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愛と希望と永遠
今日はバーノンさんの誕生日。
今年も無事に年を重ねられておめでとう、バーノンさん。
前年はバーノンさんの話をひたすら書いたので、今年は自分の話をとことん書くことにします。
バーノンペンとしての自分の話を。
いろんなnoteに何度も書いたけれど、SEVENTEENを初めてしっかりと観たのは2021年7月。ARMYの友達の家で、ライブDVDを見せてもらった(もちろんそれより前にBTSのライブ映像も見ている)。
ジャニヲタ10年選手の自分がK-POPにハマるなんて夢にも思ってなかったけど、確かに前の自担は「ジャニーズならもうこの人しかいない」と思って自担にした人だったし、じゃあその後の人がジャニーズの外にいるってんなら、それは正しい。
ジャニーズで見たことないほど、深く深く物事を考え、フラットな目で世界を見て、アイドル的かっこよさではなく自分が思うかっこよさを追求し、何にも縛られていない人。ジャニヲタだった自分の目からバーノンさんを形容するなら、そんな人だった。
バーノンさんを自担にしようと思った理由は二つある。これは好きなところではなくて、最低限の条件として。
一つはルーツ。初めて国籍の違う人を自担にするにあたって、アイデンティティのはっきりしている人だと、たとえば「韓国人/日本人」のように、相手との違いの説明を国籍に求めてしまいそうなのがネックだった。日本のアイドルしか見てきていない当時の私には、海外のアイドルを偏見なく見られるほどの判断能力がまだ備わっていなかった。バーノンさんは公的には韓国籍だけれど、幼い頃はアメリカと韓国のどちらにもアイデンティティを見出せなかった人物として自身を歌っている。だから、この人が相手ならば、何人であるかという枠を取り外して、ただの人間対人間として向き合えそうだと思った。
もう一つは、バーノンさんが、私には想像も及ばないくらい傷ついた経験を持っているであろうこと。バーノンさんを知りたいと思った明確なきっかけであるデビュー前のミックステープ〈Lizzie Velasquez〉(気づけば私は、バーノンペンとしての自分を一から説明する時に、ほとんど必ず〈Lizzie Velasquez〉に言及する人間になった。それは当時の一度きりの体験そのものから切り離されて、“〈Lizzie Velasquez〉に言及する人”としての架空の人格が歩み出していくようだ)では、チェ・ハンソル少年が学校や街で感じた、韓国という国と自分とのずれや摩擦を赤裸々に歌っている。私には、(あえてこう書くが)「ハーフである」ことで受ける視線がどんなものか、想像する努力はできても言い当てることはできない。こんなにも傷ついたことがある(そして今はもう傷ついていない“ように見える”ほど強い)人なら、私をひとりにはしないだろうと思った。
前の自担を降りた理由の一つは「グループに馴染んだ」ことだったし、その前の自担を降りた理由の一つは「自己表現ではなく社会的な成功を目指している」ように見えたことだった。私は孤独という場所に私を置き去りにする人たちを恨んだ。同じように孤独である誰かが、ずっと孤独であり続けることで、孤独な私をひとりきりにしないよう望んだ。
社会は常に私の敵だった。
バーノンさんを好きになった時、「もう頑張らなくていいんだ」と思ったことを覚えている。この人の前では、これまでのように絶え間なく緊張して、正解のわからない振る舞い方に気を遣わなくてもいいんだと思って、肩の力が抜けた。きっとこの人には、理解できないことはあっても、拒絶したり絶対悪だと思ったりすることは無いか極端に少ないんじゃないだろうか。きっと理解できないことでも、敬遠するんじゃなくて面白がってくれそうだと信じられた。
バーノンさんを好きになる感覚は、ふかふかの広い布団のようだった。死ぬ時はこの上がいいと思った。
そして私はバーノンさんを尊敬していた。こうなりたいと思った。バーノンさんは、“普通”でいられない自分を守ったまま、他人と支障なく渡り合い、満ち足りて生きているように見えたからだ。
私がこんなにも恐れている社会を、この人は恐れず、それどころか他人のために尽くそうとしている。理解できなくて、その方法を理解したいと思った。この方法を身につければ、私はきっともっと楽に生きられるようになる。そう思ったし、実際、そうだった。
