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昭和生まれこそ生成AIを使い倒すべし

生成AIが生活をガラリと変える。
子どもたちに旧式の思考活動を押し付けてはいけない。
そのためには今の子供の親世代、つまりわたしのような昭和生まれ団塊ジュニア付近の世代こそ、いますぐにでも、その可能性を学ばないと、子供たちの進化の邪魔になる。

生成AIががすごい社会変化を起こすことは間違いないとわたしも感じている。

AIの乱用によるリスクも考慮する必要があるのは間違いないが、何が変わるかを体験的に体に染み渡らせておかないと、無知そのものがリスクになってきそうに感じる。

使わないことは、
自動車が出てきた当初、

「車はアブナイから自転車か手押し車で良いし、運動能力が退化するから乗らない」

と言ってた人みたいなもの。

車もAIも、「時間」を生む。

AIに聞けば、ネット空間という巨大データレイク、すなわちアカシックレコードから、聞きたいことを短時間でまとめたかたちで引っ張ってこれる。

これまでは、
アレをするためには、こうすればよさそうだとまずイメージし、
コレとソレを個別に調べて、
コレとソレの前後に必要なことを追加で調べ、
それらをかき集め実現できるように組み立てる、
ために思考を働かせる時間と労力が必要だった。

が。

「アレがしたいがどうしたらいいか」

と聞けばいいだけ。
すると、自分の経験知に無かった、イメージの外側の「複数の手段」まで含めて答えを出してくれる。

その中からどれを選ぶかは、

「こんな状況だがこの中ならどれが最短でできるか」

などの追加質問で絞ればいい。
1人で勉強して知識を詰め込んで博学になる必要はなくなる。
しかしロジカルシンキングまで人間が手放すものではない。むしろ、AIにどんな質問をすればよいのか、をロジカルに考える必要がある。

これはむしろ、主観的で主語もなくテキトーにやり取りしていた人間対人間の会話を、まともなコミュニケーションに戻すこと、くらいな、感覚でわたしは捉えている。

AIが教えてくれた選択肢から手段の的を絞ったら、

「そのやり方を子供でも分かるように具体的に教えて」

とすれば、誰でもできるやりかたを教えてくれる。

わたしはここが超大事だと思っている。
知識がなくともやりかたがわかるのだ。
料理のレシピと同じ。
(包丁の使い方など基礎的なものは肉体的訓練が必要だが)

逆に言えば、
わからない。出来ない。
だから自分の仕事じゃない。
と逃げられなくなる。

つまり、生成AIを使いこなせるようになっておかないと、自分に仕事が回ってこない理由がそこ(受け身、指示待ち)にあることすら、気づけない。

こういうことをわからないまま、
たぶん、私含む昭和世代〜平成前半世代はいまを過ごしているひとがほとんどだろう。

たとえばいま、
「chatGPT飽きた〜」
と言い放つ人は、
恐らくFacebookなどSNSの醍醐味を知る前に非アクティブになっているだろう。

SNSの文字だけのコミュニケーションを続けていると、繋がりは時空を超える。
数千キロ離れた会ったこともない人との信頼関係、友情や愛情を、文字のコミュニケーションだけで構築できるなんてことを、続けてこなかった人々は、この営みがテレパシー能力の復活のトリガーになりそうなくらい凄いことだということを、知らないのだ。

「日記書いてて何が面白いの?」って。

言葉で語っても、到底理解できない。
ギャップが生まれていく。

そんなことから、
AIなんかに頼らず自分で考えろ、的な感覚を若い世代に押し付けてもいけないと感じている。

子どもたちにも、使いこなせば時間を生み出せるツールとして、積極的に使わせていきたい。

たとえば、エクセルに並んだデータをチェックしたり加工したりすることを手作業でやっているならば、
結果的にどうしたいのかをそのまま書いて、「これをやるエクセルマクロ作って」と書けば、秒でソースコードを書いてくれる。入門レベルのプログラミング知識のみで、それをVBAとして走らせ、1時間かかっていた作業が数秒でやってくれる。

毎日その仕事をしていたら、年間で250時間も別のことに時間を使える。

こういったことを、「無料でできる」ことがいま革命的なのだ。

それを使ってどんどん体感的に経験積んだ人だけが、古臭い社会システムに意見具申できるようになり、
たとえば行政などに、具体的な改善方法を突きつけながら、声を上げることができるわけで。

これまでのような、時間のムダのノイズでしかない"代案なき批判"は排除される。より建設的で効果的な議論に洗練されていく。

人口減少社会において、これはとても重要なことだと思う。

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西村圭司(にしやん)
問題の一部であり続けるのではなく、解決の一部でありたいと思っています。