櫻坂46と選抜制度について、徒然に③

 ここまで読みますか、なかなかやりますね。
 何というか、あなたに余裕を感じます。人生の余裕。こんな拙文に付き合ってくれるだけの時間的な、あるいは精神的な余裕が。
 では、その懐の大きさに甘えて、もう少し吐き出してしまいますね。

 えぇっと、櫻坂46に対する選抜メンバーの選び方の是非、でしたね。


【ミーグリ売上基準の妥当性】

 さて、ミーグリ基準に対する私の見解は「ベストとは言えないものの、ベターではあろう」というものです。その理由を大きく4つ、以下に明記します。

①基準としての客観性の高さ

 ミーグリ売上基準は、数値として表せるだけに客観性があります。選抜するためにメンバーを比較するからには、誰しもがその差を把握できる明確な指標を用いるべきです。
 選抜メンバーに選ばれるか否かは、アイドルにとって、そしてファンにとっての一大事でしょう。だからこそ、メンバーを選抜するに際し、誰かの主観に左右される、人によって評価が分かれる指標を選抜基準に持ち出すとするならば、私は少々支持しかねてしまいます。

②基準がファンに明示されている

 前述している通り、ミーグリ売上基準とはファンの推察の代物ですが、それが採用されていることを多くのファンが確信できるほどに、毎シングルの選抜メンバーの顔触れは露骨です。
 これはもう、ファンに向けて選抜基準が明示されているも同然と言えるでしょう。そして明示されているからこそ、その選抜結果についてファンはある程度の納得感が得られるのではないでしょうか。
 ここで申し上げたいのは、何かしらの基準によってメンバーが選抜された際、どうして選ばれたのか、選ばれなかったのか、その基準をファンも知り得る、把握し得る、推察し得るということが大事なのだということです。
 何を基準に選抜されたかが分からないなら、この選ばれ方は贔屓じゃないのか、不当な評価じゃないのかと、それはそれで運営に不信が募りそうです。
 選抜メンバーのファンもなぜ選抜されたか分からず安心できない、バックスメンバーのファンも選抜されない理由が分からない、ということであり、ファンによる過当競争や根拠を持たない批判の一因になりえるのではないか、とも思います。

③メンバーにとっての目標になる

 ②に通じますが、基準がはっきりしているために、メンバーが選抜入りを目指すにあたり目標にしやすいという利点があります。
 何をすればミーグリの売上が上がるのか、この因果こそ不明瞭ではありますが、ミーグリが売れれば選抜に入りやすいという因果はだいぶ明瞭です。

 選抜常連なれど、2列目、3列目を行き来するようなとあるメンバーが、ファン向けにメッセージを届けられる場において「2次完売を目指す」と宣言したことがあります。
 いつでも、自分の歌唱パートにおいてどんな風に歌おうか、MVや歌番組で自分が画面に映っている間にどんな表情をしようか、その表現を模索している。そして実際に表現することが楽しく、それをファンが受け取ってくれることが嬉しい。
 そんなことを語る、表現意欲の高いそのメンバーが、「2次完売を目指す」と宣言したのは、より前の列に立つため、立ち続けるため。前の列にいるほど歌唱パートが増え、より長い時間画面に映ることができるから。
 できればさらりと前の列に立って、自分の表現でファンに喜びと驚きを与えたかったけど、そう簡単にはいかなそうだから、このままでは自分のファンに自分の表現を届けられないから、ここはファンの力を借りて一緒に前の列を勝ち取りたい。そして勝ち取った喜びを分かち合いたい。
 この時、普段はあまり多くを語らないタイプのそのメンバーが、本当に珍しく具体的な目標を掲げました。
 具体的な目標とは大事なものです。具体的であるほどに実現性が高まります。「2次完売を目指す」とは、「選抜メンバーに選ばれる」よりも具体的、「より前の列に配置される」よりも更に具体的な目標だと思います。
 しかも「1次完売を目指す」ではないあたりが絶妙です。そのメンバーにとっても、応援しているファンにとっても、何とか手が届くかもしれない、という十分現実的なラインだからです。
 ファンがメンバーに、運営に乗せられているのだとしても、ファンがそれでよいと言うならWin-Winです。
 これは、ミーグリ売上基準がポジティブに作用している一例だと思います。

