「恵まれてる」という言葉
ふと思った。
「恵まれてる」という言葉も差別用語にもなりうるんじゃないか、と。
母親がよく言ってたのが「私達は恵まれてるのよ。お父さんがちゃんと働いて家にお金を入れてくれてそのおかげで私達は食べていけててあなたは私立の学校に行かせてもらってる」と。
後半はたまーに、だがよく言われてたのが「恵まれてる」で、そして大概その後に、「その環境にいられるのは誰のおかげ?感謝しなさいね」と、感謝の強要がある。
誰が言ったのか、「"自己肯定感" という言葉は自己肯定感がある人は全然意識してなくて、自己肯定感がないor低い人が "高い低い" を付けたのでは」と。
その "自己肯定感" の言葉のように "恵まれてる" という言葉も、ある一方の人を「恵まれてる」と定義したら、そうではない人のことは「恵まれていない」という言葉になる。そうして分断や差別が生まれていくのではないのかなぁと。
母親の表の顔は上っ面が綺麗な人なので「私は差別なんかしてませんよ」とか澄ました顔しながら裏では身内に対してすんごい差別発言をしてた。
自分の認めた善は良くて他はちょっとねぇ…みたいな感じで線を引いてた。
まだまだ脳内オカンがいて私を蝕んでて、大人になった私とぶつかり、違和感や認識のズレが生まれてきてる。
ずっと「○○はそういうものである」と信じてきたものが、実は親からずっと言い含められてきたもので、自我なんて存在してなかったor存在できず生きてきたんだなぁ、と感じる。
親と離れて色々経験してきて、経験してきたことを自分と認めてもいいのかも、という時にこれまでの認識とぶつかるのかもしれない。
ならこれは通過儀礼だ。きっと必要なもので、こうして取捨選択していくのだろう。
その作業はたぶん1人で行うものなんだろうなぁと思ったり。
誰かに助けてなんて言えない。何を助けてほしいかもわからないのに、助けなんて求められない。
まず、自身で把握しとかなければいけないという強迫みたいなものもある。
この通過儀礼はつらいなぁ。
(写真は、新潟の日本海。海が荒れてた)
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