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長井自然老師 提唱 『不動智神妙録 無明住地煩悩 ~ 沢庵禅師』(テキスト版)

2025.1.25 更新

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 「不動智神妙録」は、鈴木大拙が Zen and Japanese Culture *1 で紹介したことで、世界中で親しまれています。ただ、これは原典の紹介であり、また、英語で書かれた影響もあり、いかにも解説的になっています。とかく、テキスト化された文章では、こういうことが起きやすいです。

 しかし、思考・考えの文脈の中には、禅はありません。以下に示した長井老師の提唱では、正法の禅が、実感を伴って、よりハッキリと説かれているように感じられます。

*1 ( Zen and Japanese Culture, 1959 )

 この投稿は、長井自然じねん老師の 昔の YouTube 動画 「不動智ふどうち神妙録しんみょうろく 無明むみょう住地じゅうち煩悩ぼんのう沢庵たくあん禅師ぜんじ」を文字に起こしたものです。

 長井自然老師は、井上哲玄老師と同様に井上禅の継承者です。大悟徹底の質は釈尊や師匠の井上義衍ぎえん老師と同じだとしても、その指導法や言葉の使い方には、それぞれの老師の個性が出ていて、それぞれに有難く感じられます。

 全編を通じて、動く・動かないの話が言葉遊びのように混乱して見えますが、言語表現には限界があるので、どうしようもないです。

 これは、現前の体感を示されたものですが、本来、動も不動もありません。そのままに、サラリと受け取っていただくのが最良と思います。

 下記目次とテキスト中の "時間 + 小見出し" は、筆者が便宜上追記したものです。また、よく聞き取れない部分などは、 筆者の推定で文字を当て、読みやすく文章を整えいます。


0:01 不動智という在りよう

 この、柳生やぎゅう但馬守たじまのかみ宗矩むねのり(動画では沢庵和尚と言い間違い)という方がおられてですね、この方は徳川家光いえみつ公の剣道の指南役をなさっていて、剣聖といわれるくらい素晴らしい剣の達人だったんでしょうけども。

 その方、剣の達人、家光公の剣道の指南役でございますから、当然、当代随一ですね。これに勝る剣の達人はいない、それだけの方でも、どうしても、その在りようにですね、しっとり来ないと言いますか、どうも頷けない様子があって、ご自身も、お困りになったんでしょう。

 どういうご縁で沢庵たくあん和尚様をお呼びになったのかは知りませんけれども、沢庵和尚様をお呼びになってですね、そして、なぜ剣の、剣聖と言いながら、ご自身がそのようにこう、うなずけないかといいますか、満足いかないかということをですね、お聞きあそばしたもんだと思うんです。そのお話を後世の人がまとめてくれたんでしょう。

 その様子、お話の在りようを、今言いましたように、後世の方はですね、不動智ふどうち神妙録しんみょうろくという名目で、お題目で、残しているわけでございます。

 不動智神妙というのはどういうことかといいますと、この不動智は、不動というのはこの言葉からいたしますと、動かずというんです。

 動かずということは、動くことに対して、動かずなんです。この様子の、動く・動かないの範囲は、ごくごく小さいんですね。

 動く・動かないというのは思考・考えの範囲です。いつでもこの、際限がある。動くものと動かないものは、別になっている。

 これはですね、この不動智の不動の在りようじゃないんです。この不動智としての不動の在りようは、動かずということじゃないんです。

 動かずというか、動く・動かないんじゃないんですね。そのありようじゃないです、動かず。

 だからほら、風林火山ふうりんかざんというのがあるでしょう。あの風林火山というのは、私たちの本来の在りようをお示しになったものなんです。

(筆者: 風林火山の原典は孫子と思うが、説明なし。孫子も禅に徹していたということか?)

 えーなんですか、はやきこと風の如く、はやきじゃない、ふう、風林の風はなんだったですか、うーん、疾きことですね、疾きこと風の如く、

 えーなんとかは(しずかなること)はやしの如く、おかすこと火の如く、そして、動かざること山の如しなんです。この動かざること山の如しの、この動かざるなんですね。

 この、そのもの自体というんですね、そのもの自体だったら、動くと言ったって、動くという在りようはないですよ、そのもの自体ですから。

 動かないと言ったって、そのもの自体だったら、動かないという在りようはないんです。これが不動の在りようなんです。

 それで、不動智のこの智は、これは、法、仏道・仏法の法の在りようなんですね。これは、大きく言えば宇宙の真相、私たちの真相です。

 如是にょぜの法といいますか、その如是の法としての私たちの本来の在りようの様子なんです。智というのは。

 この不動智という在りようは、今いいましたように、言葉を変えればですね、如是にょぜの法といったり、道本どうほん円通えんづうと言ったり、いろいろに示されるわけですけど。