バーノンさんを通して、私はいかに他人の話に耳を傾けるかを学んだ。
そしてバーノンさんのコミュニケーション方法を学んでいる間、バーノンさんは「ばーのんちゃん」だった。
まぎれもなく“愛おしい人”であり、ポジティブな感情しかそこにはなかった。「尊敬」と「可愛い」は、どちらもポジティブな感情の側にある。
前の自担に抱いていたようなネガティブで痛々しい感情をバーノンさんには抱きたくなくて、それはつまりこれ以上近づくこと、近づいて再び壊してしまうことが怖くて、こんなにもまっすぐに好きだと思える人を失いたくなくて、ばーのんちゃんはばーのんちゃんだった。
バーノンさんを知りたいと思うきっかけになった孤独や痛みは、その時期にはすでに過去のものだった。きっと私も克服したのだと思っていた、この人がそうしたように。
だから〈Black Eye〉にうちのめされた。バーノンペンになってちょうど1年だった。忘れていた、忘れたかった、忘れていい加減楽になりたかった孤独と痛みを、バーノンさん自身から容赦なくぶつけられた。
確かにそれが、「ばーのんちゃん」ではなく、現実に存在する生身の人間の姿だった。
少し時間を巻き戻して、バーノンさんをこんなにも「好きだ」と思えた理由を話そう。
世の中は空前の「推し活」ブームだった。前の自担に対して、私は、「推し」なんていう気持ちを抱いていなかった。もっとドロドロ、ヌメヌメして、「推す」なんていう社会的な行為には結びつきようもなかった。
でも私は、「推し活」の社会でアイドルオタクとして生きていくために、「推し」が欲しかった。
バーノンさんはそりゃ「推し」なんていう言葉に収まりはしないけど、でも、私の推しはバーノンさんだ。私が推せる人は、「推し」にできる人はバーノンさんだ。アイドル業界広しといえど、バーノンさんしかいないと思う。
まず、私は単純に“すごい人”が好きだったので、アイドル全体の中のほとんどの、鳴かず飛ばずな層がごっそりと落選した。好きだと思えるグループの中にいるのも条件なので、もうSEVENTEEN以外が全部落選した。そして、SEVENTEENにはバーノンさんしかいない。
芸術文化一家に育った私としては、両親が画家で、私の知らない映画や音楽を山ほど知っているバーノンさんがかっこよくてたまらない。それが絶対的なかっこよさであり、実はそれほど音楽も映画も美術も好きじゃない私が、絶対になれない人だから。
そして、かっこいいアイドルの概念がなんとなく成り立っている推し活時代のアイドルの中で、いわゆるアイドルっぽいアイドルのことなんか知ろうともしないで、自分の思う(およそ女子ウケしない)かっこよさを体現している人だから。キラキラした王子様には興味がなくて、飾らなさや繕わなさ、ステージでの感情の発露に惹かれる私にとっての「かっこいい」を、バーノンという存在が受け止めた。
推し活社会で量産されているグッズとは正反対の、真っ黒で何の装飾もないかっこよさを、推すファンと推されるアイドルとして、私とバーノンさんは共有している。そのおかげで私は、自分の思う「かっこいい」を曲げないまま、推し活アイドルファンに擬態できる。そういう意味で、バーノンさんは共犯者になってくれているように感じることがある。
だから、私はとにかくバーノンさんがやりたいことを全部やってほしかった。社会の是と関係なく、バーノンさんの心の赴くままに表現されるかっこよさが眩しかった。
それはやっぱり、ある意味では孤独そのものだったんだと思う。バーノンさんがみんなと違うことが大前提だった。それはキラキラ光る痛みだった。
みんなと違う自分が是とされないから、みんなと違うバーノンさんを是としたかった。私はあなたを肯定すると大声で言いたかった。自分にそうは言ってあげられないから。自分は二人にはなれないから。
バーノンペンであることは社会への復讐だった。今振り返ると、そう思う。
だから、本当にバーノンさんが自分のやりたいことをやった時に、肯定できない自分に出会ってしまった、その感覚を言葉では言い表せない。
〈Black Eye〉が出て以降は、バーノンペンである時間中ずっと、私は混乱していた。波はあるものの、良すぎたり、悪すぎたり、バーノンさんへの感情は安定することがなかった。安定これすなわち消滅という気もしていた。この感情の揺れ動きの激しさが、好きということなんだと思っていた。それは好きというより、執着だった。
