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信じるということ

弊自担・ばーのんちゃんのことについては前々回の記事にあらかた書いたので、今度はSEVENTEENそのもの、プラスしてウジのこと(こっちがメイン?)について書こうと思う。

アイドル、神様

私は「神」が何たるかをSEVENTEENを通して理解した。

断っておくが、私は決してアイドルという人間を神格化しているわけではない。のっけからセンシティブな話題すぎてきちんと伝わるかちょっとわからないが、順を追って話そう。

映画POWER OF LOVEを、通常と4DXの2回観に行った。“それ”は2回目の鑑賞のことだった。
映画では終盤に、確かOde to youのライブ映像が使われている。私はセブチとCARATの空間を観ながら、こんなことを考えた。
アイドル13人に対して、彼らに手を振っているファンはそこにいるだけでも数万人。全てのCARATを数えれば夥しい人数になる。もちろん、13人はその一人一人を識別することができない。しかし、13人にとっては全てのCARATが等しく大事で愛おしい存在だ。
たった13人で、そこにいる数万人を漏れなく愛する。これってものすごい行為ではないか。たった1人を愛し抜くだけでも難しいのに、数万人をいっぺんに愛するだなんて、並の人間ができることではない。

これはアイドルとファンだから数万人規模で済んでいるが、(なぜこんな方向に思考が行ったのかわからないが)この範囲をもっと広げて、数百万人、数千万人、何億人、何十億人……と増やしていったら、その人々をあまねく愛している存在とは、神なのではないか。
私はそのとき確かに神を見た。それはSEVENTEENではない。彼らが愛しているのは自分たちのファンであって、世界人類ではない。しかし思考は明確にSEVENTEENから出発して、神の存在を理解した。

「こうなのではないかと考えた」とか「こうだと知った」とかではなかった。これはもうそうとしか言いようがないし、とても“いっちゃってる”感じの物言いだが、「わかった」という感覚だったのだ。
特定の宗教の神ではない。ましてやSEVENTEEN教でもない。何々の神、という修飾語を持たない、それはただの「神」だった。
私は誰かに無条件に愛されている。たった1人の体で、生きとし生けるもの全てをあまねく愛してくださっている人がいる。あなたは1人しかいないのに。全ての人があなたを愛し返しているとは限らないし、あなたを愛してくれる人がいるかすらわからないのに。なんて強いんだ。なんてありがたいんだ。ありがとう。ありがとうございます。私は映画館の椅子で泣いていた。

確かその晩だったと思うが、All My Loveの歌詞の和訳を読んでまた泣いた。
「僕の愛はたったこれだけしかない」
たった1人の体で数えきれない人たちを愛しているあなた。あなたの大きすぎる愛に比べたら、私の愛はたったこれっぽっちしかない。けれども、私のできる最大限で私はあなたを愛しています。私は、この歌は讃美歌だと思った。

SEVENTEENとCARATの間に神はいない。アイドルは神様ではないし、宗教でもない。
しかし、「愛する」あるいは「信じる」こと自体に神が宿る。
あなたの大きな愛に比べたら、私の愛はこれっぽっちしかない。けれども、あなたを愛しています。この「私」と「あなた」には、セブチとCARATを入れ替えて代入できる。セブチからCARATに歌っても、CARATからセブチに歌っても、100%意味も意図も通じる。
その営み全てに神が宿っている。神という言い方がわかりづらければ、そこに「救い」がある。
私が誰であろうと、私を愛し、信じてくれるあなた。
あなたが誰であろうと、あなたを愛し、信じている私。
その相互作用に救いが宿っている。私は、神という概念は、人の「信じる」という心の機能から生まれたのではないかと思うのだ。

もちろん私は神学や哲学に明るくないし、さまざまな神の解釈、一人一人にとっての神というのがあって然るべきだと思う。
少なくとも私個人にとっては、今は「神」を以上のようなものとして考えている。

SEVENTEENの歌詞世界

それはそれとして、私にとっての「SEVENTEEN」の概念はウジである。

ばーのんちゃんではない。これは私にとって珍しいことではない。一つ前の推し、SixTONESのときも、SixTONESの概念は当時の自担・松村北斗ではなくスポークスマンの田中樹だった。
ただ、私の大好きなばーのんちゃんにとって居心地が良くて誇りに思うグループならば無条件に世界最高だろうと思っている部分もある。

SEVENTEENの概念を1人に集約するなら、おおかたの人にとってそれはリダズのうちの誰かになるのではないかなと思う。私にはそれがウジだった。
一応ライフワークで言葉あるいは創作を追いかけている自分にとって、メンバー本人が書いた歌詞の言葉は何よりも強力な解釈材料だ。