 いずれにしても、私たちの本来の在りようです。人間的に(日常的な)私という在りようからは、全くかけ離れたと言いますか、想像を絶する在りようです。

 これを不動智という言葉を用いて、沢庵様は、私たちの本来の在りようを、柳生但馬守という方にお示しになった。


5:28 井上義衍老師の言葉「天真にして絶妙」

 このお示しになった在りようは、兵法、剣道って言いますか、それを通して、私たちの本来の在りようを、お示しになったものでございます。

 それでこの不動智神妙、神の妙なるもと、っていうことですよこれは。この神妙っていうのは、絶妙なんです。

 絶妙ということは、もう私たちの、このいちいちの活動はですね、もう、これに勝るものはない。

 無上甚深微妙むじょうじんじんみみょうの法と言いますけども、本当に、何ともわからない。わからずにですよ、全てが済むようにできている。

 人の苦悩の根源が、その、わからずにいくのですね。済んでいるものに対して、それをスッとこう分かるもんですから、分かりたがるもんですから。

 それ、いらないですね、要らないご苦労をしているわけでございます。

 人間の迷い・悩み・苦しみの根源は、本来的にですよ、悩み・迷う・苦しむ方が難しい出来栄えのものです。

 それに対して、人の在りようからするとですね、悩んだり・苦しんだり・迷ったりすることが当たり前になってる。これは一体どういうことですかと言うことですね。

 本当に私たち、人とのご縁があって、私たちの在りようからすると、本当に、このことをですね、真剣に、本当に明確にしなきゃならないんです。

 この神妙というのは、絶妙ですよ、先ほどの絶妙。井上義衍ぎえん老師という方はですね、「天真にして絶妙なり」と、お示しになりましたけど、本当に天真なんですよ。

 底が知れない。底が無いという、底なしって言いますけどね。どこからどこまでということはないんです。底がない、始めが無くて終わりが無い在りようですよ。天真にして絶妙。

 もう、まったくですね、どうこう言いようがないというか、分かりようがないと言いますかね。そのありようが神妙、絶妙な在りようです。私たちの本来の在りようです。

 そういう在りようで、どなたも今ですよ、今、生活ができている。どなたも活動ができているんです。それですから、さきほど言いましたように、迷い・悩み・苦しみなどは、ありようがない。

 そのことは本当にご自身のことですから、明確に自覚しなければならないということです。


8:30 無明むみょう住地じゅうち煩悩ぼんのう

 そこで、この沢庵たくあん和尚さんは、どのように私たちの本来の在りようを、兵法へいほうを通じてお示しになっているかと言いますと、

 無明むみょう住地じゅうち煩悩ぼんのう。「無明」という文字は、明らかでないという言葉です。明らかでないところに迷いが生じるので、迷いを意味します。

 明らかじゃないんですね。無明と言いますように明らかでない。何が明らかじゃないかと言いますと、

 この私、この人間的なこの私という在りようはですね、これ認識する作用のある生き物です。他にないですよ、人間だけですよ。他の生物は、これを認識するという作用は備わっていません。人間だけです。

 この認識する作用というものは非常に素晴らしいのですけれども、いつもお話しするように、諸刃のやいばでございましてね。

 この認識をするということは、ものを認める。ものを認めるということは、思考・考えなんですね。

 こういうもんだ、ああいうもんだ、ああいうもんだ、ああいうもんだ、ってですね、こう認めると、何か、そういう在りようが実体としてあるような錯覚を起こしちゃうんです。それ錯覚なんです。

 この様子、その様子、認識する以前の在りようということがございまして。認識する前は、ほらこのように、確かにあるという方から言えばあるんですけれども、「何が」ということじゃないんです。ただあるんです。ただ。

 その「ただある様子」と言っても、縦のものが縦、横のものが横という、その名称じゃないですよ。

 それは、名称にかかわらずきちっとこういく。色合いの方からしたって、赤、黄色、青っていう、そういう名称じゃなくて、その在りようがですね、きちっと、あるんです。

 そして、赤と黄色と黒が、間違わないんです。なんで間違わないかって言っても、間違わないんです。

 思考・考えでいくと、これは赤だ、これは黄色だ、あれはなんだって言いますが、よしんば、黄色を「これ赤ですよ」って言ったら、「何言ってんだ」ってことになる。けれども、このものは、一切そういう事はしないんです。