私はどんなに私が傷ついてもあなたを見ていたかった。それは、私に傷つけられて私から目を逸らした社会への復讐だった。あなたから目を逸らすような私が私の中にいる限り、私はほんとうには私の望む私でいられないと思った。私はどんなに苦しかろうが目を見開いた。私が間違っている、私が間違っていると一回一回自覚して、あなたにとって正しい人になろうと努力する過程が、どんなに痛みを伴おうが唯一の前進だった。
その間バーノンさんは平然として、メンバーや友達や家族と一緒に笑っていた。そりゃそうだ。そりゃそうなんだけど、私がこんなにあなたをわかろうと頑張っているのに、当の本人はどっちだっていいとばかりに幸せそうなのが、ただただ癪だった。
バーノンさんの好きな音楽は、共有された直後はピンとこなくても(それで自己嫌悪とバーノン嫌悪に陥っても)、数ヶ月から1年後くらいに戻ってみるとピンとくることが多かった。だからこそ、今まで「嫌い」になりきってしまわず「好き」が続いたんだと思う。そしてそれは、それくらい距離を取って見るのが正しかったということなんだと思うんだけど、それは、なあ。
バーノンさんは共通の趣味の友達が多い。バーノンさんと同じ音楽や映画が好きなCARATも多い。バーノンさんは同じ趣味を持つCARATと楽しそうに話す。〈Black Eye〉のインタビューで、グループの作業では中心になることがないからリーダーシップの取り方がわかっていなかった、他人の意見を聞きすぎてしまったけどもっと自分の意見を通してもよかったと思うというような話をしていた(ニュアンスであって、言葉は全く正確じゃない)。私はびっくりした。私は、マジで、人と協力してものを作るということができないのだ。
バーノンさんはひとりじゃなかった。
ウジさんにボムジュヒョンがいるように、バーノンさんは音楽創作で、必ずロブ・ロイさんという友達とタッグを組む。好みやセンスが一緒なのだと言う。ロブ・ロイさんは、バーノンさんが作れないような音楽やグラフィックの技術がある。
バーノンさんのものとして受け取る音楽の中に、バーノンさんじゃない人の要素がどれくらい入っているのかを、私は知ることができない。全部がバーノンさんのものではないのだという情報だけを知らされて、私にできるのは疑うことだけだ。
好みが同じだと言い切れる相手がいることが恨めしかった。そんな人引き剥がして私のそばにいてほしかった。そんなんならもう音楽やめてほしかった。私はバーノンさんの友達だって、家族だって嫌いだ。私の知り得ない全てが嫌いだ。SEVENTEENの中で完結してほしい。だけどバーノンさんが他のメンバーと違ってSEVENTEENの中だけでは完結できない人だからこそ、私はバーノンさんが好きなのだった。バーノンさんが出ていく先は、バーノンさん個人の世界であってほしかった。私の知らない誰かがそこにいることなんか、全く望んでいなかった。
私はなんでこんなにバーノンさんがいいんだろう。なんで他の誰でもなくバーノンさんにこんなふうなんだろう。
バーノンさんの好きなところ、いくらでも挙げられる。K-POPにあんまりないロックが好きなところ。部屋が汚いところ(だから段ボール片付けてほしくなかった)。前はめっちゃ深夜にWeverseに来てたところ。料理が全然できないから、私の適当な料理でも喜んでくれそうなところ。髪型とかメイクとかマジでどうでもよさそうなところ。本当は腕や脚の毛を生やしっぱなしにしたいと言っていて、だから私のもはやアイデンティティの一つになってしまったこの剛毛を、少しも不快に思わないでいてくれそうなところ。
集合写真で一人だけ笑わないところ。ほとんど動かないその表情が、ほんの少しだけ動くからこそ、そこに本物の感情が見える。みんなみたいに普通に笑って、普通に怒って、普通に泣いていないからこそ、バーノンさんの感情は他の人よりも何倍も濃縮されて伝わってくる。歌詞に書くことも、好きな映画のストーリーも、普段おくびにも出さない感情だからこそ本当なんだなって、超濃縮で直接ドロッと私の中に入ってくる。それが好きだった。
私が共感できない“普通”の感情ばかりが行き交う社会で、バーノンさんの感情だけが、生々しくて、湿って匂い立って、独特の香りがした。生き物がいる、自分以外にも生き物の匂いがする、そう思って私はひたすらその匂いに向かっていった。君の匂いをずっと吸っていたくて、必死で拾い集めた。ナナツアーで二人連れになれない君を。ドンライの宝探しで「こういうの苦手だから」と最初から諦めて、メンバーから一斉に励まされる君を。〈Miss You〉、やっぱり誰かを探してる君を。やっぱりいつまでも孤独な君を。孤独なはずの君を。
