生まれたのは、命だけじゃない。後編
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子どもが生まれる1ヶ月前に、親父が死んだ。
肺がんだった。
病気がわかってから半年で、命を終えた。
バイタリティが低い僕とは対照的に、
365日仕事しているような男だった。
でも、逝く時は、一瞬だった。
医者から言われた3ヶ月くらいの余命を残して、
一晩で逝ってしまった。
病院に着いた頃には、既に心臓は止まっていた。
とても急だったから、伝えたかったことは
僕の胸の中に残ったまま、今でもここにある。
親父が死ぬ一週間くらい前に、子どもの名前を伝えた。
生まれるまでは、内緒にしておこうと思っていたのだけど、
生まれてくる命と、去っていく命の競争は、かなりの接戦になっていた。
だから、フライングして親父に伝えた。
この世界には、時に許される反則もある。
名付けの意味を書いた紙を見せると、
「いい名前だな」と、あっさりと納得した。
うっすら感動していたように思う。
その日が、親父と会う最後の日になった。
妻が検査を終えて、部屋から出てきた。
強い陣痛がくるまで、分娩室には入れないらしい。
運が悪いことに、その日の病院は、とても混んでいた。
2人部屋の手前のベッドに移され、
いつ来るかもわからない「強い陣痛」を
僕と妻、妻の両親と待つことになった。
お義母さんが妻の手を握ったり、背中をさすったりしていた。
長年の親子の絆に、最初はなかなか入っていけなくて、情けない気持ちになった。
一定のリズムでもなく、唐突に訪れるまだ「強くない陣痛」。
顔をしかめる妻。もう、なりふり構っていられない。
何かがふっきれて、いつしかお義母さんよりも、
妻の手を握り、背中をさすり続けるようになった。
夜の10時くらいだったろうか。
看護師さんに、妻がいきんだら子宮を押し込むように強く押せ、と教えられた。
いきむ度に全力で押し込む作業を、数分おきに続けなくてはならなかった。
妻が「もう死んでしまうんじゃないか」と思うくらい顔を歪め、
声にならない悲鳴を上げたので、たまらずナースコールをした。
看護師さんが来て、体の状態をチェックする。
まだだ。まだ「強い陣痛」には、ほど遠いらしい。
日付をまたぐ前には、生まれるだろうという目論みは、あっさりと崩された。
何時間も続けていたので、お義母さんが代わるよと言ってくれた。
でも妻が、「いかないで」と不安そうな顔で言った。
妻は段々と、自分の母ではなく、僕の手を求めるようになっていた。
分娩室に行くまでは、彼女にとって僕だけが心の支えだった。
夫婦の絆があるとするならば、この時ほどそれを感じたことはなかった。
朝までは生まれないだろうとのことだったので、
妻の両親は一度家に帰り、
そこからは、夫婦2人だけの戦いになった。
途中、妻が「もう無理」とつぶやいた。
僕は、「もう少しだから」と何も根拠のない言葉しか返してあげられなかった。「もう少し」、それは僕の希望の言葉でもあった。
やがて日が昇り、陣痛の間隔も短くなった。
いよいよか、と思い看護師さんを呼んでみるが、
「もう少し頑張ろう」とすぐに行ってしまう。
それぐらいその日は、病院が忙しかったんだろう。
もはや生きているのか死んでいるのか、わからなくなっていた。
眠気と疲れ、妻はそれに増して、死ぬほどの痛みがあるのだ。
朝の10時近くになって、
妻がまた、強く痛みを訴えるので、ナースコールを押した。
状態をチェックした後、「分娩室が空いたら移動しようか」と言われた。
心から待ち望んでいた言葉だった。「強い陣痛」がようやく来た。
いよいよだ。
病院に着いてから、すでに14時間以上が過ぎていた。
分娩室が空き、分娩台に寝かされたからは一瞬だった。
10:36
妻の痛みは知る由もないけれど、あっさりと子どもは出てきた。
体をキレイに拭いてもらって、妻の腕の中に。
僕は、子どもが生まれてきた感動よりも、
想像できないような痛みを耐え抜いた妻の頑張りを思って泣いていた。
しばらくすると、廊下で待っていた妻の家族や、僕の母親が分娩室に入ってきた。妻を労い、生まれたばかりの子どもを愛でた。
その後、子どもは新生児室に運ばれ、
妻は仮眠を取るように言われた。
僕は、母親を家に送り届ける前に、2人で近くのそば屋に立ち寄った。
この辺の記憶は、眠くて疲れていてあまり覚えていない。
たぶん、親父のことを話したんだと思う。
親父に子どもを抱いてほしかった。
子どもに、僕を育てた親父を見せてやりたかった。
命は、繋がっている。
親父が、命を途中で諦めていたら、
僕も生まれていないし、子どもも生まれていない。
当たり前のことだけど、そのことが身に染みてありがたく思えた。
生まれたのは、命だけじゃない。
出産は、子どもだけじゃなく、たくさんの思いを生む。
子どもがもし、将来父親になる時、
同じような気持ちを持ってくれたら嬉しいな。
最後に、
出産後、妻が言ってくれた言葉。
「あなたの子どもを生めることが、唯一のモチベーションだった」
たぶん、僕はこの言葉を、生涯忘れないと思う。
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