安倍公房
数日前になるが、安倍公房の「デンドロカカリヤ/水中都市」という小説を読んだ。随分前に読んだ名作「砂の女」より文章がわかりやすいと感じた。
それは、文章それ自体の書き方もあると思われるが作品自体のテーマが分かりやすかったからだと思われる。具体的には、「都会における現代人の孤独」である。この題材が明確に扱われているのは「らん入者」という作品だ。ある日突然見知らぬ家族(両親、祖母、長男、次男、長女、赤ちゃん)が自分の部屋に住み着き、困り果てた主人公はマンションの大家や警察を頼るが誰も親身になって助けてはくれない。自力で彼らを追い出そうとするも、家族の中には屈強な若い男性二人(長男・次男)も居る為力でねじ伏せられてしまう。尚も諦めずあの手この手で彼らを追い出そうとする主人公だったが、狭い部屋の家庭内では多数決が採用されことあるごとに主人公の主張は覆されてしまう。最終的に作品は主人公の自死を匂わせるような文章で終わりを迎える。こうした理不尽な環境からの脱出を試みる、という設定は「砂の女」と似通っているように思った。
作品はおそらく戦後に描かれた作品であり、作中には人々の貧しい生活も描写されている。そんな時代背景において、組合や共産党が活発に機能し、どこかで革命が起こることが期待されている空気感が感じられる。そして、作者も登場人物達もどこかで「革命など起こるわけがない」と醒めた感覚を抱いているように思えた。それでも、「らん入者」であれば不条理な侵入者の住み着く家から出ようとし、「砂の女」であれば偶然落ちてしまった砂漠の穴から抜け出す方法を研究する。頭の片隅でそれは無理なのではないか、と思いながら。こうして文章を書いていて思い出したが、北杜夫の「夜と霧の隅で」も同じような構造を描いていた。精神科医がホロコースト下の精神病院で治る見込みのない重症患者に危険のある治療法を施していく。案の定、ほとんど成果は上がらないが若干症状が改善した患者も居た。落合陽一さんに言わせれば、「能動的ニヒリズム」といったところか。
現状をシニカルに捉えながらも、暗い闇の中から一筋の光のようなものを見出す。そんな文学作品が好きなのだと思う。