 ミーグリ売上(そうでなければ、これと同様の定量的で明示的な指標)でまず篩にかける。互いに全完売しているなど、ミーグリ売上が等しい者同士の評価に差をつけられない時には、他の指標で差を測る。これは明快な選び方だと思います。
 しかしながら、ミーグリが売れる数が少なければ選抜を選ぶ土俵にも上がることすら困難となる、ネガティブに作用することも往々にしてあるこの基準は、そんな事実があっても尚設けるべき基準なのか、と言う点については追って論じます。

④現状、ファンに対してより誠実な基準であると考えらえる点

 ミーグリ売上基準を用いることは、ファンに対する誠意の形の一つと言えるのではないか。そう考えることがあります。
 欅坂46から櫻坂46へ改名し、グループには選抜制度が採用され、その時から表題曲に選抜されるメンバーはミーグリをより早く完売させたメンバーで構成されています。
 当初はグループそのものに現在ほどの人気はまだ無く、各メンバーの全完売に至るまでのスピードも遅かったですが、それでもその頃からミーグリ売上基準は適用されていたと思われます。
 1stシングルにおいては前作シングルが無いため、ミーグリ売上基準の用いようもなかったはずですが、欅坂46時代の握手会売り上げやグッズ売上など、参考にできる指標はあったのではないでしょうか。
 櫻坂46も4年目、現在までシングル9枚、アルバム1枚を発売してきましたが、ここに至るまで選抜メンバー選出においてミーグリ売上基準が貫かれてきたことは、②で記したとおり自明でしょう。ファンの多くが同様に推察していることでしょう。
 決して少なくない数のファンが、推しの選抜メンバー入りを期待した購買行動を起こしているとなると、ミーグリ売上以外の要素に重きを置いた選抜基準への移行は、そういったファンの期待を裏切ることになるとも言えるのではないでしょうか。
 「何のためにCDを買ったと思っているのだ」「なぜ推しメンがバックスで、推しメンよりミーグリ完売数、完売速度で劣るメンバーが選抜入りなのか」という不満を生むのではないでしょうか。その不満が正当なものであるかと言われれば、言われた側も返す言葉に困るかもしれませんが、この感情自体を否定することはできません。
 極端な話、選抜基準の内容次第では、ミーグリ1次完売、最も人気があると呼べるメンバーがバックスメンバーになるということも無い話ではありません。が、こうなれば運営は多くのファンから轟々と非難されるでしょう。
 そもそも最初からミーグリ売上基準など用いなければ、こんな不満が生まれることもない、生まれたとしても小さい声だったでしょうに、しかしともかくもミーグリ売上基準を採用し、現在まで続けてしまったために、ファンはある意味運営を信用しています。「ミーグリが売れれば選抜メンバーになれる可能性が高まるのですよね?」と。
 今までがそうだったから、という前例主義とも少し違います。ファンとの間で共通認識が持たれるほどに浸透したミーグリ売上基準は、その選出基準は変わらないと信用している、あるいは変わらないと諦めているファンに対して、一貫性があるという点では誠実であると、私は感じています。
 その他の点においては問題点はないのかと聞かれれば、大いにあると答えたくなりますが。

 ここまで、選抜メンバーを選ぶにあたりミーグリ売上基準を用いることのメリット、用いないことのデメリットを挙げてきましたが、あえて反対に、他の基準をもって選抜することの利点、妥当性についても考えてみましょう。

