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「大阪会議(明治8年)」と花外楼

大阪会議は、明治8年(1875年)の1月から2月初めにかけて、木戸孝允、大久保利通、板垣退助が大阪で会合をもち、立憲政体の樹立で合意に至った歴史的に重要な会合です。

木戸が立憲政体に大きな意欲をもったのは、岩倉使節団の一員として米国に滞在中のことのようです。久米邦武の記すところによると、時期は、大久保利通、伊藤博文が急遽条約調印の不備から帰国し、米国に残されていたとき(1872年ごろ)のこと(以下は、久米邦武『回想 岩倉使節団:木戸孝允とアメリカ憲法』によっています)。政府関係の調査もできず暇を持て余していた久米は畠山義成とともに、米国憲法の注釈書を訳すことにしました。それを聞いた木戸は、「自分もそれに参加したい」というほど興味をもったそうです(ただし、翻訳は完成間近だったこともあり、「ただ来てご覧なさるのがよろしいかと思います」と断られています)。木戸と久米はだいぶ打ち解けた話をしていたようで、木戸が「新政府の政令がいつでも軽率なのに困る。朝令暮改で一貫性がない」と嘆いたところ、久米は五箇条の御誓文まで反故になると、皇室さえも危ういと指摘します。木戸はこの指摘を受け、五箇条の御誓文を一晩熟読し、

 「この御誓文を掲げて我が国の根本法なる憲法を想定し、その下に国会を設けて世論政治を行うことは、将来に向かって動かざる理想と確信している」

と語られたとのことです。

(国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3860366より)

 上の図は、大阪会議の当時、木戸自身が書いた「政府改革図案」と呼ばれている新制度のモデル図です。能書家として有名な木戸にしては荒っぽい書き方ですが、制度改革の同志たる鳥尾小弥太や吉富簡一と新枠組みを共有する目的でメモ書き的に記したものと思われます。この図の枠組みを基礎として、明治8年4月14日に「立憲政体樹立の詔」が発せられ、日本国の新しい政治制度が発足していきます。とはいえ、大日本帝国憲法が施行されるのはここから15年後のことで、大阪会議から2年後に他界した木戸が立憲政体の確立を目にすることはありませんでした。

さて、大阪会議の舞台の話に移りましょう。大阪会議の重要な舞台は今も大阪・北浜に続く「花外楼」という料亭です。当時は「加賀伊」の名で宿も兼ねており、伊藤博文の定宿でもありました(木戸の日記では「伊藤の宿」と書かれたりしています)。明治8年2月11日に、木戸は、大久保利通、板垣退助を花外楼に招きます。大久保の伊藤宛の書簡見ると、大久保は何があっても木戸を政府に戻したいという意向を持っていたことが分かります。その一方、自由民権派の板垣にはよい感情をもっていなかったようで「大阪に自由民権家があつまってきているが、さしたることもできないだろう」といったことを書いています。木戸―大久保、木戸―板垣のやりとりはありましたが、木戸、大久保、板垣の三者でのやりとりは、明治6年の政変以来なかったようです。明治8年2月11日の『木戸孝允日記』に

 「一昨年十月、政府両端に分かれしより、大久保、板垣は始て面会せしなり。議論両端と雖も交際の道は不可絶。依て、余、前途此紹介をなせり」(原文には句読点がなく、適宜付加しました。また旧漢字を当用漢字に直しています。その他はママ)

とあり、木戸が大久保、板垣の両者の加賀伊での邂逅に意を砕いていたことがわかります。

 伊藤博文、井上馨、鳥尾小弥太、吉富簡一らの助力があり、すでに、木戸―大久保、木戸―板垣の間では立憲政体樹立を前提とした政府への復帰の合意はできていました。そのため、加賀伊の会合は宴席の色合いが強かったようです。実際、伊藤は、「木戸・大久保両公と板垣・井上(馨)が集まって、会議を開いて酒を飲んで、大阪会議はおしまひになった」と、後日、語っています(『伊藤公実話』P.26)。また、加賀伊の宴席には、当初からこの5人(伊藤を含みます)が参加し、あとから鳥尾、吉冨が参加したと木戸は記録しています(合計7人ですね!)。

 この日の宴席での木戸、大久保、板垣の三名での久しぶりの邂逅がよほどうれしかったのか、木戸は「加賀伊」に「花外」の字の扁額を送り、それ以降、加賀伊は花外楼と名を改めました。木戸の宿は当時別の場所にあったのですが、日記には「宿加賀伊」と記載されており、この日は伊藤とともに加賀伊に宿泊したことが分かります(伊藤は大阪会議の期間、ほとんど加賀伊に泊まっていたようです)。さすがの木戸公も、うれしさのあまり、お酒が過ぎたのかもしれません。

 

(写真は、花外楼様の許可を得て利用しています)

