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〔短編連作〕弟月町のひとびと ⑮@昭和

目次はこちら https://note.com/soloitokine/n/na7ff6d48884e

15.インタビュー:ミツさんの話(昭和初期)

 
 戦前の話をしてよろしいかしら。

 わたくしの生まれはね、端手はたで。そうそう、港の近くの。今は埋め立てられて団地になっておりますでしょう。あのあたり、昭和の初めはまだ海で。生家あたりは岬になっておりましたのよ。
 「おとつき」は「乙」に「尽」と書いておりました。乙尽村。村です。戦後に三村合併して町になった時に、今の字に変わりましたの。まあ若い人は知りませんわね。

 本家と一緒に商いをやっておりましたもので、ふた親とも仕事で忙しく、家にあまりれませんの。その代わり、お手伝いの「ふうさん」と二人の姉がよく面倒をみてくれました。
 お金持ちではなかったけど、暮らしに不自由はありませんでしたわねその時分は。岬の家まで、御用聞きさんや薬屋さん、髪結いさんまで来てくれましたのよ。
 ああ、薬屋さんがなぜ来るのかと。置き薬ってご存じないかしら。大きな風呂敷包みにたくさんの薬を担いで、時々入れ替えに来てくれますのよ。「キクチン」なんていういう虫下しの袋は今でも覚えております。薬屋さんが帰りにくれる紙風船をいつも楽しみにしておりましたわねえ。

 母は明治生まれでしたもので、遅くまで結い髪にしておりました。「二百三高地」なんてこう、大きく前に張り出したような髷をね、母が好みまして、髪結いさんにいつも頼んでおりましたね。そんな古い髪型、大正じゃないのだからおよしなさいって言うんですけれども。聞きませんもの。
 その代わり、ふたりの姉や私の髪は好きにさせてくれました。私はおかっぱに、姉たちは女学生でしたから長くして、大きなリボンを着けたり編み方を変えたり、楽しんでおりましたわね。
 洋装が増えるにつれて、帽子のお洒落も随分と楽しみましたのよ。ひとりずつ自分専用の箱に納めて、箪笥の上にずらっと帽子の箱が並びますの。町へお出かけの時は、紅いフェルトのお帽子を出してもらうのが嬉しかったものでした。

 当時は岬ちかくに小さな港がありましてね、対岸の弓張ユミバル大町へは船で行くのが普通でしたわね。そのほうが、わざわざ駅まで出かけて汽車で行くよりも早かったもので。弓張には映画館がいくつもありましたのよ。月に一度、父に連れていってもらうのが楽しみで。
 町に出る楽しみといえば、本屋さんもありましたわねえ。わたくしが尋常(小学校)に上がらないうちからカナを覚えたのは、姉たちのおかげもありますけれど、父が本好きで何でも読ませてくれた影響もあるのではないかしら。
 姉たちは少女雑誌を買ってもらっておりましたわね。挿絵が綺麗で。物憂い表情の女学生ふたりが寄り添う絵が好きで、上の姉に読んでとせがんだものですが、なぜか怒られてしまいましてね。フフ、なぜだったのかしらねえ。

 そうそう、今でも不思議なのですけれど。
 わたくし、弓張で迷子になったことがありましたの。

 家族と歩いていたはずなのに、いつの間にかひとり、背の高い白い顔の人たちの中を歩いていたんですのよ。まわりの人たちは皆、知らない国の言葉を喋っておりまして、わたくしは怖くなって。
 お父ちゃま、お母ちゃまと泣いていると、誰かが手を引っ張ってくれました。
 同じくらいの背丈の、おかっぱ頭に水色の水兵服を着た子どもでした。その子に引っぱられるまま石の壁の前に来て、トンと背中を押されると、もとの町におりました。
 家族は皆、青くなって探してくれていたようでした。わたくしは父をみつけてわあわあ泣きましたけれども、あの子がどこの誰なのか、わたくしが迷い込んだ通りがどこなのか、わからずじまいでした。

 ふふふ、大昔の話ですものね。
 わたくし、この秋で90になりますのよ。

(次の話)


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