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【玄暁録】(2) ~義衍老師語録「今という生活」
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2024.12.7 更新
井上義衍老師は500年に一人の高僧と謳われ、曹洞宗中興の祖とされる近代の名匠である。義衍老師は25歳で大悟し、曹洞宗の枠を超えて自由自在に法を説いたという。その長男で法嗣の井上哲玄老師は、義衍老師の指導法を、更に現代的な言語表現に進化させている。
ここに示した【玄暁録】は、哲玄老師がまとめた「井上義衍老師語録」から原文を引用し、筆者がそれに類似した哲玄老師の言語表現を取り合わせて比較検討し、拙いながら、筆者が見た【暁山禅】の解説を付した備忘録である。
2. 今という生活(井上義衍老師語録より)
見ずに、美しいと言わないで下さい。聞かないのに、つまらないと言わないで下さい。
私達はいかなる立場であれ、どのような状態に置かれていても、今という生活の欠けている人はおりません。皆必ず今という生活の上で生きております。この片時も離れることのない自己の身心の所在です。
これを現成といいます。
すでにあるんです。好き嫌い、善悪をいうまえに。
それを受ける、それと出会う、それと共に時を同じくしたり、場所を同じくしたり、人を同じくして生きています。ここに公案といわれる、逃げも、隠れも出来ない立場での一人一人のあり方があります。相手にせざるを得ない。他人事では済まされないあり方が公案なのです。
“あなたならどうする”
“あなたならどうする”
考えて、考えて、考えてどうにもならなくなった時でも、この私からは逃げられない。そのような中にあって、道元禅師をはじめ祖師方は、どうしたのだろう。間違いなく、考える前にある事実を考えでなく事実に率直に学んでみたのです。自分の見方を使わずに。それが非思量といわれる、すごし方です。これがないと、坐禅は、蝉のぬけがらになってしまいます。
現成公案は、だれしもの、抜き差しならない今が、私達が思っているようなものかどうか、もう一度自分自身の上で確かめることです。
今度は、上記引用をバラして、言語表現の違いをゆっくり比べてみることにする。
見ずに、美しいと言わないで下さい。聞かないのに、つまらないと言わないで下さい。
少し分かりにくい。義衍老師がここで「見る」「聞く」というのは、自我を核とする認識作用が動きだす前の、 <見る><聞く>作用、すなわち六根の作用を言うのだろう。本当に <見る>・本当に<聞く> というのは、脳内で明示的知性による認識作用が動き出す前の、生の五感を体感することなのだと思う。
本当に <見る>、本当に<聞く> 、そういう場を知らずに、考え方の中だけで、知性の上、言葉の上だけで「美しい」とか「つまらない」とか言うのは、記憶に使われているだけのことだ。それならば、ただの妄想と変わらないことになる。
私達はいかなる立場であれ、どのような状態に置かれていても、今という生活の欠けている人はおりません。皆必ず今という生活の上で生きております。この片時も離れることのない自己の身心の所在です。
これを現成といいます。
すでにあるんです。好き嫌い、善悪をいうまえに。
これは、哲玄老師の説法の内容と軌を一にしているようだ。でも、これは時代背景もあると思うが、哲玄老師はこれと同じことを、更に分かりやすく、かみ砕いて表現する。
少し長くなるが、同様の内容を、哲玄老師の法話から編集引用する。この下の枠内の引用は、義衍老師の言葉ではなくて、哲玄老師の言葉である。
<六感という機能>を見ると、活動自体は、人間の「考え方」を飛び越えて無条件ですね。条件一切なし。無条件でそのとおりに聞こえる、そのとおりの味がするようになってる、そのとおりの匂いがする。
思いだってそうですよ。『いやだなあ』って思ったときにですよ、間違いなく、『いやだなあ』という思いだったんですよ。
それに、すぐにいいか悪いか、好きか嫌いかって、それが、今までに培ってきた人間の思考の方に、一瞬ちらっとそういうことが思えると、すぐ同時に、良し悪しとか好き嫌いが出てくるわけです。だから、良し悪しとか好き嫌いが、出てくる前はどうだったのかってことです。
そしたら、(扇子をパシッ!と打って)この音は、いいんでも悪いんでも、好きでも嫌いでも、そんなことはないんです。いきなり触れるから。(パシッ!)
あとから「探そう」と思っても、もう音はどこにもない。何回でもやりますよ、(パシッ!)、一瞬でしょ、バシッていったら、あとから『あの音が』って、『どういうことだったんだろ』って、人間が考えたからって、もう音はどこにもないですよ。
だから、触れたときどうなっているかってことが問われるわけです。だから、今していることや、今どうなってるかってことが、いつでも問われてる。で、今のところには、人間の好き嫌いだとか良し悪しってことは。一切くっついていない、介在してないってことです。
【カフェ寺 2018年9月24日】 のYouTube 動画より
義衍老師の説明では、「私達は皆、必ず今という生活の上で生きている。片時も離れることのない自己の身心の所在、これを現成という。」と言っている。
哲玄老師の説明では、<今>という活動は、必ず<六根のはたらき>として直指されている。六根の機能が<今の活動>で、それを、義衍老師よりも、もう少し手前から、丁寧に説明している。
それを受ける、それと出会う、それと共に時を同じくしたり、場所を同じくしたり、人を同じくして生きています。ここに公案といわれる、逃げも、隠れも出来ない立場での一人一人のあり方があります。相手にせざるを得ない。他人事では済まされないあり方が公案なのです。
“あなたならどうする”
“あなたならどうする”
これは、<今という活動体>と、「自我を核とする認識作用」との交渉が、「公案」だということだろう。公案とは、「知性」と<現実>との出会いの場のことだ。
「あなたならどうする」という問いが、<今此処の現実>により答えられてしまうところに、現成公案の<妙>が窺われるように思う。
考えて、考えて、考えてどうにもならなくなった時でも、この私からは逃げられない。そのような中にあって、道元禅師をはじめ祖師方は、どうしたのだろう。間違いなく、考える前にある事実を考えでなく事実に率直に学んでみたのです。自分の見方を使わずに。それが非思量といわれる、すごし方です。これがないと、坐禅は、蝉のぬけがらになってしまいます。
<即今只今の現実>を思考で捉えようとしても、思考というものは記憶の中の活動である、つまり「考え」は常に、過去の記憶に基づく情報操作に過ぎないのである。だから、「考え」によって<今の現実>を捉えることはできない。「考え」によって、今の事実を捻じ曲げることはできない。
現成公案は、だれしもの、抜き差しならない今が、私達が思っているようなものかどうか、もう一度自分自身の上で確かめることです。
私たちが、日常生活の中で、つねに離れることのない「思考」というものは、現実の影法師に過ぎない。そんなものを頼りに生きていく限り、人間は、真に自由に生きていくことはできない。
そこをもう一度、自分自身で確かめよと、義衍老師はいうのである。では、どうやって確かめるのか、その答えはといえば、上記に示した哲玄老師のアドバイスに従うだけで良いのである。
2024.11.23 Aki Z
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