バーノンさんを孤独の側に引き留めておきたかった。そうじゃないと私はこの数年間の日々を生き延びられなかった。
どうしても私に歩み寄らない社会に対して、自分を譲り渡して傷つくことも、自己主張してぶつかって傷つくこともないように、バーノンさんのようにあることが最善だった。感情を可能な限り抑制して、自分と他人を切り分けて、淡々と過ごした。ところかまわずぶつかってきた10代までに比べたら、本当に本当に生きやすくなっていた。誰にでもにこやかに接することは、私を受け入れなかった社会への復讐だった。私が私以外の全てを受け入れることで、私の正しさは常に保証された。
こんな私を探してくれるのは、全社会でバーノンさんだけだった。探してくれて、見つけてくれて、ものすごく遠くにいるのに指をさしてくれて、手を振ってくれて、たった一瞬なのにメッセージをしっかり読んでくれて、反応を返してくれて、相手に対して私がする以上の努力を私にしてくれるのは、この世でバーノンさんだけだった。友達にとっての私はせいぜい数十分の一、バーノンさんにとってのCARATは何万分の一なのに、それでも、バーノンさんの努力が一番大きいのだった。実の親よりもずっと、バーノンさんが、私の言葉をまっすぐ受け取ろうとしてくれるのだった。
そうすると、私を愛しているのはこの世でバーノンさんだけなのだった。
だからあなただけは私をひとりにしてはいけないのだ。バーノンさんを愛し、信じることは、バーノンさんへの復讐だった。もしあなたが私を本当にひとりにしたら、あなたが悪くて、私が正しいということなのだ。
私はもうここ1年分くらいの、ライブでしてもらった反応をほとんど覚えていない。バーノンさんは毎回のように見つけてくれた。自慢やこじつけのように見えるのが嫌だったし、SEVENTEENに集中できない時期を何度か挟んだせいもあって、いつからか言葉で記録するのをやめた。そうしたら、気づいたら片っ端から忘れていた。
あまりにも毎回見つけてくれるから、見つけてもらえなくなるのが怖かった。お見送り会も、美談ばかりが聞こえてくるので、失敗するのが怖かった。ライブ自体は楽しいけれど、バーノンさんとの一対一において、心底楽しみだと思えた現場は本当に数えるくらいしかない。それ以外の時は、怖くて気分が悪くて震えていた。
ライブにしたって、ヒポチで踊り狂うのはバーノンペンっぽくても、腹から大声出して掛け声を先導するのはバーノンペンっぽくないというか、バーノンさんならやらない。でも私はCARATとしてそれをやる。バーノンさんが誰にも偏見を抱くことがなくても、ただ何とも思わないだけで、守っても愛してもくれない。バーノンさんからはみ出した私の部分は、私自身が責任を取るしかない。誰からどんな目を向けられようが。
バーノンさんの理想のパートナー像を、なんとなくでも、私はもう知っている。あなたの勧めた映画をだてに観ていない。私がそれになれそうもないことが、今あなたに対する最も深い絶望の一つだ。
私はバーノンさんの好きな音楽ジャンルをちっとも知らないし、知ろうとも思わない。部分的にしか好きじゃないし、そもそも好きだと思っても同じ曲を何度も聴くタイプであって、知識を広げようとするタイプではないから。映画も然り。SFなんて全然わからない。バーノンさんの笑いのセンスもピンとこない。インターネットユーモアも意外とノれない。バラエティ番組のセリフを暗唱するくらいなら他にすることがあると思う。今こうして「オタク」コミュニティにいる状況で、私自身よりも推し本人のほうがオタク気質であることにも、私はほんのりと絶望している。
私は確かに10代の頃から小説を書いてきたけれど、私にはストーリーや世界観がない。私が好きなのは描写だ。バーノンさんが好きな映画のような、感動的だったりスリリングだったりするストーリーは書けないし、バーノンさんを圧倒させ夢中にさせる世界観は思いつかない。
バーノンさんは本を読まない。2024年は本を読みますと言っていたのに、中盤で、結局コミックしか読んでないって話していた。ハン・ガンさんのノーベル賞受賞の報せにいいねを押していたので、ハン・ガンさんの作品は何か読んだことがあるのかもしれないけど。
バーノンさんは私と話しても楽しくないと思う。っていうか、楽しくないとまでは言わないけど、私と話すよりも他のもっと刺激的で感性の合う人と話していたほうがもっと楽しいと思う。ロブ・ロイさんとか。そして、私にも、バーノンさんよりももっと合う誰かがいるはずなのだ。今、ここにいないだけで。
