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ヒト型・先行原意識
2024.12.18 更新
筆者は、二か月ほど前に、縁あって井上哲玄老師のオンライン禅会に参加しました。それで、禅思想というものは、私たちを真摯に禅に向かわせるために、善知識が書き残した蹤跡に過ぎないことが、よく分りました。
💎禅を本当に知りたい方は、大悟徹底、井上哲玄老師の公式サイトへ。
下記投稿は、哲玄老師に独参する前の私が、35年間鈴木大拙に取り組んで、足りない知性の限りを尽くして書き上げた、役に立たない禅思想の典型です。が、自分の精一杯の努力の記念に、ここに残しておこうと思います。
はじめに
禅は体験である。思想ではない。悟りの意識を説明しようとするときには、このことを忘れてはならない。だが、まだ悟りを知らない人を悟りへと導くためには、思想は有効である。また、既に見性体験を経た人がその禅意識を充実させ、確信を深めるためにも思想は重要である。このような狙いから、初祖ダルマ大師以来多くの祖師方が様々な禅思想を展開してきた。ただ、言葉にならない見性経験を語ろうとするのだから、語り手は皆ムリを承知で語るのである。あるいは語らずに、殴る、打つ、叫ぶ、指を立てる、などの直接行動をとることもある。思想的指導でも行為的直指でも、方法はどうあれ、師が弟子をうまく導いた事実があれば、そのときの様子もまた思想として記録に残されるのである。
本論は、「ヒト型・先行原意識」というモデルを提示して、仏教の悟りを、思想的、現代的に再検討した試論である。そして、私たちに心の平安をもたらすものは、このヒト型・先行原意識だと言うのが本論の結論になる。また、筆者は鈴木大拙先生の大ファンなので、大拙の思想にも大分触れている。学術論文ではないので、是非とも気楽にお読み頂きたい。
第一章 ヒト型・先行原意識仮説
本論は、禅の悟りを「先行原意識」の活動だとする試論である。現代の脳神経科学は、脳内で行動開始を指示する信号は、私たちの意識よりも0.5秒ほど早く発令されることを明らかにした。つまり、人間は意識に従って行動するのではなく、行動が先で、意識は後から現れるというのである。苦楽の価値判断は思念より先に確定し、対処方法を導き出す。理屈の上の辻褄合わせは、あとから付くのである。この現象を顕在意識側から見たのが、いわゆる「受動意識仮説」である。今、これを反対に、行為を引き起こす意識活動の方から見て、行為を発動する非明示的意識の側に「先行原意識」という「ある種のまとまり」を考えてみたい。
ここで、本論で用いる関連用語を整理したい。「顕在意識」は、言語や表象を伴う明示的な現状監視意識のこと。顕在意識の裏には、記憶や行動プログラムを管理する「内在意識」がある。内在意識は無意識のうちに人の行為を決めてしまう。やめたくてもやめられない習慣や、行為、思いは、内在意識の活動によるものだ。実のところ人間の心と身体は、私たちが想っている以上に、結構勝手に動いているようだ。年齢を重ねた老人が頑固になるのも、内在意識下の記憶と行動プログラムの強化によるものだろう。この内在意識は個人の神経系を主軸に形成され、先行原意識の主要部を構成する。従って、「先行原意識」は内在意識よりも広い概念になり、個人の身体内に収まらないところがある。ここまでは、神経系由来の知性に関する用語であるが、神経による繋がりを持たない細胞もホメオスタシスなど、知的な機能を備えていることが指摘されている。このような、細胞個々のもつ非明示的知性の総意も、集合的に意識に似た働きを示すものと考えられ、筆者はこれを仮に「細胞意識」と呼んでおく。
さて、「先行原意識」は、禅にまつわる非合理なエピソードや、難解な禅思想を理解するための助けになると思う。これは悟りの心理的メカニズムの解明にもつながり、従って、禅のみならず浄土系仏教や、宗教全般の理論武装にも役立つ可能性がある。ここに一つ気をつけたいことがある。先行原意識を悟りの心とするからには、それは、動物性の本能的・反射的意識とは区別したいのだ。もう一つ、受動意識仮説については、意識のすべてが受動的で、顕在意識が関与できない、ということにはならないと思う。だが、これらの問題については、今は深入りせず、おいおい考察することにしたい。
1. 悟り、先行原意識と顕在意識
