みぃばあちゃんの遺影


9月10日は、みぃばあちゃんの命日。
ある年の夏に100歳の誕生日を迎えたあと、眠るように息を引き取った。もう何年も前の話だ。

みぃばあちゃんはわたしの母の母。
わたしが幼稚園に入る少し前から大学入学のために実家を出るまで、15年くらい同じ家に暮らした。

大正生まれ、大人数の兄弟の長女、そして敬虔なクリスチャン。わたしの中のみぃばあちゃんは、くそまじめ。わりといつも真顔で、なんかやたら凛々しい。ロッテンマイヤーさんみたいな表情だった。
いや、笑わないわけじゃないんだけど、にこにこよりもびしっとしてるイメージ。孫だから甘やかすってよりは、ちゃんと叱られていた気がする。いや、それでもやっぱり甘やかされてはいたのかな。

ちいさいときはカルタやトランプで遊んで、宿題も見てもらっていた記憶がある。親は仕事や家事でそこには同席しない。
カードで遊んだら、最後はあいうえお順、数字順にそれぞれきちんと並べてから仕舞ったし、漢字の書き取りは熟語がちょうど終わる行まで何回も書いて、算数のひっ算は定規を使って線を引いた。無駄にちゃんとしてた。
今なら絶対やらないけど、当時はそこまでやるの、嫌いじゃなかった。
そういうことを、みぃばあちゃんの部屋の折り畳みの机の上でやった。トランプ52枚がちょうど広げられる、さつまいもの皮みたいな色の布張りの机。正座で座ったりして、弟と囲むこともあった。

他にも覚えていることはいくつかある。
みぃばあちゃんは、お茶を飲まない。
わたしのもう片方のばあちゃんは急須で緑茶をしょっちゅう飲んでるけど、みぃばあちゃんにはその記憶がない。全くのゼロじゃないと思うんだけど。
それよりも、カルピスの原液を長いグラスで氷とお水で割ってちびちび飲んだり、ピザと一緒にコーラを飲むようなひとだった。
(当時わたしはまだ「コーラは歯がとけるからやめときなさい」と言われてた。みぃばあちゃんは総入れ歯で、妙に納得した。)
ロッテンマイヤーのわりにはファンキーだな。

それからずっと、ずぅーーーっと手芸をしてた。ノンジャンルで。シーズンレスで。
編み物、洋裁、ビーズ系。フェルトやペーパークラフト、マクラメ結び。メッセージカードやお祝い用の箸袋、ドライフラワーのサシェ。小さなクリスマスリースや手作りの雛人形もあったし、キューピーに服を着せたりもしてた。
膨大な種類の材料と道具。思い返せば手当たり次第にも見える結構な量なのに、散らかってたことはないように思う。整然とあらゆる箱に仕舞われていた。クッキーやお煎餅の缶に、紙箱、プラスチックのケース。中身の見えないものには、それぞれにラベルが貼ってある。

みぃばあちゃんと材料を買い出しに行くのも好きだった。当時まだ100均なんてなくて、手芸用品店で買うしかなかった。値段も子どもには安価とは言えない。お店に並ぶあらゆるものがキラキラと、特別なものに見えた。
帰りに用品店の前にあるソフトクリーム屋根の小さな売店で、フライドポテトやソフトクリームを買う。すぐとけちゃうからアイスは一緒にその場で食べて、他は持ち帰って食べる。みぃばあちゃんはアイスも好きだった。味覚がちっともばばあじゃない。

わたしが大きくなると、自転車でお使いに行くようにもなった。チャリを飛ばして溶けかけのアイスを持ち帰ったこともあったな。それでも必要なときは、わたしに頼むんじゃなくて、タクシーで自ら向かうこともあった。みぃばあちゃんはいつでもなんだかしっかりと、自立していた。

決して大食いじゃないのに、手芸と食べ物の記憶が多いのは、一緒に暮らして、共にすることも多くて、わたしもそれが好きだったからだと思う。

わたしが家を出る数年前から、みぃばあちゃんの認知症は始まった。
家の外に知人が来ているから早く出迎えなさいとか、わたしに 見えないもの を見ていた。わたしは正しい対処法がわからなくて、「だれも来ていないよ」と言い、だんだん感情がヒートアップしていく彼女に、「わたしが嘘をついてるって?あんたまでそんなこと言うのか」と怒られた。シンプルにこわかった。
虚空を見つめて話しかけるみぃばあちゃん。引き留めても、自分で歩けるから外に出たりしてしまう。昔のばあちゃんとは、違っていた。