だから、そんな可能性を潰して、私とバーノンさんだけにしたかった。今だって十分楽しいんだから、あなたは十分刺激的で、私だってきっとそこそこ刺激的だし、音楽も映画も勉強してあなたの好きな人になるから、お願いだからここにいてほしかった。私を見放さないでほしかった。あなたがいなくなったら、もう私にはこんな出会いが巡ってこないかもしれないから。対するあなたは引く手数多なのに。そんなのフェアじゃない。
バーノンさんは全ての人に対して偏見なくフラットに接するし、それは私も例外じゃないから、こんなにも“普通”じゃない私がバーノンさんにとっては“普通”になる、それが嬉しかった。けど、バーノンさんにとっての特別に、私は、なれない。
Weverseのファンレターでバーノンさんの同情を引くようなことばかり書いて送った。けど読んでるかどうかわからない。音楽の話、映画の話、たくさんした、バーノンさんをできる限り褒めた。私はバーノンさんの前では聞き分けのいい女の子だった。ああ、「好き」ってこういうことなのだ。私はずっとバーノンさんに負けているのだ。バーノンさんのことは大好きなのに、バーノンさんに誇れるような自分がないから、私の正しさは全部バーノンさんになってしまうのだった。そのうちバーノンさんの書く歌詞の質感がちょっと変わったような気がした。君は今度は誰に恋しているんだろう。私にはバーノンさんがわからない。わからないことが怖かった。干渉できない他人が怖かった。
人間関係は双方の歩み寄りによるものだ。私がバーノンさんに懸けた希望は、限りなく人間関係そのものだから、実際にはここまで歩み寄ってくることのできないアイドルであるバーノンさんに対して、私がどれだけ尽くしても、その希望はただの希望でしかない。
そのうち当時いた会社が傾いて、日本の経済もどんどん悪化して、外国で戦争が始まった。
バーノンさんのおかげで社会の中で“普通”である努力ができても、その努力にこんなに体力と気力と人生を割いても、社会はただ私がそこに座っていても咎めなくなるだけで、誰も私を守ってはくれないことを知った。
2024年1月のデジタル版雑誌で、バーノンさんは自分を表す言葉として「I want to be me」と書いた。そして、これはバーノンさん自身の言葉ではないけれど、4月の〈MAESTRO〉では「世界を変える僕らだから」と歌っていた。
私だって世界を変えたい。こんな社会も、世界情勢も、変えられるものなら変えて、私も安心して生きられるような世の中にしたい。だけど何をどうすればいいのかわからない。
それは自分がないからだった。バーノンさんをなぞってばかりの私には、バーノンさんが「今では自分が自分であることがわかる」と語るその「自分」が、どうしてもわからなかった。
そして私は自分を探しに出かけた。バーノンさんの好みじゃなくても映画をとにかくたくさん観て、音楽をたくさん聴いて、バーノンさんとは関係ない、私の好きなものをたくさん知った。そしてもっともっとわからなくなっていくのを感じた。その「好き」と「好きじゃない」の判断に目的がないから。好きだったところで、それが何になるのかわからないから。遠回りの後にバーノンさんのところに帰ってきて、自分の輪郭が少し戻った気がした。「全部、バーノンさんに話したい」という目的ができたから。
人は一人じゃ生きていけない。特に私はそうだ。それなのに、どうして私はこんなにもひとりなのか。
誰に何を話しても、主語が「I」から「We」にすり替えられていく。私の話を私のものとして聞いてもらえない。あるいは、駆け足で聞き流されてしまう。理解を諦められる。既知の情報を引き合いに出され、「今ここ」の言葉に向き合ってもらえない。咀嚼してもらえずに一方的に反論される。本気で「聞く」ということを考え始めてから、「その人の話をその人のものとして聞く」ことがどんなに難しいことかを知った。それでも、私は私の話を私のものとして聞いてほしかった。私がここにいることを誰かの目に映してほしかった。私が心地いい方法で聞いてくれる数少ない友達には、私よりも大切なものや、私のいないメインの人生があった。私は、誰の特別でもなかった。
誰かに私の話を奪い去られる前に、感情を盗まれる前に、私は話さないこと、感情を持たないことを覚えた。それはまさにバーノンさんの方法だった。私の自分を奪ったのはまさしくバーノンさんだった。それでも、そうでしか生きられなかった日々があった。
