2024.11.24 更新
井上哲玄老師は、500-600年間に1人と言われ近代の高僧・古仏と尊敬される井上義衍老師を父とし、母・芳恵の長男として龍泉寺に生まれた。そして、哲玄老師は義衍老師の指導法を、その言語表現において、更に現代的に進化させている。
ここに示した【玄暁録】は、哲玄老師がまとめた「井上義衍老師語録」から原文を引用し、筆者がそれに類似した哲玄老師の言語表現を取り合わせて比較検討し、拙いながら、筆者が見た【暁山禅】の解説を付した備忘録である。
今度は、上記引用をバラして、言語表現の違いをゆっくり比べてみることにする。
少し分かりにくい。義衍老師がここで「見る」「聞く」というのは、自我を核とする認識作用が動きだす前の、 <見る><聞く>作用、すなわち六根の作用を言うのだろう。本当に <見る>・本当に<聞く> というのは、脳内で明示的知性による認識作用が動き出す前の、生の五感を体感することなのだと思う。
本当に <見る>、本当に<聞く> 、そういう場を知らずに、考え方の中だけで、知性の上、言葉の上だけで「美しい」とか「つまらない」とか言うのは、記憶に使われているだけのことだ。それならば、ただの妄想と変わらないことになる。
これは、哲玄老師の説法の内容と軌を一にしているようだ。でも、これは時代背景もあると思うが、哲玄老師はこれと同じことを、更に分かりやすく、かみ砕いて表現する。
少し長くなるが、同様の内容を、哲玄老師の法話から編集引用する。この下の枠内の引用は、義衍老師の言葉ではなくて、哲玄老師の言葉である。
義衍老師の説明では、「私達は皆、必ず今という生活の上で生きている。片時も離れることのない自己の身心の所在、これを現成という。」と言っている。
哲玄老師の説明では、<今>という活動は、必ず<六根のはたらき>として直指されている。六根の機能が<今の活動>で、それを、義衍老師よりも、もう少し手前から、丁寧に説明している。
これは、<今という活動体>と、「自我を核とする認識作用」との交渉が、「公案」だということだろう。公案とは、「知性」と<現実>との出会いの場のことだ。
「あなたならどうする」という問いが、<今此処の現実>により答えられてしまうところに、現成公案の<妙>が窺われるように思う。
<即今只今の現実>を思考で捉えようとしても、思考というものは記憶の中の活動である、つまり「考え」は常に、過去の記憶に基づく情報操作に過ぎないのである。だから、「考え」によって<今の現実>を捉えることはできない。「考え」によって、今の事実を捻じ曲げることはできない。
私たちが、日常生活の中で、つねに離れることのない「思考」というものは、現実の影法師に過ぎない。そんなものを頼りに生きていく限り、人間は、真に自由に生きていくことはできない。
そこをもう一度、自分自身で確かめよと、義衍老師はいうのである。では、どうやって確かめるのか、その答えはといえば、上記に示した哲玄老師のアドバイスに従うだけで良いのである。
2024.11.23 Aki Z
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