 名称にかかわらず、きちっと、そのことがわかるようになってる。何がわかったのか、言わないんです。

 それが、先ほど言いました、「不動智」という在りようなんでございます。「如是の法」とも言いますけれども、本当にこの、絶妙なありようなんですね。

 その絶妙な在りようは、要するに、認識する以前の在りようです。

 それが、ご自身の真相でありますし、またこの大きな宇宙ですよ、法界ほっかいという、その世界の真相です。それだけの在りようしかないんです。

 この法は、向かったらある。何があるんだって聞く必要がないんですよ。ただ、それだけで全部済むんです。この在りようしかないんです。

 人間的な、ああでもない、こうでもない、なんて、どこにもないんですね。ただ、人の思考・考えの中にあるだけで、それだって、あるんだか、無いんだかわからない。

 それが全てであるような錯覚を起こしている。それで、ああでもない、こうでもないとやるから、混乱をするんです。そんな必要ないんです。

 一切、向かうとキチッとしている。少しのズレもなくキチッと、そのようにあるんです。だから、そのようにキチッとあるんだから、間違いようがない、混乱しようがないんです。

 これを認識して、思考・考えで取り扱いが始まると、混乱があります。余計なことをしていることを、私たち人の在りようからするとですね、それがわからない。

 そういう錯覚を起こしていることが分からないんですね。それを無明むみょうと言うんです。

 明らかでないんです。そういう錯覚を起こしていることが、ご自身の在りようでありながら明らかでない様子を、無明と言うんです。


13:43 一つしかないから迷えない

 ですから、明らかでないから、どうしたって迷うんです。明らかでない様子は後で出てくると思いますけど、仏法でいう、この自他が生じる様子なんです。

 一つだけだったら、そのことだけだったら、迷うってことはないんです。そのことだけですから。

 二つ、三つ、四つになると、これかしら、あれかしら、また、これかしらとなると、迷うんですよ。

 幸いにして、私たちの出来栄えとしての在りようは、いつでも一つなんです。一如いちにょと言われるように一つ。

 「一つ」としてコロッと活動しなきゃならないのですが、一つだから迷いようがないです。いいですか、迷うたって、一つだから、何を迷うんです。

 そのものが、そのものに迷うってことはないでしょう、ひとつだから。そのぐらい確実なありようですよ。

 世界で、世界でですよ、そういう法の世界で、どなたも生活ができている。迷う方が難しいんです。

 それが分からない。それが明らかでないから無明、明らかでないんです。明らかでないから迷う。

 迷うということは煩悩ですよ。良し悪しが生じてくるんです。「この迷いようのないものに迷う」ということがある。

 それじゃあ、せっかくですよ、そういう迷いようのない世界(があるのに)、(迷い)で生活してたって、もったいない話です。まあ、できたら迷わない方がいいですよ。

 迷うということがなければ、悩むということもない、悩むということがなければ、苦しみということもないですから、余計なことをしない方がよろしいでしょう、ということですね。

 ですからその、無明むみょうが生じるということは、ご自身の思考・考えで『ああでもない、こうでもない』という取り扱う以前の、認識以前のご自身の真相に気がついていただくと、ああそうか、これが苦悩の根源かということで、無明から覚める。


16:16 仏法修行の 52の段階のひとつ、住地じゅうち

 そのことをまず、お示しになって、それで、仏法には、修行の段階を52に分けた 52位というものがありますが、住地じゅうちはその中の一つで、物事に心が止まることを示しておるんです。

 52って言ったって、別に52あるわけじゃないんですよ。一応理屈の上に、そうやって色分けをしただけなんです。

 52って言ったって、ほら、(手をパンと打って)これが52の様子ですよ。この間を、いくらでもこうやって、思考・考えで区分けすれば、52 か 100 かなんだか知りませんけれども、まあそういうことです。

 で、思考・考えの上では、100だ、200だ、300だって言うけど、みんな一つなんです。

 お示しにですよ、一即一切いっそくいっさい一切即一いっさいそくいち。なんだか分かったような、分からないような、ですけど、これが宇宙ですね。これが、私たちの真相なんです。

 一つが全てなんです。全ては一つなんです。二つ生じるということは無いようになってる。

 人が思考・考えで、2つ、3つ、4つ、5つ、って生じてるような錯覚を起こす。それは錯覚ですね。

 でも、いつでも一つだから。人はいつでも一つだけだから、そのことも分からないぐらいですけど。そのことだけだから、一つだから迷いようがない。

 要するに、一つの在りようをですよ、52と言って分けたんです。その分けたことには大した意味合いがないですよ。それはそれでいいということで。

 いずれにしても、すべて、いつでもそのことだけなんです。すべて、そのことだけですよ。住という文字には、止まるという意味があります。

 何かにつけて、心が一つのことにとらわれるのを、心が止まる、すなわち住地じゅうちというんです。

 この、心が止まるということは、これ認めるからです。これを認識するっていうことです。認める。

 止めよう、とどめようがないものです。とどめようって言いますか、止めようがないものに対して、それをスッとこう認めるんです。


19:07 認識作用の中の自他という錯覚

 認めると、間髪ですね、認める者とですね、、、認めるっていうことは、認める、その、「あれ」って(認めるときに)、あれだけじゃ認められないんです。認めるってことはできないです。