【他の選抜基準の可能性】

①グッズ等売上基準

 グッズ売上や公式メッセージアプリ(メンバーからファン向けにメッセージや音声を届けられるサービス)など、ミーグリ申し込みに伴うCD購入以外で、経済的利益をもたらすものを売上を基準にする方法です。
 ミーグリに参加しないファンでも、推しメンの選抜入りに貢献できるのではないでしょうか。
 と言ったもののすぐに反論が浮かびます。皆が皆グッズなどを買うわけではないという点で、ミーグリと同じです。
 また、ファンは程度の差こそあれメンバー皆が好きなもので、お手軽に買えるグッズについては、ファンが複数のメンバーのグッズを買ってくれる見込みも大きく、そのグッズの売上では差がつきにくそうです。
 CD1枚以上に高額なグッズも多いですから、この売上が選抜に影響するとなると、ファンは今以上に経済的に疲弊するかもしれません。
 そもそも、ミーグリ売上が人気と相関するなら、グッズの売り上げもやはり相関しそうで、結局同じような選抜結果が生まれそうですし、何が選抜基準か明示されないとなると、仮にグッズ等売上を基準にしていたのだとしても、ミーグリ売上基準と区別がつきにくいだろうとも思います。
 同じような結果をもたらすが、微妙に違う結果が生まれる基準なのでしょうが、その基準がファンにはわからないとなると、ファンの間の納得感は、ミーグリ売上基準より少し薄れそうな気もします。

②アンケート基準

 ファンにアンケートを取り、次の選抜メンバーは誰がよいのかを決める基準です。
 ファンにはしてみればお金もかからない優しい方法ですし、こうすれば、ミーグリに参加するようなコアなファンだけじゃない、より多くのファンの意見が反映されます。
 ミーグリ人気がファン全体の人気を表すなら、このアンケートの結果もミーグリ売上と同じような結果を招く恐れがあります。しかし同じような結果になるなら、ファンにとってお金がかからない方法の方が良いとも思います。
 更に、お金がかからないからこそ、ファンが気を使って、または結託して選抜メンバー、そしてセンターを順番に選ぶ、ということも可能かもしれません。
 逆に、誰でも参加できるために、アンケート結果を荒らしてやろうという悪意ある人間による混乱も簡単に起きるでしょう。善意のファンの間ですら、選抜のポジションを譲れ譲らぬと言った言い争いの種になりかねないでしょう。
 ミーグリ売上も言ってみればアンケートの一種です。回答者にお金を掛けさせるシステムは、悪意を極力排除する点では有用です。お金をかけた分その一票に慎重になる、推しと会うために、推しの選抜入りを後押しするためにとより真剣に選ぶ。
 ミーグリ売上にはそういう側面もあるのではないかと思っています。

③外仕事出演数

 そのメンバーの外仕事出演数を選抜基準とするのはどうでしょう。
 ここでは、外仕事を「櫻坂46の名を冠さない、櫻坂46メンバーがゲスト、あるいは週限定レギュラーとして出演するテレビ番組」や「櫻坂46が主催するイベント以外のイベント」としておきます。
 櫻坂46の広報として、グループの存在を世に届ける役割に一際貢献しているメンバーこそ、選抜に相応しいかもしれません。
 ただこれは、ニューシングル発売にあたりメンバーを選抜する際、いつからいつまでの出演数を数えるのか、という問題があります。
 ニューシングル発売に伴い歌番組に出演するメンバーは、歌唱だけにせよトークをするにせよ選抜メンバーです。歌番組以外の番組で、宣伝のためにゲスト出演するメンバーもまた選抜メンバーです。
 一度選抜されたら、外番組出演数はその選抜メンバーに偏りがちになりそうです。
 まだ学生であるといった、正当な理由があって出演が立場上難しいメンバーにとっては著しく不利であるという点も問題です。
 また、外番組への出演は、外番組に、つまり業界と世間に、誰を売り込むのか、何を宣伝するのかという点に左右されるでしょうし、その人選には様々な意図があるでしょう。
 しかし、外番組側からこのメンバーを出演させてほしいというオファーがあるとも考えられます。
 それは、その子が出演するとなれば視聴率・配信再生数の増加が見込める、そもそもの人気メンバーかもしれません。またはその番組にハマった、そのタレント力が評価されたというメンバーかもしれません。例えば「ラヴィット!」における守屋麗奈さんのような。
 出演の結果が更なる出演を招くなら、これまた出演数が偏ります。
 しかも、この出演数とやらはミーグリ売上(≒コアなファンとの人気)と相関しません。出演数が理由になるなら、松田里奈さんは既に表題センターを飾っていてもおかしくありませんが、そうなったなら、ファンの間で物議を醸しそうです。(松田さん推しの私としては、是非ともそうなってほしいという思いもありますが)
 何がしかの理由でどうしても偏る、外番組出演数に基づく基準は、選抜基準としてどうだろうかと私は思うのです。
 しかしながら、外番組出演数≒そのメンバーの広報力と言うものが、現在のミーグリ売上基準にまるで考慮されていないのかと言うと、それは違うのではないかと考えています。この点、追って述べさせて頂きます。 

