漱石のせい


ちょっと前に満月の夜があったでしょう。1週間くらい前。ほんの1週間で、こんなに月は欠けるのかと思うくらい昨日の夜は半分の月だった。

すごく大きくて綺麗な月で、その上ところどころに薄雲がかかった夜だったので、時折朧月になると一回り大きな範囲が光って、すごく綺麗だった。わたしには月を美しいと思う感性がある。
そんなの、大概の人にはあるだろうと思うかもしれないけれど、こういう書き方をしたのは、わたしの好きな人にはこういう感性がどうやらないらしいからだ。わたしは散歩が好きで、歩く時は空を眺めてばかりいるから、天気や雲や、月や星やなんかが本当に好きだ。でも彼は、つい今し方の天気のことさえわからないときもある。暑いとか、寒いとか、そういう「不快」に対する感度はちょっと惚れ惚れするくらい高いのに、小さな幸福に疎いきらいがある気がする。わからないけど。でも彼はだから、きっとわかりやすく大きな幸福を手に入れることができるし、わたしは彼のそういうところが好きだ。

その夜月を見て、あまりにも綺麗だったので、誰かに言いたくなった。もちろん彼にも言いたくなった。絶対に月なんて見ないだろうと思ったから。言わないと見ないだろうなと思って、伝えたくなったけど、言わなかった。漱石のせいで月の美しさを人に伝えるのに勇気が必要なのは、本当にもったいないことだと思う。好きなのは本当だから別に言ったっていいんだけど、そんなくだらないやり方で想いを伝えたくはなかったし、そういうやり方を選択する人間だと思われそうで(わたしはいかにもそういうことをしてもおかしくなさそうな人間性をしている)、思われたくもないし、というかそんなことより、そうじゃなくて今はただ「月が綺麗だ」という事実を伝えたくているのに、その感情に不純物が混ざるのも嫌で、だから結局言わなかった。漱石のせいで見上げられなかった月があるのだ。漱石(あるいはその嘘か真が定かでない噂を広めた何者か)には反省してほしい。
(鈴木ジェロニモさんの言語を用いた活動のいろいろがわたしは好きなんですけど、彼はこういうときに「いま月いいけど、撮ったら良くないからみてほしい」って言い方をしてて、本当のことだけを伝えるのに適した言葉を選べすぎているなと思って感動した。次からはそうする)

でもその晩月を見て歩きながら、綺麗な月見てそれを見せたくなったら、伝えたくなったら、それはやはり愛だなぁと考えていて、わたしはやっぱり彼のことちゃんと好きなんだなぁとなんだか幸福な気持ちになれた。想いが通ずるかどうかとかはさておいて、誰かのことを想う心が自分にあることを知るのは幸福なことだ。わたしにはちゃんと、誰かを愛する心があると思った。思えた。うれしかった。

みたいなことを考えていたら父親から連絡が来て、「今夜の月は今年1番大きな月らしい」とのこと。父も月を見ていて、父は月を見てわたしを思い出して、わたしに連絡をくれた。同じ月を見て、同じように他人を想っていて、なんて幸福なんだろう。
わたしは父に愛されて育ち、父に愛されたやり方で人を愛し、いまも父に愛されているということが証明されし瞬間が突如として訪れて、あぁなんて幸福なことでしょう。どうして、誰が、わたしの人生を否定することができるでしょう!と思った。わたしは本当に小さな頃から(3歳くらいから)社会に馴染むことが苦手だと自覚しながら育って(父はそれを自分のせいだというけれど)、努力はしたけれどいまもその感覚があって、自分が自分を好きでいることと社会がわたしを認めてくれることとが違うことは十二分にわかっている、という考え方をいつ何時もしてしまう。だから、他者に否定されることに慣れてしまったし、自分に自信も全くない。わたしの幸福を他者が認めてくれなくても仕方がないと思って生きている。自分の幸福を誰かが蔑んでも仕方がないし、わかってもらえなくても構わないと思って生きている。
でもそれでもその瞬間、あぁ誰がわたしを否定するのでしょう!と確かに思った。思えた。あまりにも幸福な人生だ。どこに出しても恥ずかしくない。ちゃんと戦える。

次の日、昨日の月を見た?と彼に聞いてみた。彼は、まっすぐ前だけをみて帰ったと言った。次の満月は、漱石に邪魔されずに、教えてあげようと思った。いつか一緒に月を見上げて、彼がその美しさを理解しなくても、退屈そうにしていても、その顔を見てわたしは嬉しくなるだろう。そういう未来が訪れたい、と思った。

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