バーノンさんなら、私の話を私のものとして、最後まで口を挟まずに、表情も無駄に変えることなく、じっと聞いてくれる。はずだ。そんな希望だけが私を生かした。私はバーノンさんの特別ではないのに。
会社員だった時、誰も(私自身を含めて)私を私として大切にしてくれない環境で、バーノンさんが通気口だった。淡々と作業しながら、バーノンさんを思い浮かべてそこに鼻を突っ込んで、なんとか呼吸を確保していた。
会社の人たちは優しくて、ユーモアがあって、ハラスメントなんて一つもない分、そんな人たちに対してこんな気持ちになるのなら、私が間違っているのだと思うしかなかった。それはごめん、CARATに対してもそうで、本当にCARATさんたちがみんな優しくていい人たちだから、どうやら少しずつ縁が切れていって、自分がこれ以上は無理だなと思ったり、心当たりがないのにいつの間にか向こうからシャットアウトされていたり、その後で自分の仲の良い人たちが自分と縁の切れた人と仲良くしていたりすると、私が、私が間違っているんだと思った。私はここにいられないのだと、私はCARATという美しいコミュニティの中の異常分子なのだと思った。私は優しくもないしいい人でもない。
バーノンさんと手を繋いで逃げ出したかった。『マトリックス』のように。『テラビシアにかける橋』のように。『シング・ストリート』のように。『ムーンライズ・キングダム』のように。『キム氏漂流記』のように。私がこんなに痛いのだから、バーノンさんも、ずっと痛みを抱えて、ずっとこんな映画を観ていてほしかった。この希望が叶わないのなら、バーノンさんにも私にも、一生叶わないでほしかった。もしバーノンさんに相手が見つかるなら、私にも見つからなくてはおかしいと思う。アイドルなんていう、モテる職業はやめてしまえばいいのに。バーノンさんが美しいのが恨めしかった。そんな誰にでも愛される美しい顔、やめてしまえばいいのに。
バーノンさんが共有してくれる孤独と孤独の恋のファンタジーが、私の日々の通気口だった。そう、フィクションは通気口だ。ファッキンな現実に空ける風穴なのだ。だからこそ、バーノンさんが好むようなファンタジーを書けない自分が恨めしかった。私にもっと才能があったら、そうでなければバーノンさんと一緒に逃げ出しても映画的になれるような美人だったらと、そんなことばかり考えていた。
私は醜いから誰にも選ばれないし誰にも欲望を押しつけることができないけれど、バーノンさんが歌詞の中であんなにも生々しく欲望を表出するから、このアイドルにだけは欲望してもいいのだと思った。何も欲しくない私が唯一欲しいと思えるのがバーノンさんだった。もし宝くじが当たったら、もしランプの魔人に出会ったら、欲しいものは、バーノンさんだった。
這いつくばってでも、バーノンさんをわかりたかった。わからない自分が恨めしかった。わかる誰かが恨めしかった。お前は私をここから追い出すのか。ここ以外どこにも行き場のない私を。ここからさえ。
これは愛だろうか。これが愛だ。こんなにも黒く濁って汚いものを、大好きなCARATさんたちは愛と呼ぶ。一つの邪気もなく屈託もなく。私は項垂れてしまう。あんなにも美しい人たちがそう言うならそうなのだ。私の実感とは別として。
あまりに遠いCARATとSEVENTEENのキラキラが、どんどん遠ざかっていく。バーノンさんは13分の1なのだから、当然向こう側にいる。私は、私がその何千万分の1でいるには、私がこの腕でしがみつくしかなくて、もう私にそんな力はない。どうして誰も引っ張ってくれないんだ。
バーノンさん、私にここにいてほしいと言って。CARATちゃんじゃなく、私に。私に好きだと言って。私が必要だと言って。何千万の特別があってもいいから、私だって君の特別なんだと言ってよ。私がインスピレーションだと言って。何千万人のために何千万曲作ったっていいから、私のために、たった1曲作って歌ってよ。適当に手なんか振らないで。
私の「I love you」を聞いて「Me too」と言ったあの瞬間を、冷凍保存して、あれが最高地点でもうよかった。文法が間違ってても、バーノンさんの手は明確に私を指していたし、これ以上望み続けて傷つくくらいなら、最高の言質を握りしめて死を待つほうがいい。バーノンさん、早く誰かめちゃくちゃ素敵な芸術家ヌナと結婚しちゃって。これ以上のあらゆる可能性を一息に閉ざしてください、これ以上あなたに近づけないのなら。
