付は……ステフが書庫から出た日じゃないか」
「ね、おかしいよね。でもその話ならぼくもう知ってるよって言ったらお母さんどんな顔をするかな」
「不思議なものだね。ステフ、君のお母さんは魔力なんてなくても、ちゃんと君と心がつながってるんじゃないか」
「でもさ、お母さんたら、自分から離婚を言い出したくせに理由は忘れてたっていうんだから呆れるよね。ぼく、あんなに泣いて損しちゃった」
「忘れた、か。ああもしかしたら!」
オーリはパシッと手紙を指で弾いた。
「ステフ、これはもしかしたらオスカーとつながるかもしれないぞ」
「どういうこと?」
「これは多分、忘却魔法のひとつだ。相手が眠っているあいだに掛ければ、特定の言葉に関する記憶を忘れさせることができる。オスカーは独力で魔法を使えたわけじゃないけど、魔道具を使いこなすのは上手かったから、不可能ではないはずだ」
「お父さんがお母さんに魔法を掛けたってこと? そんな道具があるの?」
「だめだよ、保管庫に探しにいこうなんて思ったら。それにあくまでこれは憶測なんだから」
オーリはステファンの心を見透かしたようにたしなめた。
「でも確かにおかしいとは思っていたんだ。君の話によれば、昔ミレイユさんはオスカーに向かって『兄たちのようにはさせない』と言ってたそうじゃないか。つまりその頃は、ステフの力をはっきり『魔力』だと認めて恐れてたってことだ。けど、思い出してごらん。君の弟子入りの話をした時はそんな態度じゃなかった。漠然と不愉快には思ってても、君の力がなんなのか、わかってない様子だったろう」
「じゃあ、ええと」
ステファンはこんがらがりながら、懸命に思い出そうとした。
保管庫で見たオスカーの記憶の中で、ミレイユが『決定的な』ひと言を告げたのは、確かステファンが8歳の秋だった。暖炉の薪がはじけた音まで覚えている。
「あんまり思い出したくないな……でも間違いない。あの時、お母さんは魔法なんて存在しない、って言ったんだ」
「逆に言えば、2年前まではステフの力が何なのかを認識してたってわけだ」
オーリは居間の中を行ったり来たりしながら独り言のようにつぶやいた。「2年前……オスカーが行方知れずになったのはその後か。11月の聖花火祭の夜、ひょっこりうちに訪ねて来たのが最後だったな」
「お父さん、ここへ来たの?」
「ああ。僕のコレクションを借りたいと言ってね」
オーリは悔しそうにコツ、と自分の額を叩いた。
「『忘却の辞書』という魔道具だよ。昔の魔女や魔法使いが忘却魔法で相手から奪い去った記憶が文字で記されてる。オスカーは遺跡を研究していたから、てっきり古文書の解読にでも使うのかと思っていたんだ。まさか辞書本来の力を使えるなんて、それも自分の家族に魔法を掛けるなんて思いもしなかった。もしもあれを使ったとすれば……」
そこまで言って、オーリは急に難しい顔をして黙り込んでしまった。
「使うと、何かまずいことでも起こるの?」
「まずいさ。辞書ってのは言葉の海だ。言葉には人の思いが込められている。まして魔法で奪わなくちゃならないような記憶なんて、どんな強い力を持っているか知れやしない。だから長い間、門外不出のコレクショに……」
コレクション? 二人は同時に顔を見合わせ、同時に居間を飛び出した。「ステフ、保管庫の中にあの辞書があるなんて、まさか思っていないだろうな?」
「先生だって! お父さんがぼくみたいに意識を取り込まれたとか、思ってるんじゃないの?」
2階に上がるだけの短い階段が、こんなにまだるっこしかったことはない。書庫の前に来るや否や、オーリはドアノブに触れるだけでバチッと大きな火花を散らし、鍵を開けてしまった。
「うわ……!」
書庫の中では本が列をなして飛び交い、書架はアメのようにぐにゃりと曲がり、部屋全体が渦巻きのように歪んでいる。
「だから、まだ整理中なんだよ。危ないからステフはそこで待ってなさい」
オーリはそう言うと杖を取り出し、
「通してくれ!」
と叫びながら渦巻きの中に飛び込んでいった。
何分経ったろうか。ゆらり、と影のようにオーリが姿を現した。
「先生大丈夫? 辞書はあった?」
「ああ、あったよ……」
古びた黒い革表紙の辞書が、オーリの左手の中にあった。
「それで、お父さんは?」
オーリはうつむいて杖をポケットにしまいながら、首を振った。
「ここにはオスカーの手掛かりは無いよ。バカだな僕は。ミレイユさんが記憶を取り戻したってことは、辞書の魔法が効力を失ったってことじゃないか。それに、この中にオスカーの意識が取り込まれてるんだったら、ステフが保管庫で真っ先に気付いたはずだもんな。何を期待したんだろう……」
ステファンは膝の力が抜けそうになった。近づいたと思ったオスカーが、また遠くなってしまった。
「見てごらん」
黒い辞書を手に取ってみる。見た目よりもずっと軽く、拍子抜けするほどだ。が、そのページをぱらぱらとめくって、さらに驚いた。
「白紙だ。先生、文字がひとつも無いよ?」
「だから、効力を失ったって言ったろう」
オーリはやっと苦笑いのような表情を見せた。
「この辞書を作ったやつは、まさか10歳の子と魔力の無い母親に魔力を消されるなんて思いもしなかったろうな。たいしたもんだよ、君たちは」
「そ、そうなの? ぼく、とんでもないことしちゃった?」
「いや、いいんだよ」
辞書を受け取りながら、オーリは感慨深そうに言った。
「こんな物は存在しないほうがいい。オスカーの前に書き込んだ連中は多分この世に居ないし、記憶を奪われた人たちも今ごろ墓場の中でホッとしてるんじゃないかな」
辞書の裏表紙をめくったオーリは、うん? と怪訝な顔をした。
「見返しの次のページが破れている。それに妙な焦げ跡だ」
「先生、それ! その焦げ方って、ぼく見たことあるよ」
ステファンに指をさされて、オーリはハッと顔を上げた。
「オスカーの手紙か!」
二人は再び同時に走り、アトリエに向かった。
アトリエに積んだ本がなだれ落ちるのも構わず、オーリは一冊の紙挟みを取り出した。オスカーの半分焼けた手紙が挟んである。
「同じだ。ぴったり同じ」
手紙と辞書の焦げ痕を突き合わせるオーリの手が、微かに震えている。「普通の紙でないことはわかっていたけど、罫線が引かれていたから便箋だと思っていたんだ。この焦げ跡にしたって、焼けたんじゃなくて『焼き切った』という感じだな」
「でもなぜ? なんで辞書の紙なんか使ったの?」
パタン、と辞書を閉じてオーリは力強く言った。
「専門家の助けが要るようだな。よし決めた。会いに行こう。ステフ、一緒に来てくれるな?」
是も非もあるものか。オスカーを探す手がかりになるなら何でもいい。ステファンは『専門家』が誰なのかわからないまま、はいっと返事していた。