全員のことうっすら好きで、全員のことうっすら嫌いで生きてる
『乱暴と待機』っていう映画を、どうして公開当時中学生になったかどうかのわたしがちゃんと見ているのか全く思い出せませんが、とにかく見ていて、これも全くわかりませんが、なんか好きな映画だと思ってDVDでも見ている。本谷有希子が好きだったんだろうな多分。
その中に「ムカつくだろ、オドオドして他人の顔色窺って」みたいなセリフあって、わたしは人に優しく、ひいては自分に優しくありたいと思って生きているけれど、こういう部分があって、人はわたしを見ると腹が立つのだろうなと思ってしまって、悲しかった。
この前送別会があった。送別される対象の人物には大変お世話になったし、大好きな人だったけど、なんかわたしからすると難しい人で、好きじゃないところもたくさんあった。家に帰るといつも、嫌いなところを思い出して嫌になって、あぁわたしは本当はこの人に全く愛なんてないんだなと気がついて悲しくなったし、それでも顔を見ると、接すると、ちゃんと好きで安心した。大好きという言葉にも嘘はないように思う。本当にそう思う。
送別会の日に、最後だしちゃんとたくさん伝えたいと思っていたけど、話すことなんか一つと思い浮かばなくて悲しかった。というか、結局のところこの人の前に立つとわたしは感情に蓋をされるんだなって気がついた。存在の威圧。言いたかったことを言えなくさせる態度。それは別に偉そうだとか、プレッシャーだとかそういうんじゃなくて、この人の距離の取り方。わたしの言うことなんて聞く気がないですよという、うっすらと、しかし確かに表されている拒絶のようなもの。フラットな顔をされると、わたしは踏み込む勇気がない。ベニヤ板一枚こちらに向けられて、あぁわたしはどうしてこの人を本当に愛せるだろうと今になって思う。
その日家に帰ってから感情が遅れてたくさん訪れた。わたしは怒っていた。怒っていたらしい。驚いた。あの人に乱暴されたと感じた。あんなふうにベニヤ板を押し付けられて、こちらの感情を押し込めておいて、自分は好き勝手なことを言って、わたしが傷つくこともわかっていながら、わたしが傷ついたことを言わせない、ひいてはそのことに気づかせないようにして、なんて乱暴な人なんだろう。残酷な人なんだろう。勝手な人なんだろう。わたしは本当は、あの人にちゃんと怒りたかった。めちゃくちゃにしてやりたかった。わたしがちゃんと怒れることを、意思表示してやりたかった。面倒を抱えさせたかった。嫌だと思った。そのときちゃんと、やっぱり嫌いだと思った。安心した。
複雑な感情のそのわけは、結局のところ、わたしがそうされることを嫌だと思っていつつも、彼の自分勝手な心の動きについては好感を持っているからだ。理性でもって己をコントロールしようなどという態度はあまりにも傲慢だとわたしは思っているので、己の心に抗うことのできないひとは、皆一様に愛おしい。わたしは、彼がそうやって、他人に優しいような顔をして、本当はみんなのことを平気で傷つけていること、あるいはそのことにみんなが気がついていて、ありがとうと思いつつ一歩距離を取られていること、そのことに本人もちゃんと気がついていて、そうやってぐるぐるとある種悩み苦しみながら(その自覚があるかはさておき)程よい人間関係を構築するその狡猾さや非情さについても、そのある種の情けなさを愛してもいた。大好きの理由はここにあって、その下手くそなやり方やちゃんとモノとしてはここにある優しさについては本当に好きでいた。一緒にいる時間がいつも苦しかったわけじゃない。彼に明確に攻撃されなければちゃんと優しくて楽しい時間だった。いい人だった。好きだった。
ただ、送別会の後で、もう二度と会えなくなったそのあとで、わたしは彼のことを嫌いだと思った。目の前にすることがなければ、わたしはこんなにも残忍になれるのだと知った。人を嫌うのは得意じゃない。でも、もう二度と会わないと思えばこんなに簡単に他者を嫌いになれるのだと思って、自分が本当にしょうもない、情けない人間だと思って、苦しかった。
その人のことだけじゃない。わたしは、押し並べて他者を嫌ったり、他人を傷つけたりするのが苦手だ。よく知らない人も含めてそうなので、わたしは道案内を断ることができない。あぁこれまぁ多分声かける口実だよなぁ、振り切って帰った方がいいよなぁと思っていても、その人に悲しい顔をされることに耐えられないからそれができない。そうやって面倒に巻き込まれて、全然家に帰れなくなったり平気でする。そういう自分の弱さみたいなものを、優しさとしてくれる人もいるけれど、本当はそんなんじゃないことをちゃんと自分でもわかっていて、本当に情けない。でもできない。悲しい顔をさせたいわけがない。みんながわらっているほうがいいと思うこの心を、本心から否定するならわたしはそいつがちゃんと嫌いだ。
でも、だからこそ、わたしは「オドオドして他人の顔色窺って」見えるだろうと思うし、そんなわたしをみて腹を立てる人もたくさんいるだろうと思う。(ただまぁわたしは本当にできないことは絶対にしないので、本当に嫌な飲み会からはちゃんと1人で帰れるし、同調圧力に屈するようなことはできないし、そういう部分の頑固さは、強さとも取れるけど単純に面倒な人間でもある。気が弱そうに見えて、なんでも聞いてくれそうに見えて、実はそうではないので、厄介なんだろうな。)
でも実は、本当は、それが最後ではなかった。そのあとで、たまたま顔を合わせたタイミングがあって、不意に声をかけられて「ありがとうね」と言われたときに、わたしは彼に言いたかったこと(怒りの全て)を忘れてしまっていた。言いたいことがあったことだけがわかっていて、なにがいいたかったのかは忘れてしまっていて、ただなんとなくうっすらと感謝の言葉を述べて、それで別れた。連絡は取れるし、会おうと思えばいつだってあえるだろうけれど、お互いに会おうと思うことはないだろうし、多分もう二度と会わないと思う。最後に怒ってしまわなくてよかった。わたしはもう二度と会わない人へのこの怒りを、そのうちに沈めていくだろう。あとには、いい人だったし好きだったと言う感情だけが残って、最終的には、思い出の中のあの人を愛するだろう。
こうして書いてみると、そんなに悪いことじゃないように思う。それなのに、結局のところ自分は「オドオドして人の顔色窺って」見えるのだろうなと思ったら悲しかった。自分に優しくいることと、社会に親切にいることは絶対にイコールにならない。
何が書きたかったかわからないけど、消しちゃったらなくなっちゃうのでとりあえず書いた。おしまい。