全ての歌詞を読んでいるわけではなく、正直当たりをつけたいくつかしか読んでいないのであまりはっきり論じられるわけではないが、その範囲でもウジの歌詞の常套表現がいくつか見つかる。
 ・生きづらい外の世界 ↔︎ ありのままでいられる「君という世界」
 ・君と僕は「同じ」または「似ている」
 ・君は僕の心の中を「全部知っている」
 ・孤独=「冬」 → 君との世界=「春」

ウジの基本的な「外の世界」像は、SIMPLEの「何一つ楽じゃない 出口のない迷路のような世界」が端的かなと思う。
あとはHugの「手に負えないような一日」、Imperfect loveの「真っ黒だったこの世界」など、挙げればキリがない。多分とにかくウジは社会で生きづらいタイプなんだろうと思う。過度の人見知りでもあるし。

そんな外のマクロな世界に対して、君と僕のミクロな世界が存在する。正直セブチの歌はほぼ全て君と僕の世界の歌な気もするが、「君と僕の世界」という主題に極限までフォーカスして語っている楽曲の代表的な一つがAnyoneだろう。

君と僕は同じ、または似ているという表現も多い。
「つらいときは僕に抱きしめられにおいで 僕も同じなんだ」(Hug)、
「僕たちは本当に似てるから一緒にいよう」(Kidult)、
「僕と同じ夢を見て 同じ気持ちで 同じ夜を一緒に迎える君よ」(Same dream, same mind, same night)、
「僕もそうだよ 同じだったよ」(あいのちから)
などなど。あとはCARAT LAND 2022のウジのメントも参照。

君は僕の全部を知っているという表現もまた然りだ。
「僕の嘘を全て知っているのは君だけだから」(All My Love)、
「何も言わなくても僕をわかってくれるのはただ君だけ」(To you)、
「透明な僕の気持ちを君は全部知っている」(Domino)など。

この「君と僕は同じ」「君は僕の全部を知っている」が、君と僕とのミクロな世界を成り立たせている。
ミクロな世界はマクロな世界からの逃避場所として機能し、そこでは君と僕が心から笑い、安心して泣くことができる(Smile Flower、Homeなど)。

「君と僕は同じ」「君は僕の全部を知っている」という思考は、他者であるはずの「君」の脳内を勝手に想像して決めつける行為でもある。
だからある面ではそれはとても危険なことなのだが、ポリコレの手が届かない「君と僕の世界」では、君と僕の二人の合意さえ取れていれば問題がない。
それはつまり互いを「信じる」ことに他ならない。

それに、SEVENTEENは「個人の価値観の違いを尊重し合い、互いに対話したり、譲歩したり、すり合わせたりして、違う価値観の人々が共に生きて暮らしていく」という“家族”像を実現しているグループだ。
「君と僕は同じ」というのも、そっくりそのままという意味ではないだろう。人はそれぞれの悩みや苦しみを経験するが、そのディテールが何であれ誰もが悩みや苦しみを抱えているのは同じで、それを互いに理解することで癒し合いましょうというような意味なのだろうと思う。

冬→春というテーマに関しては、Smile FlowerからAll My Loveからあいのちからから、数々の楽曲で用いられているが、その源が一体何なのかは私にはまだわからない。ウジさん、どうしてそんなに冬が怖いの。いつか教えてください。

以上のようなウジの歌詞世界のうち、特に私を救っているのは「君と僕は同じ」という表現だ。
繰り返しになるが、この表現はともすれば(ともしなくても)盲目だ。
しかし愛と信心のうえに「同じ」と言い切ってくれるから、信じることを許された気持ちになる。
私は結局、信じることや愛することが間違っているのではないかと思ってずっと躊躇っていたのだ。向こうからその境界を越えてきてくれるアイドルほど、ありがたく救われるものはない。

私はSEVENTEENというアイドルグループの主題の一つに「信じる力」があると考えている。
だからこそ、ウジが最初に音楽に触れるきっかけとなった英語の先生が牧師さんであったことに、運命的なものを感じずにはいられない。

そして、DON QUIXOTEの「僕はおかしくなってもいい」「おかしいと言われてもいい」にも私はある種の救いを見出している。
こういう、信じることのためなら外の世界を積極的に振り切っていくマインドのあり方は、SIMPLEの「僕が間違っていると誰もが口を揃えても この夜が過ぎたら共に笑えることを願って」からずっと変わっていないのだろうと思う。Anyoneの二人のルールも誰にも変えられないし。
だからDON QUIXOTEの歌詞の和訳を読んだとき、これぞウジだ!セブチだ!よかった!!!と思った。