 認める者と認められるモノがないと、認識できないんです。これにごまかされちゃう。

 あれって言うと、あれだけなんですよ。あれだけなんですけれども、あれだけじゃ認識できないから、こっち(自分)も一緒に認めちゃうんです。

 そうすると、あれだけだったものを、こっちまで認めるから、ほら、自他が別になっちゃう。あれだけだったら自他はないんです。

 あれだけだったら自他はないんですけども、あれを認めるってことは、こっちを認めるから。そうすると、間髪が入る。

 沢庵和尚は、「間髪が入る」と言う。そうすると、私と貴方が別になっちゃうんです。

 それは、ご自身の認識する作用としての素晴らしい在りようなんですけれども、それが生じると、そのことが生じると、なんか二つあるような気がする。向こうとこっちが別にあるような錯覚を起こすんです。

 これが、人間の苦悩の根源なんです。いくら錯覚を起こしたって、別のものじゃないんですよ。

 ですけど、どうしても思考・考えだと、別なような気がするんです。それで、あの人だ、この人だ、私だ、あのものだ、このものだという錯覚が起きる。

 別なものじゃないんですよ。ご自身の活動なんですよ。自活動のありようなんです。

 これが思考・考えでは何とも無駄ですけど、なんか別なような気がするんですね。これが人間の苦悩の根源ですから。

 つまり、心を止めるということは、認識するということです。認識しただけだったら問題ないんです。だけど、これを認識するということは、認めないと認識できないものだから、認めちゃうんです。

 「あれ」って言うと、こっち(自分)まで認めないと、あれを認めたことにならない。そうするとキチッと自他が生じてしまう。たったそれだけなんです。

 そのことが、ご自身のことでありながら、なんとも分からない。つまり、認識以前のありようは、認識するということができないからです。

 あれと認める、この自他が生じる前は、あれもこれもなかったんですよ。認識する以前は、あれもこれもなかったんです。

 それを認識したがために、ワッと認めたので、二つが生じたんです。二つですね。間髪が入るということですね、割れが入った。

 それで何か二つであるような錯覚を起こしているだけなんです。それ以前は、いや、錯覚を起こしているだけなんですよ。それだって事実じゃないんです。ただそういう錯覚です。

 どんな錯覚を起こしたって、いつでも一如なんです。この一つから、一如のありようから離れることは、絶対できないんです。それを法界って言うんですよ、宇宙の真相です。それ以外にないんです。

 人の考えで、ああでもない、こうでもないというけど、(そんなのは)どこにもないんですね。人の思考・考えの中に生じているだけで、一切、この、今の在りようには関わりない。


23:06 沢庵たくあん和尚から但馬守たじまのかみへの兵法指南

 この無明住地むみょうじゅうちを、あなたがよくご存知の兵法へいほうにたとえて説明してみましょう。

 今度は柳生やぎゅう但馬守たじまのかみにですね、兵法を通じて、この仏道、仏法をお示しになるわけです。

 敵が刀を振り上げて斬りかかってきたとします。

 うん、ま、これはそうでしょう、当然そういうことがあるんでしょう。

 その刀を一目見て、「あ、来るな」などと思うと、相手の刀の動きに心が引きずられて、こちらは自由に動くことができずに、斬られてしまいます。

 ですから、今はいいですよ、こういう在りようですけども、当時、柳生やぎゅう但馬守たじまのかみや沢庵さまの時代は、もう、ちょっとでもね、真剣勝負ですよ。

 真剣勝負で、ちょっと相手の刀、相手の動きに心が止まると、もう、切り捨てられちゃうんですから、もう真剣勝負ですよ。

 もう、今の在りように心が止まるところ、淀みどおしの在りようじゃあ、すぐ、首をはねられちゃう。

 で、すっと、どの在りようにも、心が止まると隙が出るんですよ。間髪が入るから、スッと。この間髪が入った時に、スッと狙われるんですね。この間髪が入ってしまうものですから、いらぬ兵法を学ばなきゃならない。

 で、兵法を学ぶだけじゃダメなんです。どうしても、仏道、仏法としてですね、本来的にですよ、本来的に、心を止めることができない、とどめようがない、私たちの本来の在りようっていいますかね、出来栄えといいますか、それをご自身で自覚なされますとですね、

 ほらあの、有名な公案があるじゃないですか。達磨さんが、世界の名陶っていうんですか、要するに陶磁器ですよ。素晴らしい陶磁器を背中に背負って歩いてる。歩いてると、何の拍子にか知りませんけれども、その陶器がポトッと落ちて、割れたんです。