 大阪会議というとき、立憲政体樹立や木戸、板垣の政府への復帰を巡る大阪での一連の会合を指す場合と、3名の対面で合意が確認された2月11日の花外楼での会合を指す場合の両者があります。2月11日の会合・宴会は、一連の会合の大団円としてシンボリックなものですので、「大阪会議は花外楼で開催された」といってもいいでしょう。

(現在の花外楼の正面と、「大阪会議開催の地」の石碑(真ん中の石柱)  花外楼HP https://kagairo.co.jp/kitahama/ より)

一方、一連の会合というとき、「大阪会議は大阪・北浜の三橋楼で始まった」といわれることがあります。明治8年1月、木戸孝允は、神戸で上陸し、6日に大阪に入ります。木戸と大久保は、神戸までわざわざあいさつに来た大久保とその前にあっていますが、世間話だけでまだ会合といったものではありません。1月8日、大久保が木戸の宿を来訪し、木戸は大久保に連れられて三橋楼に上がります。そこで大久保は熱心に政府への復帰を請い、木戸は自らの「条理情実を諭し」頑として受け入れませんでした。4,5時間押し問答をし(維新の三傑のうちの二人の押し問答、さぞかし…とおもいます)、また「別の日に」ということになりました。大久保は「有馬への湯治」の口実で大阪に来ていたのですが、この時、長期戦になることを覚悟したようで、五代友厚邸を宿として腰を据えます。ところで、有能で情に厚いと評価の高い一方、酒乱の悪名も高い黒田清隆(了介)が三橋楼の会合の場にやってきて「酔狂」し、温厚な木戸もかなりの不満をもったようです。大久保宛の後日の手紙で、木戸は、この日の黒田に対する態度を詫びてはいるのですが、「酔狂」した黒田に大きく憤っていたことは確かなようです。

 さて、上記から、1月8日の三橋楼での会合が、大阪会議の始まりと見なすことができそうです。つまり、大阪会議を一連の会合だとすると、「1月8日の三橋楼の会合から2月11日の花外楼の会合までの期間にあった各種会合」となります。ただし、1月8日の段階では、大阪会議の木戸―大久保の調整の要となる伊藤博文はまだ東京におり、立憲政体や自由民権派の板垣を含めた政権復帰の話はまだまだあとになります。

 また、前述したとおり、木戸はアメリカ滞在中から立憲政体に強い確信をもっていたのですが、大久保がその案をのむはずはないと諦めていました。一方、大久保は伊藤宛の手紙(読後の焼却を願っているので、本心に近いでしょう)で、「木戸公の驥尾につくつもりで、政権にもどってくれるならどんな案でものむ」という覚悟を伝えていました。この両者の思いを知り、伊藤は「大久保が立憲政体樹立案をのんだら政権にもどる」ことを木戸に約束させます。大久保は一も二もなく、この案をのみ、木戸、大久保が対面で合意したのが1月29日。木戸は望外の結果に大きな喜びを覚えたようですし、大久保も安心したようで、翌日から五代などと有馬温泉に出かけてしまいます。

ある意味、日本国の歴史上もっとも重要な合意の一つが取れた日は、この明治8年1月29日だといっていいでしょう。そして、木戸と大久保の間での対面での合意がとれた場所は、やはり「加賀伊」でした。この意味でも、「花外楼で大阪会議が行われた」という言い方は間違っていないように思います。

 長々と書いてきましたが、「なぜ合同会社・SOLARIS」が大阪会議の話を?と疑問に思った方も少なくないとおもいます。

その理由の第一は、SOLARISが、大阪の歴史・文化の再評価を通じた新たなブランディングに取り組んでいることです。「大阪会議」は日本国の政体にとって重要な意味を持つにもかかわらず、高校の歴史の教科書でも注で言及されるのみであったりしています。また、インターネット調査(調査会社に委託)の結果では、「大阪会議を知っている」と答えた方は約10%で、9割がたの人は大阪会議を知りませんでした。また、調査は、東京と大阪で行いましたが、大阪会議の認知に関して、大阪がすぐれているということもありませんでした。SOLARISは、大阪の人々が自らの歴史、文化的資産を十分に認知していないことをマイナスにとらえていません。それどころか、大阪の人々が、こうした資産を認識したときに、一層の地域愛をもつという研究結果を得ており、ポジティブに新たな展開の可能性を探っています。

もう一つの理由は、現在の花外楼様から大阪画壇の名品をデジタル化させていただいた経験です。そのうちの一点、中川和堂作「天神祭り」は、祝うてエールという当社企画のクラフトビールのラベルで使わせていただいています。こちらの話は、またいずれ、稿をあらためてお話しさせていただきたく思っております。

『祝うてエール』ラベル絵は花外楼様所蔵・中川和堂作「天神祭り」


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