君への愛は赤でもピンクでもローズクォーツでもない、ドロドロした夜の真っ黒。それでも、ああ私は、何千万回でも君が好きなのだった。私がこう生まれて、こうやって生きてきたから、私にとってのかっこいい人はバーノンさんで、私が強烈な色気を感じる人はバーノンさんで。私の人生がこうであったから、私がバーノンさんを好きだということは、洞窟の石壁に刻みつけられた太古の絵くらいに不変なのだ。君が受け取ってくれないからどこへも向かわない、ただ私を内側からゆっくりじっくりと破壊していくだけの愛。執着、焦がれ、憧れ。バーノンさん、私の永遠の恋。
私が人知れず倒れていく間に、アイドルのバーノンさんは何も知らず、メンバーや友達や家族と一緒に笑っている。それがアイドル。こんな感情を体に溜めないで排出するために、きっと支払代金がある。それが推し活。それがファッキン資本主義。
私は目下、バーノンさんがいなくても私が私として生きていけるように修行中だ。というか、バーノンさんがいると私が私として生きられないし、バーノンさんがいることに体が耐えられない。そんなふうになるのが愛なんでしょうか。もしも健康的に、執着せずに愛せるならば、それはバーノンさん以外の人にも向ける愛と同じであって、もう私はバーノンさんを好きじゃないってことなんじゃないだろうか。だけどそんな日は一生来ないだろう。来ないでほしい。来るのかなぁ。
どうして私はこんなにも頑張っているのに、たった一滴の欲さえ否定し尽くされて、もっともっとひとりで生きていかなくてはいけないのか。それでも、こうやって本当に自分が自分として生きていく先で、今度こそバーノンさんにも誇れるような自分になって、もうバーノンさんにすがらなくてもよくなって、それで……そうなれたら、もうバーノンさんに愛してるなんて言わずに、ただ本気でほほえんであげる。
バーノンさん、私は本当に君が好きだよ。バラバラになった君の破片を必死で拾い集めなくても、そこに立ってる一人の人間を見て、口をついて出てくる「好き」をそのまま言えるようになりたいと思うよ。でも、それができないのだから、私はそんなに君が好きじゃないのかもしれない。私は本当に君を見ていたんだろうか。
不恰好な青い眼鏡とボサボサの髪でよれよれのビートルズのトレーナーを着た私は、あなたにどう見えたでしょうか。私の緑色のうちわを、君は忘れたでしょうか。あなたを好きになってわかった唯一のことは、人と人とはわかり合えないということ。8万人で一つになったと思っても、それは思い込みでしかないんだよ。でも8万人が一斉に思い込めば、それは本当だよね。8万人で一つの歌を歌った時、私本当に、もうこれでいいって思ったんだ。8万人が一つの歌を歌う光景なんて、生きているうちに見られるものじゃないし、参加できるものじゃない。だからもう、これでいいって思ったんだ。君が私にたった2語返事してくれた言葉で、私はこれでいいって。やり切ったって思ったんだ。
私の自担は3年周期で変わる。
3年間で私は自担から膨大なものを吸収し、変化し、仕事や人間関係からもさまざまに学び、成長する。
“自担”は私の聖域だ。
私の人生の中の3年間は、私にとって永遠だ。
確かにそこに存在して、死ぬまで携えていく、本物の永遠だ。
バーノンさん、あなたは、私が初めて4年連続、人前で誕生日を祝った自担になりました。
そして私は、あなたを隣に置く日々から卒業します。
「バーノンペン」という言葉はきっと変わらないけれど、明日からバーノンさんは、私の「自担」ではなく「推し」になる。
私にとってのバーノンさんはかっこいい人で、かっこいい人はバーノンさんで、バーノンさんが私の激メロメロ男だという事実は、絶対に変わらないから。
巷では身の回りの憧れの人も推しと呼ぶ場合があると聞くけれど、「推し」という言葉が叶わない恋を封印する呪文なら、その効き目はあると思う。
何が変わるんだと思う人もいるかもしれない。何も変わらないよ。ただ肩の荷物を降ろすだけ。
私が次の3年間でどんな人になっても、またその次の3年間でどんな人になっても、絶対に変わらずSEVENTEENは美しくて、バーノンさんはかっこよくて(だって、バーノンさんの前までに私が本気で自担として選んだ3人の中で、降りた後に残念な仕上がりになっている人は本当に一人もいないのだから)、私はその美しさとかっこよさを絶対にいいものだと思い続けて、SEVENTEENが好きで、バーノンさんが好きで、変わらずCARAT棒を振り続けていることだろう。だって好きなんだもの。