④表現力基準

 例えば歌唱力やダンスの上手さ、演技力といった楽曲表現において肝要な「表現力」を基準とした場合。
 これは楽曲を、MVを、ライブを、つまり一つの作品、一つの世界観を作り上げることを考えた際には理想的なメンバー選出方法だと思います。
 ただ、「表現力」は大切だと、ファン含め櫻坂46に関わる人は皆そう思っているとは思うのですが、「表現力」で括ってしまうと途端に差の測り方が分からなくなってしまいます。
 歌唱力、と言う一項目に限定しても、音程、声量などで測るシンプルな上手さを指すのか、多少下手でも、情感がこもっているほうがいいのか、どちらを表現力を高いと呼ぶべきか悩みます。
 ダンスでもそうです。キレッキレのダンスなのか、感情的に体を動かすのか。
 演技力もまた、その測り方が難しそうです。皆で楽曲をパフォーマンスすることは、セリフの掛け合いをするドラマとはまた違うでしょうから。
 と、いうことで、メンバーの「表現力」を構成する要素をなるべく分解して、各項目に点数をつけ、その総合点数を「表現力」と呼んでみるのはどうでしょう。なんだかしっくりくるような、こないような。
 まぁ、つまり「表現力」とは曖昧過ぎるのです。
 選抜メンバーが歌った歌をバックスライブでバックスメンバーが歌って、「これもいいな」と思った方、少なくないはずです。
 何をもって良いとするか見る人によって変わりすぎる、結局差なんてないような気がする。そんな指標は評価基準、選抜基準としていかがなものでしょうか。

 そうは言っても、「メンバー間の表現力と言うものには厳然たる差はあるのだ」「多くの人が、あるいは専門家がより良いとする表現をできるできないという差があるのだ」と言う主張もごもっともだと思います。
 では改めて表現力を基準に選抜した場合、私は、ミーグリ売上基準と同様の問題点が生まれるのではないかと予想します。それは、選抜メンバーの固定化です。
 櫻坂46のメンバーは誰もが真摯に楽曲に向き合い、日々技術を向上させるべく研鑽を積んでいる、そんな素敵な方々だと信じています。怠惰な人間など一人もおらず、全員が表現力を高めているのだとしたら、選抜メンバーの顔触れは常に、「表現力」とやらに優れた上位十数名に限られます。
 選抜されるような子でも常に努力し続けているならば、表現力がより低いとしてバックスに選出されたメンバーがいかに頑張っても、その差は容易には埋まらないはず、追い抜くとなれば尚のことです。
 即ち、表現力と言う指標もまた選抜メンバーの固定化を招くのではないかと感じるのです。
 固定化を避けるために、たまにはメンバーを入れ替えよう。そんな考え方だけで選抜・バックスメンバーを入れ替えるのだとしたら、それは「表現力で選抜メンバーを決めよう」という基準を無視する、不誠実な選出と言えるでしょう。

