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バーノンさん走って迎えに来た



これまではたいてい、すぐには乗り気にならず、少し時間が経ってから観たり、聴いたりすることが多かった。今回は珍しく当日、7月11日のうちに調べて観た。

バーノンさんが投稿した3枚の画像を見た時点でもう、「あ、観なきゃ」
バーノンさん、迎えに来た って

迷いに迷っていたここ数ヶ月間、きっと一番の問題だったのは、自分が好きでいるバーノンさんは本当にバーノンさん本人なのか、今の私を見てバーノンさんは嫌いにならないだろうかという不安だった。
今年に入って部署が変わり、価値があると思える仕事ができなくなった。会社の傾きは止まらず、自分の前途が全然見えなくなった。
以前は必要がなかった新しい種類の期待を、バーノンさんに負わせる必要性が出てきた。それがバーノンさんの負えるものだとはっきりするまでは、どうしても「本人が好きだ」と言い切れなかった。私が自分の暮らしや社会全体に抱いている危機感を、直接weverseのファンレターに書いて送ったりもした。

その間私が信用したのは、ジョン・レノン、カート・コバーン、プリンス、チャーリー・チャップリン。
彼らの人物像にはもはや正解がなく、(熱狂的なファンにバレない限りは)どれだけ頼っても相手から不快に思われることがないから。特にジョンとチャップリンは、行きすぎた資本主義を批判するメッセージを明確に作品に込めていた。

大学の友達たちも、CARATたちも、お金や暮らしに危機感を覚えているほどの人は周りにいない。私だけが仕事も家も間違えている。転職しようにも、私には「職務経歴書」がどうしても書けない___

映画の二人の主人公のうち、男性は、職を失い、恋人にも振られ、借金がかさんで自殺しようとしている人物。漢江で溺れながら象徴的に挿入される回想は、いや、ここまで追い詰められていないにせよ、でもまさに今の私だった。「俺の居場所はどこにあるんだ」

(私は一円も借金していない)

もう一人の主人公は、私とどっこいどっこいの汚部屋に引きこもって、インターネットで偽りの自分を演出する女性。彼女は親が裕福なおかげで引きこもれているので、私が共感する部分は男性に比べて少なかったけれど、"外の世界にいる他者が怖い"という感覚は、私も強く持っている。額にあざのあるその女性の顔を見て、3年前、バーノンという人と初めて向き合おうとして最初に読んだ本が『顔にあざのある女性たち: 「問題経験の語り」の社会学』(生活書院)だったことを思い出した。

3枚の画像からは想像もつかないほど、作品全体はコメディタッチだ。笑わせながら切実さを描くことの美しさを、私はチャップリンから教わったばかりだった。

この孤独、この惨めさ、この痛み。そして彼らが人知れず分かち合うたった二人の地獄、でもそれが「一人ではない」と知った、たった二人の希望に、バーノンさんは心動かされ、伝えたいと思ったのだ。
バーノンさんが拒絶せず、救いたいと思っている人の中に、今の私も入っている。

たった今のバーノンさんの思いが、たった今の私に届いた。
そんな奇跡あっていいんだろうか。

「SEVENTEENみんな大好きだけど、私の一人の部屋に入ってきていいのはバーノンさんだけ」
自担、ということに私はそう思っている。
でも数ヶ月間ずっと入らせられなかった。飾ってあった雑誌とフォトパネルも裏返している。その部屋に、バーノンさんは何の前触れもなく、息を切らして迎えに来た。マジで汚い部屋でごめん。

ウォヌのLeftover、ドギョムのHAPPY…他にも何人かになんとか引っ張ってもらって、SEVENTEENへの信頼を繋いでいた。最後のピースをはめるのはバーノンさん。他のメンバーがぎょっとするような部屋でも、かまわず上がり込んで、手を取ってくれる唯一の人。

地獄はまだまだ終わらない。でもバーノンさんは、私を知らなくても、私の地獄を知っている。それだけで、私は生きようとしていける。



“15gの希望”

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