 普通は、振り向いて「あらっ」ていうぐらいのことはしそうなんですけど、達磨さんは、そのまま、サッサッサッサッと行っちゃったんです。

 そういう公案があるんですけども、これが私たちの本来の心の在りようなんですよ。本来のありよう。

 一切どのものにも、心が止まらないようにできている。とどめようがない。とどめない。そのもの自体。

 そのもの自体だから、そのもの自体にね、心をとどめるということもあり得ないし、とどめる必要もない。どんなことがあっても、そのことだけで済むようにできてる。

 それを、あの公案はですね、これ私たちの本来のありようとして、お示しになっている。

 心を留めるということは、それだけ私たちの本来のありように傷をつけるんです。

 ですけど、どうしても思考・考えが中心になっていますと、スッと動くんです。あれあれってね。

 で、その分だけ、よどむって言いますか、傷をつけちゃう。本来はですね、とどめようがないんですね。

 いつでも一つになって、コロッ、コロッ、コロッ、コロッ、こう活動している。

 その一如の在りようというのは、いつも話すように、人の思考・考えるからすると、原因と結果が別になっているんですけど、この一如の在りようでは、原因と結果が別じゃないんです。

 原因、即、結果と言いますね。一つなんです。これは思考・考えじゃ分からない。一つですね。

 ですから残りものがない。残りものがないから、とどめるものがないんです。

 とどめるものがある、とどまるということがあるということは、思考・考えにいっているからです。

 私たちの思考・考えの活動じゃないんですから、とどめようがないんです。とどめようがないものが、とどまるということは、思考・考えで取り扱いをしているからです。

 それさえ止んでしまえば、今この、沢庵様が言われるように、相手側の刀が、おお来るなっていうことでとどまらない。そのままなんです。

 それが私たちの本来の内容です。お子たちはみんなそうですよ。とどまらないから、コロ、コロ、コロ、コロ、やって、何やったんだかわからない。

 何やったんだかわからないから、一切問題が起きない。わかるもんですから、問題が起きるんですよ。


29:06 打ち込まれる刀を見るが、少しもとらわれず

 打ち込んできた刀を見ることは見るのですが、それに対して、ここで相手の刀を切り返そうとか、どう打ち込もうかなどと、思慮分別を一切持たずに、つまり少しもとらわれることなく、ただただ相手の刀に応じていけば、斬りかかってきた刀をこちらにもぎ取って、かえって相手を斬ることができるのです。

 と、沢庵様は、この兵法としての在りようを、仏道で示しています。

 つまり、こう、「うっ」とこう認識するですね、認識する、その在りようがですね、スッと自他を生じる。

 自他を生じるが、その様子の、その認識する以前は一つだったんです。相手がいなかったんです。認識するから相手が生じたんですね。その時に相手が生じたんです。

 ですけれども、そういうことなしに、相手がないままでいけば、相手じゃないんです。相手の刀じゃないんです。ご自身の刀なんです。

 相手の刀だと思ってるから、いろいろ起きてくるけど、相手の刀じゃない、ご自身の刀だから、いかようにでも、自由にこうやってですね、取り扱いができるじゃないですかね。

 これを沢庵さんは、仏道のありようを、兵法をもちいて、「認識する作用にごまかされちゃいけませんよ」と。

 本来、心をとどめようたって、とどめるなんていうことは、必要がないように出来上がっているものですよ。

 それが、不動智のありようです。それが如是にょぜの法としての在りよう。道本どうほん円通えんづうというのも、そのことですね。その理由を一応このように示して、次にですね、


31:13 対象概念を殺すことでかえって現前を生かす

 禅宗では、これを「かえって鎗頭そうとうをつかみ、さかしまに人を刺し来たる」と言っています。

 どういうことかと言いますと、

そうほこのことを言います。

 ってのはやりでしょう。

 人の持っている刀を、我がほうにもぎ取って、逆に相手を斬るということです。

 これはだって、あんた、そんなこと、なかなかできそうにないっていったって、やってるんです。今ですね。今も(私たちも)やっているじゃないですか。こうやって。

 向かうところがあるということですね。これは要するに、「かえって鎗頭そうとうをつかみ、さかしまに人を刺し来たる」。

 キチッとこう、そのものになっているからですね、相手をきちっと殺しているんです。殺すということは、生かしているんですから。

 四六時中、どなたもやっているじゃないですか。この兵法のありようだけじゃないんです。今の私たちの在りようなんです。

 向かううと、スッと刺し殺すようにできているですよ。殺すから、殺すということは、生かすんですよ。

 そのことを日常茶飯事やっているんですけど、それが分からないから、殺した生かしたということが問題になるんですよ。日常茶飯事のことです。全てですよ。


32:51 利休遺偈りきゅうゆいげ、祖仏ともに殺す

 どなたでしたか、ああ、あの、千利休せんのりきゅう様ですね。千利休様はですね、七十余年、力囲りきい希咄きとつ、、、遺偈ゆいげですね、遺偈、、、我がこの宝剱ほうとう祖仏そぶつともに殺す、と。