 「表現力」の中でも、技術以外の面にスポットを当て、メンバーが今回の楽曲に合っているかどうか、で選ぶのはどうでしょうか。
 これも、より良い作品を届けるという観点において優れており、しかもメンバーの個性と楽曲の一致が重要ならば、楽曲ごとに選抜メンバーの顔触れが大きく変わることが期待できます。
 仮にこの基準であるために選抜入りが叶わなくとも、それはメンバー個人に問題があるのではなく、今回たまたま選ばれなかっただけと考えることだってできるかもしれません。メンバーとファンの心理的負荷も軽減されうる、一見理想的な選出方法です。

 しかし、何度も申し上げるとおり、選抜の基準と言うものが明言されることはありません。表現力を基準に選ばれていても、ファンは選ばれた理由、選ばれなかった理由が分かりません。
 表現力と言うものが曖昧なために、ファンは選抜の顔触れを見ても「表現力基準だ」と推察できません。
 表現力を基準とするなら、「表現力を基準に選びました」と運営が明言してくれないことには、ファンも納得もしづらいでしょうし、推しを選抜に入れるには、選抜を維持させるにはどうしたらよいかが分かりません。というか、表現力基準の前にはそんな方法自体存在しないのではないでしょうか。

 これが「表現力」「合う合わない」を基準にする一番大きな問題、納得できるファンが少ないのではないかと言う問題です。
 極端な例を出しますが、楽曲に合わないからという理由で森田ひかるさんや田村保乃さんが選抜から漏れたとしたら。藤吉夏鈴さん、山﨑天さんがバックスメンバーに選ばれたら。彼女たちのファンはこう思うのではありませんか、「いや、彼女なら楽曲に合わせることができるだろ」と。
 どのメンバーを例に出しても、その子を推すファンは同様に考えるでしょう。
 多少ファンが謙虚になったとしても、「フロントに立つあのメンバーには確かに敵わないものの、選抜から漏れるほど低い表現力でない」くらいは言いたくなるかもしれません。
 実際そうなのだと思います。常に研鑽を続ける櫻坂46のメンバーです。楽曲を前にすればその表現に微に入り細を穿ち、皆ある程度、楽曲の世界に自らを溶け込ませ、自らの技術で楽曲の世界を舞台上に体現して見せるでしょう。
 もし誰しもが楽曲に合うのだとしたら、合わせられるのだとしたら、「楽曲にあっているか否か」という基準は役に立ちません。メンバー間に差がつけられないからです。
 加えて、仮に続けて選抜から漏れるメンバーがいたとして、ファンは「それは合わない楽曲が続いたから」と納得できますか。
 「こういう曲が受けるから」「今回はこういうメッセージを届けよう」そんな戦略で歌が作られているとして、その結果として、推しメンがなかなか選ばれなかったら。
 もしや、楽曲に合う合わぬ以外の要素が大きいのではないかと疑うのではないでしょうか。
 あるいは、推しメンが選抜に選ばれるような、推しメンに合う楽曲を出してほしいと考えるのではないでしょうか。
 
 

 ひとまずここまで、思いつく限りの別の基準について考え、それについて自己反論してみましたが、どの候補に対しても等しく返せる言葉があります。
 「その基準を用いれば、ミーグリ売上基準≒人気基準よりもCDが売れるのですか」

【ファンが求めているもの】

 表現力や、楽曲に合うか合わないか。パフォーマンスのクオリティを重視する視点を持ち、選抜基準としてこれらを重視するファンもいます。しかし、基準としての曖昧さも大きいと私は述べました。
 ならば、歌・ダンス・演技力、それらにまつわるプロが数人集まって選抜メンバーを選ぶ、と言った方式にするのはどうでしょう。オーディション基準とでも言いましょうか。グループの技術力を担保し、また評価者を複数並べることで主観性を少なくする方法です。
 ただ、多くのファンの感情はそれでは納得しないのではないでしょうか。 
 直前に記した通り、この方法でもメンバーは固定されがちであること、またファンは推しの技術力を信じているから、と言う理由もあります。
 しかし何より、アイドルを応援している人の多くは表現力をそこまで重視していないのではないかと思うからです。
 重視していない、は言い過ぎですが、多くのファンはそれ以上に大事なものがあると思っているのでは、と推察します。

