盤珪-大拙の不生思想 「不生禅~生誕400年」
2024.11.6 更新
禅は体験です。思想ではありません。そのことを心の底から理解した上で、鈴木大拙博士は、私たちのために、「不生思想」を提示してくれました。
不生は「生」という概念の否定で、認識以前の、今ここの「生そのもの」を直指しています。生まれていないのは、自我を中核とする「認識の連鎖」なのです。
盤珪永琢は、江戸時代前期に活躍した無師独悟の僧侶です。有名な白隠禅師より 64年早く 1622年4月に生まれているので、今年(2022年)は、生誕400年の節目にあたります。盤珪の名は長く忘れられていましたが、明治から昭和に生き「世界の禅者」とも呼ばれる、仏教哲学者の鈴木大拙により再発見されました。
盤珪禅師は、庶民にも解るように、やさしい日本語で法を説きました。盤珪の教えはシンプルで、まずは 30日間、身びいきや、怒りや不安、疑い、欲などの念を出さずに「不生の仏心」でいなさいと指導します。つまり、「そこが直ちに悟りの入り口だ」というわけです。
そして、「不生で一切が調う」と断言しています。
これは「そのまま禅」と呼ばれることがありますが、少し違います。盤珪は「不生のまま」とは言いますが、これは「迷いの日常のソノママ」ではないのです。
不生というのは、感情や思念が生じる前の、主客未分の現前の覚です。「動くものが見るもの、見るものが動くもの」の「禅経験」です。「不生の仏心」の中には「認識の連鎖」はありません。筆者はこれを「禅意識」と呼ばずに「現前覚」と表現することにしています。現前覚は、「現前の実動」です。
この「迷いのない現前」を体験させること、そこに不生禅の狙いがあります。思考を外して現前を見れば、あらゆるものごとは今ココに動いていますが、この絶対現在には自他の区別がなく、自分の内外に対象を持たず、従って対立がなく、執着もありません。
さて、大拙は、盤珪の禅を以下のように評します。
そして大拙は、盤珪の禅に「不生の思想」を見い出します。ここがとてもユニークなところで、大拙は不立文字の禅の上に思想を語るのです。代表作の「禅の思想」の、第二篇「禅行為」、「羚羊挂角(羚羊ツノをかくる)」の節にも、「(禅の)今後の発展は恐らく思想方面にあることを信ずる。」と書いています。筆者は、不生思想は21世紀に相応しい現代性・社会性を持っていると思います。
盤珪は、「神や仏や教祖を信じよ」とは言いません。その代わりに、ただ「不生の仏心のまま」でいなさいと教えています。盤珪の「不生」は、ブッダの悟られた般若の智慧を直指しています。不生という言葉の語源は不生不滅ですが、不生であれば不滅は言うまでもありません。
私たちは、生死の世界(つまり日常世界)、に流転し、悩み苦しみを抱えて生きていますが、そこを脱した境地が不生なのです。人間の知性は、たとえば「苦と楽」といった二元対立性の論理の上で働きますから、知らぬ間に、知性の二元性に囚われています。不生というのは、そのような知性の欠陥を脱離した、いわゆる「禅意識」を指しています。
それで、怒りや我欲、身びいき、更には「ああでもないこうでもない」という思考の連鎖を止めて、ただ不生でいなさいと。これは、禅宗第三祖、僧璨禅師の書かれた「信心銘」の、「現前を得んと欲せば、順逆を存するなかれ」と同じことです。親の生みつけた「不生の仏心」を、怒りや欲や身びいきに変えずに、思考の堂々巡りを捨て、まずは三十日間、ただ不生のままでいなさいと言います。
そして、盤珪は、不生はうっかりしていることではないと注意を促します。うっかりしているどころか、「不生ですべてはととのう」と断言するのです。不生からは、大悲の活きた働きが出てきます。そうして、不生の場では、知性の欠陥が見抜かれて、世界の見え方が変わってしまいます。
別の言葉で言えば、不生は、法、空、無、仏性、仏心などと呼ばれるものと同じものです。ボーっと生きていくわけではありません。とにかく、まずは、不生を体験することが大事です。普段から、不生、不生と心がけていることで、主客未分の「現前」の実働を感得するチャンスが生まれてきます。
2022.10.19 Aki.Z