 祖仏そぶつですね、祖師方ですね、それから仏。両方、祖仏共に殺す。

 殺すことができないから、生かすことができないんです。思考・考えですと、殺すことと生かすことが別になっちゃうから。別になって、別なんじゃないんですよ。

 殺せるから生かせるんです。生かせるから殺せるんです。思考・考えでいくと、「なんじゃそれ」ってなる。

 どういうことやったら、「あなたのことですよ」って言うんだけど、分からない。やってるじゃない、四六時中。

 生じて、滅して、生じて、自由自在に、生かして殺して、生かして殺してるでしょう。

 それが、ご自身の在りようだけど、「何のこっちゃそりゃ」ってなる。だから、ちっとも役に立たない。思考・考えってのは、そんなもんなんですね。

 生じるってことは生かしたんです。滅するってことは殺したんです。それを自由自在にやってるでしょう。

 それが、ご自身のことなのにわからないから、ことさら殺した生かしたりってことが問題になる。

 日常茶飯事やってるのに、なんで、殺した生かしたが問題になるかっていうことですよ。


34:38 無刀、刀をもぎ取って逆に相手を切る

 人の持っている刀を我が方にもぎ取って、逆に相手を切るということです。あなたのいう無刀ということがそれです。

 無刀ですね。無刀ということはですね、もう刀はいらないんです。刀はいらないんですよ。

 相手だと思っていたものは、相手じゃないんだから。ご自身だから、ご自身の在りようだから。ご自身に、ご自身が向かうなんてこと、いらないじゃないですか。

 相手だと思うからどうしたって、向かう刀が必要なんですけど、相手がなければ、別にあなた、向かう必要もないし、刀を持って向かうということはいらないんです。

 それを一応ですね、無刀と、こう称し、お示しになられたわけですよ。

 向こうから打ってこようが、こちらから打ってこようが、どんな人がどう打ってくるかなどと、どんなことにでも、ちょっとでも心がとらわれてしまうと、こちらの動きがお留守になって、斬られてしまうでしょう。

 だからもう、今の私たちの在りようでは、もう切られの与三郎だってすまない。

 もう、いくら斬られたって、もう、それぐらいもう本当に、思考・考えに埋没しちゃって、隙だらけです。

 もう隙だらけ。それだから混乱するわけですよ、隙だらけだから。それさえも分からない。

 もう全く、間髪の入りっぱなしですから。四六時中、間髪の入りっぱなしで、いくら斬られたって。そういう在りようでおるから、当然混乱するわけですね。

 敵の心を意識的に知ろうとすれば、かえって敵に心を見透かされます。

 もう、すぐやるじゃないですか。すぐ、あの人どう思ったの、この人どうって始まるものですから、すぐに見透かされてしまう。

 見透かされただけだったらいいんですけど、すぐ、そこを狙われたら、あなたそりゃもう命取りですから、大変なことでございますね。

 自分の心を一定所に引き締めておくのは、初心者の頃。いまだ、修行を始めたばかりの時のことです。

 やたらとこう、守ろうとするする、ね。

 自分の刀の動きを気にすれば、自分の刀に心を取られ、打ち込む瞬間に気を使えば、それに心を取られ、自分の心の在りように気を使えば、自分のことに心を取られてしまいます。

 四六時中やってるでしょう。私たち、日常茶飯事。ああの、こうの、こうなったらああしよう、もう一生懸命、対応の仕方ばっかり考えている。

 それは、みんなご自身で、ご自身に隙を作っちゃうんですよ。

 本来、隙なんて、間隙を生じるなんてことはできないような生活ができているものに、スッと、ああでもない、こうでもない、いや、こうしたら、あの人がこういったらこうしよう、もう次から次へ、もう隙だらけです。