 アイドルを推す醍醐味に、「推しているメンバーの物語を見ること」があるのではないかと思うのです。
 どんな理由かは様々でしょうが、ともかくも推しになったその子が輝いているところ、一生懸命に頑張るところが見たい。
 今までの彼女の苦節に触れて、あるいは親近感や共感を覚えたその子に、もっと日の目を浴びてほしい。
 あの時この子に元気をもらったから、そんな子にもっと活躍の場を与えたい。
 エースと期待されるメンバーが、その期待に応え続ける姿を応援したい。
 不遇だと思われていたメンバーが着実に成果を重ね遂にはセンターに立つ、そんな風に成りあがってほしい。
 身勝手と言えば身勝手な愛着、ストーリーをメンバーに重ねて、ファンは応援しているのではないかと思うのです。

 演劇ならば、優れた表現力を持つ者だけが舞台に上がれる、表現力の劣るものが登場することが忌避されるものでしょう。
 アイドルが楽曲を表現する、これは表現力を求められるという点では演劇と近いようで、ファンが演者に求めているものが少し違うと思います。
 パフォーマンスの巧拙の絶対値ではなく、他のメンバーよりどれほど勝っているかではなく、推しメンが舞台に立つことそれ自体が大事であり、またその成長を見るのが喜びなのだと。
 推しは、他のメンバーに比べたらダンスは下手かもしれないけど、それでも一生懸命に食らいつこうとしている姿に胸打たれるのだ。歌は下手かもしれないけど、どうにか想いを届けようとするさまに感動するのだ。
 贔屓目と言われれば全くその通り、でも客観的に、冷静に採点する必要がどこにあるのか。私は彼女がパフォーマンスする姿が好きなのだ。と、ファンの本音はそんなものではないのかなと思うのです。

 アイドルを推すということは、運動会で徒競走に挑む我が子を見つめるようなものだと思うのです。
 1番になってくれたら、センターになってくれたら勿論嬉しい。でもビリだっていい、一生懸命走る我が子の姿が愛しいのです。
 もし徒競走に参加できる子が限られているのだとしたら、選抜されるのだとしたら、我が子が参加したいと望むならそれが叶ってほしい。
 親でも友達でもないくせに、想いの大きさは遠く及ばないくせに、ファンがアイドルに抱く心情は親心と同じ方向性のものではないかと感じるのです。
 
 親心でないのなら、友情とか、恋慕でも、同期の絆でもいいです。同じ時を重ねることで生まれる情のようなものがファン心理の下地になっているのだと思います。
 人気があるということは、どれほど多くの人からそういった情を集めているか、と言い換えられるのではないでしょうか。

 その職業に就く人の能力を評価する基準は、職業ごとに様々です。俳優ならば演技力、歌手ならば歌唱力、スポーツ選手ならその競技における成績、営業マンなら例えば売上でしょうか。それが評価項目の全てではないものの、大きなウェイトを占めていることは想像できます。
 では、アイドルとしての能力は何をもって測れるでしょうか。優れたルックスか、魅力的なスタイルか、愛嬌か、歌唱力か、ダンスの上手さか、バラエティ番組での巧みな振るまいか、あるいは人間性と言う更に曖昧な概念か。
 私は、アイドルの能力とは詰まるところ「人気」なのではないかと考えます。メンバー各位の各要素は、人気を生むきっかけに留まる要素だと考えます。