晩年は長いこと施設にいて、ちょこちょこ徘徊しつつも、穏やかに暮らしていた。すっかり丸くなったみぃばあちゃんは、施設のひとに「かわいいひと」認定されていた。家族からしたら驚愕ものだけれど、たしかに昔よりにこにこしてる気がする。みぃばあちゃんを可愛いと形容する日がくるなんて、わたしには想像もできなかったけど、そういう風にしゅうそくしていく人生もあるんだね。

一度、施設利用の都合でひと月ほど家で介護することになり、当時フリーターだったわたしは仕事を休んで手伝いに帰省した。
日中はデイケアで外出する。それ以外の親が不在の間、素人のわたしがばあちゃんを看る。わたしは彼女がうろちょろして転んだりしないようにベッド脇で見守り、トイレの世話もした。
ばあちゃんは年を重ねてより小柄になったけど、わたしもチビだから支えるのはそれなりに大変ではあった。でもその代わりに、介護用のシングルベッドに二人で横になることもできた。正しく全身を使って、みぃばあちゃんの相手をした。それでもわたしが寝落ちした隙に、自分で勝手にトイレに座っていたときは肝を冷やした。だいたいいつも、みぃばあちゃんの方が一枚上手だった。

生活にはルーティンがあった。
デイケアの帰宅後の水分補給。必ずソファに腰かけて、氷でよく冷えたコップ一杯の水分をとる。
ストローでゆっくり、自分で飲む。集中してるのかなんなのか、真顔でまっすぐ前を向いて飲む。終わるとグラスをわたしに渡す。毎日同じことをしているけど、何を飲むかで微妙にリアクションが変わる。
りんごジュースの日、みかんジュースの日は噛み締めるように飲む。カルピスに至っては氷まで食べる。え、入れ歯じゃなかった?音がしたときはぎょっとした。飽くなきジュースへの執念。逆に、きらしてしまってお茶の日はさくっと飲んで終わり。氷もノータッチ。めっちゃわかりやすい。素直。
あまりにも祖母らしくて、わたしは写真を撮った。

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のちにその写真が遺影になる。


「もうそろそろかも」と母から連絡があったのは、写真を撮った2年後。
家族で施設に泊まり、ちゃんと最期をみれた。わたしは近くに住んでなかったのに間に合ったのは、やっぱりばあちゃんがそこらへんちゃんとしてるひとだったからかなと思う。なんかよくわからんけど、彼女の人生は徹底している。
やりきった締め括りの、その綺麗さに、哀しいよりもすごいなぁと思った。

その気持ちのまま、葬儀の準備に入る。お葬式にでる機会は何度もあったけど、喪主サイドは初めてだったから、それなりにぱたぱたした(スリッパの音)。
通いなれた教会で、みぃばあちゃんは最期のお化粧をした。紋付きの着物と、凛々しい顔。生前の、あの厳しかったばあちゃんの顔と同じで、すごくびっくりした。起きてくるんじゃないかと思った。全盛期再来。最期までクライマックス。
それと並行して、遺影選び。あらかじめ少し古いけど、良い笑顔の写真も用意はしていた。でも、なんかしっくりこなくて。普通じゃないかも知れないけど、ストローでジュースを飲む写真を出した。
「加工でストローを消しますか?」と、業者の方が言う。そらそうか、でも笑顔で断った。

「このまま、ストローごとおねがいします。」

らしいと思いつつ、不謹慎で怒られますか?ときくと、愛煙家でたばこを咥えた白黒写真の格好いい遺影の方を知っています、と
話してくれた。洒落てるなぁ。

彼女を想うひとに囲まれて葬儀はすみ、無事に納骨までできた。

便利なもので、みぃばあちゃんの遺影の前に飲み物を置くと、ちょうどストローで飲んでいるように見える。
コーラでも、ポカリでも、なんでも飲んでくれる。お供えし甲斐のあること。

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今年はやっぱりカルピスかな。
お腹こわしたら困るから、氷は無しで。

投げ銭うれしいです。 子どもたちとたのしいことをするか、お寿司をたべます。