 そういうことですよ、日常茶飯事やってるんですよ、私たちはね。まあいいですよ、でもそれは。

 だけどこの、柳生やぎゅう但馬守たじまのかみ沢庵たくあんさまの時代だと、それが命取りになっちゃうんです。

 だから、当然、柳生但馬守という方でさえ、沢庵さまにお聞きせざるを得なかったわけですよ。なんとも、やっぱり不安があるから。

 あなたにも、そんな体験はおありのことと思います。それを仏法に当てはめて申しました。

 要するにこう、認識をするということです。心を止めるということは、認識をするんです。この認識をするということのこと。

 この認識する作用自体は素晴らしい作用なんですけど、この認識する作用にごまかされていること。

 認識する作用で錯覚を起こしていることすら気がつかないから、これ、もう大問題です。

 いつでも隙だらけです。これはもう、戦いにならない。隙だらけだと、いくら打たれたって、どうしようもない。命がいくつあったって足りないっていうことですよ。

 本当に思考・考えですね。思考・考えを取り扱うことが止まないんです。


40:08 仏道・仏法、坐禅

 で、今度は仏道・仏法です。それが座禅でございますね。

 とにかく、思考・考えというものを、徹底、手放しにするというか、ほっとくんです。相手にしない。

 そうすると、どういうわけかですね、どういうわけか、思考・考えが、思考・考えを相手にしなくなるんです。

 相手にしなくなるということは、認めなくなるんです。認めるものがなくなる。これが素晴らしいんですね。

 この仏道・仏法、お釈迦様は、人類史で初めてそれをおやりになって、今こうやって、あるのでございますけれども。

 思考・考えを相手にしなくなると、もう認めるものがなくなるんです。思考・考えで認めているだけです。

 初めから、相手があったんじゃないんです。初めから、そのものがあったんじゃないんです。ご自身が思考・考えで、ただ認めただけなんです。

 思考・考えの産物なんです。ただ認めただけだから、それを放っておけばいいんです。放っておけば、認めるものがなくなるから。

 そうすると、どっちがどっちだか分からなくなる。それは、ご自身でやってみなきゃならない、ということです。それが坐禅でございますけどね。

 仏法では、このとらわれる心を迷いとい、無明むみょう住地じゅうち煩悩ぼんのうというのであります。

 ひとことで言うと、無明ということですよ。

 そういう錯覚、そういうごまかしに、ご自身が思考・考えに騙されていることに気がつけない。それを無明、それが人の迷い、悩み、苦しみの根源なんです。この一点だけですよ。

 ご自身の思考・考えに、ご自身が騙されているだけなんです。一切他に、迷い、悩み、苦しみというのは、根源がないんです。この一点。

 ご自身は、ずっと起きてる間は、天然の思考・考えに対して、それに対してスっと相手にする。相手にするからごまかされちゃう。

 相手にすることはいらないんですよ。天然に生じている、ただ理由もなく生じているのだから、そんなものを相手にすることはないんだけど、相手にしちゃうんですよ。

 相手にすると、スッと認めちゃうんです。あの人、この人、あのものって、すっと認めちゃうんです。それは人間の苦悩の根源です。

 何も天然の、いろんなことを思うといったって、ほっときゃ何でもないものを、相手にすると、その相手にしたものを認めちゃうんです。それだけなんです。


43:15 不動明王の盤石な在りよう

 えー、あ、終わったのか。もう少しやりますか。もう時間はない。もうやめておこうか。え? もう一つ? じゃあ、もう一ついきましょうか。やれっていうから。(笑い) それじゃあもう一つですね。

 今度は、不動明王ふどうみょうおうの教えっていうのが、これお題目は誰かがつけたんだと思いますけども、この不動明王っていうのがあるんです。

 この不動明王ってのは、不動智の根源といいますか、守護神といいますか。その在りようですね。

 沢庵さまはですね、

 諸仏不動智という言葉があります。不動とは動かないということ、智は智慧の智です。動かないと言っても、石や木のように全く動かないというのではありません。

 先ほど言いましたように、人の在りようで「不動」と言うと、動くか・動かないか、それは思考・考えの範囲内です。

 不動智と言うと、不動のありようは、この「動く」の方から言えば、「動くそのもの」なんですよ。動くそのもの。

 動かない方から言うと、動かないそのものです。それを不動と言ったんです。

 ですから、動く、動くそのもの、動くそのものだったら、動くということはないんです。動かないそのものだったら、動かないということはないんです。

 これを不動智という。思考・考えだと、動くものと動かないものと、必ず別になっちゃう。

 動くということにおいて、動くということはないんです。動かないという在りようにおいて、動かないということはないんです。

 動く、動かないっていうのは、別じゃないんです。一つなんです。何のこっちゃそれ。(笑い)

 それが、先ほど言った不動智なんです。それが、私たちの本来の在りようなんです。そのもの自体です。如是の法としての、私たちの真相なんです。そのもの自体です。

 そのもの自体が動くということはないですね。動かないということは、ないじゃないですか。そのもの自体なんです。

 別になってるから、動くとか動かないってことも生じるんですけど、そのもの自体は、そのもの自体が動くってことが、わかるわけないです。また、動かないってこともわからない。そのもの自体ですから。