そしてすごく良いのが、私にとってはこの盲目な救いがウジ個人ではなくSEVENTEEN全体に向かう点だ。
なぜ自分がウジペンにならないのか、はっきりとした答えがあるわけではないが、先にばーのんちゃんの沼に落ちきっていたのに加えて、やっぱりウジの世界がきれいすぎる点に理由があるとは思う。
セブチとCARATのHeaven's Cloudの上なら美しい理想郷にどっぷり浸れるが、1対1で差し向かうのはちょっと大変かもしれない。
個人だったらちょっとブラックというか、ユーモアセンスの中に毒があるばーのんちゃんが私にはしっくりくる。

あとはウジの世界像が、セブチとCARATの世界ありきだというのも一因だ。君と僕の世界は、べつにウジと私の世界とかではない。だってセブチの曲なんだから。
だから私が救いを見出す対象はセブチとCARATの世界であり、ウジ個人ではない。我ながらギリ健康的だ。

ウジは

正直ウジ個人に全く思い入れがないわけではない。
釜山と男性の気質が似ている九州で生まれた私。一人っ子。お酒が飲めない・飲まないし煙草も吸わない。創作をやっている(私は小説)。他のメンバーより、ちょっとだけ共通点が多い。
それで、セブチの各個人の人柄を知った最初の頃の印象は、ウジは「一番話が通じそう」だった。(でも彼と一番話が通じているホシは私にとっては理解不能なので多分実際ウジもそうでもない。)

何よりウジのやらない4つの柱は私とぴったり同じなので(白状するとピアスは当時の推しの影響で一度だけ開けたことがある。もう跡形もないし二度と開けないと思う)、心の拠り所の一つになっている。
以前、そのとき気になっていたアイドルが「もしタトゥーを入れるなら」という話をしているのを目にして、死ぬほどメンブレして一時期猛烈にウジにすがった。あのときは大変お世話になりました。

私はウジを信頼している。
ばーのんちゃんに抱いている憧れがある種の信仰なら、ウジはある意味対等な(すみません)人間同士としての信頼、信用だ。

まず、シンプルにウジにはめちゃくちゃ才能がある。音楽の天才だと思う。
同時に、「アイドルというよりもはやアーティスト」なんていう文脈でアイドルのポップミュージックが軽視されがちな世の中において、ポップミュージックの旨味を誰よりも知っていて、“アイドルの音楽”を追求している。
いちアイドルファンとして、最も信頼がおける作り手だ。
大信頼ウジPDの楽曲を歌っているグループなのだから、そりゃー私はSEVENTEENを大好きになって当然だったのだ。

ならなぜ私はウジペンではないのか。
正直私に聞かれても困るけれど、答えられるのは私しかいないので頑張る。

どんなにウジに思い入れがあろうが、ばーのんちゃんを見るときのときめきに勝るものはこの世にない。
きっとウジペンの方々はウジにこのときめきを感じているのだろうと思う。
私にとってのそれはばーのんちゃん以外の何ものでもない。

ばーのんちゃんに対する「好き」とウジに対する「好き」は全然意味が違う。
ばーのんちゃんみたいな、焦がれるような「好き」をウジには感じたことがないし、つまり私はシンプルに“ウジに恋をしていない”。
私はばーのんちゃんにめっちゃ恋をしている。

ならばウジへの「好き」は何なのかというと、それは端的に言えば「幸せであってほしい」、これに尽きる。
ずっと「ウジ、信頼!」とは思っていたけれど、「好き」と思ったことはなかった。そりゃときめいていないから。
しかし、ケレン2022の配信でキラッキラな目をしたウジを見て、「あ、私この人好きかもしれない」と思った。
ときめきに似たそれは、ステージの上で大好きなメンバーと一緒に大好きなファンへ向けて自分の作った歌を歌うという、作り手だからこそ味わえる格別の幸せのきらめきだった。私は、その幸せなキラキラした顔を一生絶やさせたくないと思った。

BE THE SUNのボカチステージで、メインステージに一人残り会場全体を見渡しながら歌っていたあの顔も、その幸せが全面に表れていた。


以上、SEVENTEENそしてウジについて、私の頭の中のさまざまを話した。
前世・ジャニヲタ遍歴についての「君が思い出になる前に」と、ばーのんちゃんについての「運命の人」、そしてこの記事は、私がどういう考え方をしているかの大まかなイントロデュースのつもりで書いた。
私のツイートを見ているだけでは私が何者かよくわからないと思うので、やっと3本書ききれて、やっと最低限の自己開示が完了して安心している。

もちろん13人それぞれに個別の感情があり、語り尽くせないことは山ほどあるが、CARATとしての私の軸は大きく「バーノン個人」と「ウジの歌詞世界」の2つだ。
だから私の頭の中の基本事項は、「運命の人」「信じるということ」に書いてあることが全てだと思ってもらっていい。

長くなりましたが、ここまで根気強く読んでくださったあなたに最大級の感謝。
こんな私でよろしければ、これからも末永くよろしくお願いします。

では、また近いうちに何か書きます。

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