 言ってしまえば「老若男女からよりモテる女性かどうか」でしょうか。
 恋愛においては、相手の顔がカッコいい、綺麗から入って性格まで好きになることもあれば、内面を知ってがっかりすることもあるでしょう。
 みんなが口を揃えてイケメンだと言う人が、私にはピンとこない。私は好きだけど、万人受けするかと言えば違うと思う。ダメなところが可愛いのだという人もいれば、しっかりしているところに惹かれる人もいる。
 好みは千差万別とは言え、それにも概ねの傾向があるものです。
 私だけが知っている彼女の魅力、なんてものもあるかもしれませんし、ある出来事がきっかけで急に意識しだした彼、と言うのもいるかもしれません。いい人だとは思うけれど恋愛対象ではないわね、と言う例だってあるでしょう。
 外見とか内面ではなくて、それらはきっかけでしかなくて、きっかけから始まって時間を共にしていく中で想いが、情が培われていく。
 アイドルの人気というものも同様ではないでしょうか。
 パフォーマンスがカッコよかったから、という技術面をきっかけにした人もいるでしょう。同郷だったから、同じ趣味だったからが始まりの人もいるでしょう。当然、顔がタイプだったからと言う人もいるでしょう。
 あの番組に出ているのを見て気になったから。あのエピソードに感動したから。そんなきっかけで推し始めたファンもいるでしょう。
 そしてそこから、活躍を見続ける中で人柄を知って、改めて惚れ込んだファンは多いはずです。
 対して、櫻坂46ファンだという方々からその人柄も技術も評価されながら、一番気になる相手として選ばれなかったメンバーもいるでしょう。
 そしてついには、どれほど多くの人にモテているかという差が、メンバー間には生まれるのです。

 断っておきますが、私からすれば櫻坂46のメンバーは全員可愛いです。その人柄は素敵なものだと重々承知しています。
 しかしメンバーを見渡した時、「あの子の顔のほうがより好み」、「私の推しメンではないけれど、人気が出るのは分かる」という感覚もあります。それは個々人の好みの差でもあり、情の厚さによるところもあります。
 メンバー皆を応援しているつもりでも、心の中では順位をつけています。美人な職場の同僚より彼女の方が大切であるように、推しメンと言うものを見つけた時点で、もう平等には見られません。
 私の推しが一番可愛い。そう言いたくなるのもわかります。でも、好みは人それぞれなのです。そもそも我が子は可愛く見えるものなのです。他のメンバー推しの方に、自分の推しメンこそ素晴らしいと力説したところで、推しメンに注いできた情の厚さ長さが違うのですから、同じ熱量で推せるわけがないのです。
 ファンそれぞれのそんな内心が少しずつ表出化して、そして遂には、人気の差として目に見えてくるのです。

 勿論、「アイドルとしての価値=人気」だとしても「アイドルとしての価値・人気≠人間としての価値」であることは自明です。
 裏を返せば、人間性が優れていても人気が出るとは限らないということですが、正確には、グループのメンバーの誰もが素晴らしい人間性であるならば、人間性と言うものでは評価に差をつけられないということでしょう。
 加えて、主観が物を言う外見や内面、その点を重視するかも人それぞれな技術的側面では、ファンの感情を納得させられないなら、つまり人気を指標の頼りにする他ないのが実際、なのではないでしょうか。

 アイドルが「人」を商品としているというのは、こういうところなのだと思います。そのアイドルの個性、アイドル自身の歴史、そして加入してから現在に至るまでに成してきたこと、それら全てが売り物。
 ファンは陳列された才能、技術、ヒストリーやエピソードを見て、推すに至っている=買っているのでしょう。
 試食をしてみて美味しいな、試着をしてみて似合ってるな、中にはコスパがいいだろうかなんてことを考えて、商品を買っている。
 お金を掛けて買う、と言う意味もありますが、時間や労力といったコストを掛けてその活躍を見ようとする、そういう意味でも買っているのだと思います。

 次の投稿では、私の推しとミーグリ売上基準の関係性について、語らせてください。

いいなと思ったら応援しよう!