 それが、今の在りようです。そのもの自体です。動いてんだか動いてないんだかわからない。

 別になるからです。別になってるから、動くものと動かないものが、こう生じちゃうんですよ。

 そのままの自体だから、動くとか動かないとか、生じないじゃないですかね。

 その智ですよ、そのことがハッキリする。一如いちにょの在りようですよ。私たちの本来の在りようです。この一如の在りようが、わかる。

 ああそうか、はじめから、自他がなかったんだ。動く・動かないということがあるということは、自他が生じているからですね。そのもの自体だったら、動くとか動かないということはないですね。それをですね、

 不動とは動かないということ。智は智慧ちえの智です。動かないと言っても、石や木のように全く動かないということではありません。
 心は四方八方・左右と自由に動きながら、一つのもの、一つのことには決してとらわれないのが不動智なのです。

 とらわれてしまうということは、相手を見てます。どんなに動いていたってそのもの自体だから、とどまるということはないのです。とどまるというのは、別になっているからとどまるんですね。

 一如の在りようは、とどまるということはないんです。だから、とらわれるということはない。とらわれるということは、別になっているからです。

 だから、要するに思考・考えの方で取り扱いが始まると、とらわれる。そうすると、隙ができる。

 不動明王はですね、真如さん(?) ほど、いかめしくないけど、かなり、いかめしい、面をして。で、

 不動明王は、右手に剣を握り、左手に縄を持ち、歯をむき出し、眼を怒らして、仏法を妨げようとする悪魔を取り押さえようと突っ立っておられるとされております。

 ね、そのような形相でですね、もう、いかめしい形相で、やるわけでございます。それはまあ、ね、それなりのことは、ないわけじゃない。

 それぐらいですね、やっぱり仏道・仏法というのは本当に素晴らしいもので、それを守る価値があるんですけれども、そのありようだけじゃないんですね。

 しかし、この不動明王は、仏法を守護する者としての姿、顔、形を作られておりながら、実は不動智を体現した者として、不動智の姿を人々に見せておられるんです。

 この不動智を体現したものとしてですね、不動智の姿を人々に見せておられるというのが、この様子に、右手に剣を握り、左手に縄を持ち、刃を剥き出して、眼を怒らして、という在りようなんです。

 そのぐらい、不動なんです。これが私たちの真相です。もう、盤石なんです。

 盤石なんです。一切、私たちの本来の在りようを侵すということはできないんです。どんなものでも。

 できないはずですよ。そのもの自体なんですから。すべて、そのもの自体、私たちの在りよう、そのもの自体ですから。

 そのものをですね、どうこうできるなんてことはないんです。そのもの自体の在りようというのは、そういうことです。

 すぐ、そのもの自体ですから、ね。盤石って言いますけど、もう、本当に揺るぎがないんです。

 一部の、なんていうか、間一髪入る隙がないからです。そのありようをですね、右手に剣、左手に縄を持ち、歯を剥き出し、眼を怒らして、、、これ盤石の様子なんです。

 どんなものでも、いらっしゃい、いらっしゃい、大丈夫です。そういう盤石の様子、在りようで、今生活ができてるんだから、なんで、『ああでもない・こうでもない』と言わなきゃならないんですか、ということです。

 実は不動智を体現したものとして、不動智の姿を人々に見せておられるのです。

 当然、沢庵さんもそれを体現しておられるから、このように示されています。

 何もわからぬ普通の人間は、この姿に恐れて、仏法を妨げるようなことなど決してしまいと思うのですが、悟りに近づいた人々は、不動智ということをはっきりと知って、一切の迷いを晴らすものです。

 ちゃんとご自身が、沢庵さんは、ご自身ですね、ご自身の真相ですね。如是の法として不動智のご自身の真相を明確にしているから、このように的確にですね、その悟りの様子をお示しになれる。

 つまり、誰でも不動明王ほどに、不動智を自分自身のものにすることができれば、どんな悪魔にも負けることはないと、不動明王の姿は語っているのです。

 一切問題が起きません。盤石です。どんなことがあったって、揺るぎようがありません。これが私たちの本来の在りようなんですよ。

 ですから、本当に、坐禅ですね、坐禅。これやる価値がある。もったいないですよ。どなたも今、そういう生活ができてるんですから。

 で、それなのに、悩んだ、迷った、苦しんだということが当たり前になっちゃってるんですから。どういうことですか。ね、もったいない話でしょっていうことですよ。

 ですから、いや、私はいいんだっていう人には、それは、なかなかお勧めできないんだけども。

 ね、せっかくそういう志を起こしたんですから、せめてですよ、せめて、ご自身だけでいいです。おやりになる価値が、また、これに勝るものがないんです。

 盤石です。不動ですから。

 「八風はっぷう吹けども不動」というお示しがありますけれども、どんなことがあっても、盤石。

 これに勝るものはないです。ひとつ、おやりになっていただければ、ありがたいです。はい。

文字起こし 2025.1.22 by  Aki Z


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