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HAPPY EVERY VERNON DAY

誕生日おめでとうバーノンさん。いま私の人生のひと。

昨年中はもう本当に信仰と言っていいくらいただただ見上げて尊敬していたのだけど、Black Eyeでとても複雑な気持ちにぶち当たってバーノンさんへの向き合い方が変わり、いま良い意味でとてもフラットだと思う。

他人をわかったりわからなかったりするのは、どんな相手でも当然のことだ。たいてい、「わからないのは当然」と割り切って、適度な距離を保って付き合う。それで特に不自由はしない。のだけれど、私はなぜだかバーノンさんにだけは、「わかろう」としたがる。わからないのは当然、いくら手を伸ばしても掴めるはずがない、だけど届かない努力を1ミリずつでもしたいと思う。それがバーノンさんに対しての私の「誠実」であり、他でもないバーノンさんの生き方が私にそうさせる。

バーノンさんはむやみに見せない。でも隠しているわけではない。演じない。騙さない。ただフラットにそこにいる。届かないのだけれど、見失いはしない。「実は全部嘘でした」なんてことがない。1ミリずつでも、わかろうとすればわかろうとした分だけ、バーノンという人間に向き合う力が得られた実感がある。

バーノンさんは私を裏切らない。だから私もバーノンさんを裏切らない。これ以上の理屈はない。なんでその相手がバーノンだったんだろう。でもバーノン以外はあり得なかった。何度出会い直しても、私にはバーノンだと思う。

バーノンさんを好きになる前に、SEVENTEENを大好きになった。SEVENTEENのところにいたい。CARATでいたい。このあたたかな輪の中にいさせてもらいたい。その願いを叶えてくれたのがバーノンさんだった。SEVENTEENの輪を羨ましく眺めている私に、バーノンさんがひょいと振り返って、こっちへおいでと手を差し伸べてくれる。私はバーノンさんの背中にぴったりくっついて、その輪にお邪魔する。

私は13人みんなが大好きで、そこには何の上下もないのだけど、上下とは関係なしに「私にはバーノン」だと思う。私の手が届きそうなところに(届かないのだけど)バーノンさんの魂がゆらゆらしている。頑張ればわかるかも、話せば通じるかも、ひょっとしたら私の言ってることもわかってくれるかも。きっと全ての人に対してそうであるように、そういう機会があれば、バーノンさんは私にも分け隔てなくまっすぐ差し向かってくれるんじゃないか。あなたは心底そう信じられる相手だ。

バーノンさんを思うとき、私はこんなフレーズをよく使う。

I always believe you whoever you are or whatever you do.
あなたが何者でも、何をしても、私はいつでもあなたを信じます。

決して、盲信するという意味ではない。音楽だってファッションだって、私はちっともあなたの趣味で生活を埋め尽くすつもりはない。私にも私にぴったりのものがある。それと同様に、あなたにはあなたにぴったりのものがある。あなたがあなたの手で選んだのなら、それがあなたの正解だ。

私はいつもあなたを肯定する。それがどんなに受け入れ難くとも、あなたにはあなたの理屈があり、その時のあなたの気分がある。その時のあなたを肯定する。その時を生きるあなたを肯定する。

それを着たい今を肯定する。それを食べたい今を肯定する。それをやりたくない今を肯定する。それをしたくなった今を肯定する。その人に会いたくなった今を肯定する。それをできない自分を肯定する。それが得意な自分を肯定する。そう考えた自分を肯定する。そう感じた自分を肯定する。

とてもゆっくりと、しかし刻一刻と変わっていく、海面の波のような、木々のざわめきのようなあなたを、あるがまま肯定する。それが私の、世界に対する「誠実」だ。本当は全ての人・全てのものにそうありたい。しかしそれが難しい。だからせめてあなた一人にだけでも、私の「誠実」を守り抜きたい。顔を地面にこすりつけ、血を吐いてでも。あなたを“推す”ことは、まさに一つの“行”だ。

毎秒細胞を更新し、刻一刻と変わっていくあなたの新しい姿の全てを、私は肯定する。全ての新しいあなたの誕生に、私はまず 축하해요 と呟くのだ。

誕生日おめでとう、全てのバーノン。今日もあなたの誕生日。あなたが生きていることが、私は嬉しいです。

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