これからは、好きな人に頼りすぎず、自分自身の人生をもっと強く歩んでいくだけだ。
「In The Lab」を書くために、これまで全然興味なかったハヤカワ書房の棚を見ていて、未知の世界がこんなにもあることに無性にワクワクした。バーノンさんってこういう存在だ。思いもよらない角度から、私の世界を広げてくれる。バーノンさんを好きにならなかったら観ていなかった映画、聴いてなかった音楽、知らなかった外国の言葉、本当に本当にたくさん、ありすぎるくらいある。バーノンさんは私の人生に一生返せないくらいのたくさんのものをもたらして、今の私をつくってくれた。
心のすぐ隣にはもういなくたって、人生の一番の目的じゃなくたって、私はまた何度でも、バーノンさんを知ろうと向かっていくんだろう。他者がいる世界を生きるとは、そういうことだから。
いつか遠い未来で、あなたが何千万分の1の私の言葉をまた、当たり前みたいに受け取ってくれたら、特別じゃなくても、腐さず当たり前の“普通”にしてくれたら、私はそれを希望と呼んでもいいだろうか。愛と呼んでもいいでしょうか。
最後に、バーノンさんの好きなところをもう一度挙げてみよう。
遠くからでもわかる腕の揺れ、体の左右揺れ。少しだけ前に出ている下唇。正面から見るとふっくらして見える耳たぶ。Tシャツの袖から伸びる肘のライン。物を持つ時の三本指。考えている時に唇を触る癖。お父さんの話をする時に低くなる声。極端に簡潔なメッセージ。無駄が一つもないイラスト。
ダンスチャレンジのかっこよすぎる力の抜き加減。振付で上に手を伸ばす時、ちゃんとその手のほうに顔を向けるところ。Weverseの設定に協調性がないところ。自分が本当に良いと思ったものにしか良いと言わないところ。自分が本当に良いと思ったものには、何としてでもはっきりと良いと伝えるところ。表情で相槌を打つところ。いつも何か人と違うひと工夫を入れてやろうと考えているところ。
ひとりがいいんだか寂しがり屋なんだかわからないところ。多分どっちもなところ。あんなにスンとした感じなのにめっちゃ破壊的な音楽もよく聴いてるところ。頭脳戦も心理戦も下手くそなところ。誤字に厳しいところ。レスバ弱いところ。失敗しても何もしてませんよみたいな態度ができるところ。逃げ足がめっちゃ速いところ。効率厨なところ。メンバーのノリには積極的に乗っかりに行こうとするところ。ああ、でも私やっぱり君の笑ってる姿はあんまり好きじゃなくて、ジャン負けでひとりだけ景品がもらえなかったけど平気そうにしてた君とか、メンバーの輪から外れて客席のほうに行ったらディノちゃんに連れ戻されてきょとんとしてた君とかが好きだった。
誠実なところ。誠実でいようとするところ。CARAT一人一人の目をまっすぐに見るところ。深く、丁寧に物事を考えていて、でも究極的にはどう転んでも希望を信じているというか、楽観的なところが、ちょっと癪で、でもそういう君じゃないと私は救われなかったんだと思う。
バーノンさんがどんなにイケメンでも、どんなにダンスが上手くても、どんなにラップが上手くても、私はバーノンさんを好きにならない。
私は、バーノンさんが好きだ。
あなたを好きになれてよかった。
でもさ、「好き」だけじゃどうにもならないことも、人生にはいっぱいあるんだよ。
3年間でちょっとずつ増やし続けたバーノンへの感情イメソンプレイリストも公開しちゃおう。人生はもうどこにも戻らないから。
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CARATとしてはまだまだやり残したことがたくさんあるし、私にはやっぱりSEVENTEENとCARATの愛が必要だから、安心してください、私はずっとCARATです。そしてCARATである限り、私はずっとバーノンペンです。
バーノンさんがずっと好きです。SEVENTEENの13人が、ずっと好きです。SEVENTEENを見て、安心して、わくわくする気持ちはずっとずっと変わらない。そうであるなら、私はずっとCARATですよね? ね。
バーノンさんと、バーノンさんの誕生日を祝う全ての人たち、もちろんドギョムも、誕生日おめでとうございます。
あなたの好きなものが普通だって特別だって何だって、あなたがやりたいこと全部、キラキラ美しく走り抜けられる日々でありますように。あなたは愛されている。ひとりじゃない。