弥勒は救世主なのか
「五六七、369、弥勒、マイトレーヤー」というものが日本でも話題にのぼって来ているが、その起源をご存知だろうか?
弥勒、マイトレーヤーの由来は、サンスクリット語の「मैत्री 」(maitrī、マイトリー)であり、これは慈悲、友情、友愛を意味する。
弥勒とは釈迦の入滅後、五十六億七千万年ののちに、兜率天(太陽天球層)からこの世に下生して、竜華樹(竜と名付けられる樹)の下で、三会にわたって説法(竜華三会)し、衆生を救済する未来仏である。
弥勒の起源を辿ると古代イランすなわちペルシャの神ミトラであることがわかる。
(ミロク信仰の研究 新訂版 宮田登 著. 未来社, 1975, 弥勒信仰 (民衆宗教史叢書 ; 第8巻) 宮田登 編. 雄山閣出版, 1984.4)
ミトラはパーリ語でメッテーヤ(metteyya)と言い、マイトレーヤー(maitreya)と共通の音韻があるが、ペルシャとインド仏教との習合過程において弥勒教が誕生した。したがって弥勒は仏教由来ではなく、もともとはイラン・アーリアの原始ミトラ教の神ミトラである。
韓国の弥勒研究者達の間では、ミリ(韓国語で竜)との関連性を指摘されており、弥勒信仰は竜信仰が弥勒と習合して竜華三会が発展したという見解も示されている。
弥勒の起源であるミトラは、もともとペルシャの神格であるが、やがてカトリック成立直前のローマ帝国の国教ミトラス教(西方ミトラ教)の神(普遍太陽神)となった。
これはヘレニズム-ローマ期に、ペルシャ起源のミトラが世界中の神格と折衷してローマ帝国の普遍太陽神となったもので、密儀宗教の色彩を帯びていた。
ミトラ教はキリスト教とは水と油であり、ローマ帝国の歴史において両者間で戦いを繰り返したことは周知の事実である。
コンスタンティヌス帝によってミトラ教と原始キリスト教は折衷し、水と油が表面上は混ざることとなり、後にカトリック(キリスト教)が誕生していくこととなる。ミトラ礼拝所(ミトレーアム)はキリスト教の教会堂として使用された。
両者の対立関係からも明白な通り、現代における弥勒すなわちミトラ復興運動は、イエス・キリストの再臨に対するアンチテーゼであり、反キリスト的立場の信仰であるといえる。
両者は教義においても明確に対立関係にあるが、ここでは長くなるので割愛する。
弥勒は日本には仏教を通して流入し、近代日本では主に大本教(1892年-)が「みろくの世」を、全世界では神智学協会(1875年-)ならびにそれを源流としたシェア・インターナショナル(1959年-)が、やがてくる仏教的千年王国のメシア(キリスト)として、イギリスに居座る「世界教師 マイトレーヤー」(グレートホワイトブラザーフットの頂点)によるメシアニズムを展開している。
これらが火種となって、現在のスピリチュアルの中で弥勒信仰は再復興を遂げ、弥勒が世直しのための救世主(キリスト)として再臨することを待ち望む人々が、この日本でも起こされて来ている訳である。
このように世界の人々の信仰は、アーリアの神に集中させられているのである。
弥勒は、終わりの時代(末法以降)に釈迦に代わって人類を救済する救世仏として、メシアニズムとしての信仰対象となっているが、救世主すなわちメシア(מָשִׁיחַ māšîaḥ)というのは、そもそもヘブライ語で「油注がれた者」という意味であり、もともと聖書用語である。
聖書によればメシアは、ベツレヘムで誕生しなければならない。(ミカ書5:2)
歴史上実際にベツレヘムで誕生したのはイエスであり、釈迦でもなければ、モハメッドでもない。ゾロアスターでもなければ、孔子でもない。出口王仁三郎でもなければ、岡田茂吉でもないのである。
すなわち救世主(メシア)とは本来「イエス」のことであり、これを聖書ではイエス・キリストと言う。(キリスト(Χριστός)とはメシアのギリシャ語訳である)
他にもメシアに関する預言は聖書内に多数あるが、これらをすべて成就して誕生し、預言通りの生涯を過ごした人物は、歴史上イエスを除いて他にはいない。
以上のことから、聖書的にいえば「弥勒」「マイトレーヤー」は偽メシアであると言える。
何を信じるのも個人の自由だが、信じるものは吟味したほうが良いだろう。その代償はやがて当人が負うこととなるのだから。
"そこで、イエスは彼らに答えて言われた。
「人に惑わされないように気をつけなさい。
わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。"
マタイの福音書 24章4~5節