悟りの人(以下、覚者と呼ぶ)の先行原意識は、顕在意識よりも早く動き出している。と言っても、先行原意識が顕在意識よも早く動き出す事情は、普通の人と何も変わらない。では、覚者と常人の違いは何か。それは、行動直前の顕在意識の振る舞いにある。人間の行為は顕在意識に監視される。だが、覚者は何をするときにも、行動に迷いがない。覚者の場合、顕在意識は、先行原意識の生み出す行動をけん制することの代わりに、観察役に徹するのである。ただ、それも、行為の一瞬後の監視にはなるが、この不介入が覚者の誠を支え、行為の純信性・俊敏性に違いを生んでいる。とにかく、「顕在意識の静かさ」というところに、覚者の意識の特異性があると思う。こういうと、覚者は顕在意識の知的批判力を封印しているようだが、これは、知性の消滅を意味するものではない。経験事実についての知的な整理整頓は、脳内で、行為発令から少し遅れて、内省という形で、顕在意識を伴って実行されるのである。そのとき、経験の記憶は、一本の明示的知性の糸に紡がれる。これにより、記憶の中に論理性が生まれてくる。顕在意識の役割はここにあると思う。
2. 達人たちの 0.5秒の優位性
私たちの日常の行動は、普通は、知的判断に基づいて行われると思われている。常人においては、行動時の理性的判断は、顕在意識に委ねられているように見える。実際には、先行原意識は顕在意識の決断を待つことをしない。それで、覚者のように、行動が顕在意識のけん制を受けずに先行原意識から素直に発動される場合、顕在意識の知的判断が逡巡をもたらすことはない。その無意識的な行為は、頭で考えながら行動する場合に比べて、少なくとも0.5秒は速く動けることになる。逡巡の長さによっては、数秒、数分の優位性は容易に出てくる。仏教の悟りに限らず、あらゆる分野の天才たちは、無意識のうちに、この時間的優位性を活用している。武道家、スポーツ選手、アーティスト、各種の職人など、それぞれの道の達人たちのアートは、ここから生まれてくる。彼らは熟練の、卓越した技術を持ち、状況が許すときにはその熟練の技術を無意識的・反射的に使っているのである。ただ、往々にして彼らは自分の専門分野でのみそれを使っている。これに対して、禅者は生活の全面においてこれを活用するべく、日々修行を重ねてゆくのである。また、先行原意識の長所は時間的優位性だけではない。自他の間の壁が消えることもその長所の一つである。そもそも、肉体的な壁はともかく心理的な自他間の隔壁は、意識が知性を駆使して作り上げた知的産物なのである。しかし、先行原意識の中には、打算的な高い障壁はないのだ。
3. 禅に見る「知の否定」
禅には「教外別伝・不立文字」という指針があり、彼らの修行には、知性や文字を否定する特徴があることはよく知られている。これは、悟りが「先行原意識」主導の活動であることを考えれば、容易に理解できるだろう。禅が看板とする「仏心」なるものも先行原意識の上で動いているので、禅は、その妨げとなる知的活動を一旦は否定するのである。また、知識には顕在意識由来の「対象性、二分性」がつきまとうが、禅者はモノゴトを知的に、対象的、概念的に捕えて決めつけることを最も嫌う。禅は知性のみに頼ることなく、「対象的でない、物の見方」を確立しようとする。
中国唐代の趙州和尚は、修行者に「犬に仏性はあるか」と問われると、あるときには「無」と答え、あるときには「有」と答えている。顕在意識にとっては「有」と「無」の間には超えられない壁があるが、言語以前を活躍の場とする原意識にとっては、有るも無いも無いのである。趙州和尚にとっては、Yesと答えてもNoと答えても、同じだけ間違っているし、同じだけ正しいのだ。禅宗では、弟子が「仏性とは何か」と問えば、師匠からは「庭前の柏樹子」とか「三斤の麻」などの応えが返ってくる。または、師は弟子を黙って打ったり、一喝したりする。しかし、顕在意識以前のハタラキである霊性的自覚を、顕在意識の領域で何と表現してみても、それらは仮の名に過ぎない。霊性的自覚という言葉は鈴木大拙が好んで使っていたが、これも霊魂のような幻影的な抽象概念のことではなく、物質と精神とを包み込む現前の直覚を指すのである。
禅は知性の混乱が消えたところに現れる「自由な人間活動」の獲得を目指している。禅問答に見られるような師と弟子の間の非合理で答えのないやりとりは、修行者を自由で全人的な活動へと導くための方便なのだ。たとえば、禅宗初祖のダルマ大師の「不識」(知らない)という言葉は、知性とは別の玄旨から出て来る特殊意識の存在を予想させる。ダルマの別の有名な言葉の「無功徳」(仏教を信仰しても功徳など無いぞということ)は仏教道徳とも呼ぶべき大宣言であるが、これは知性的な打算に振り回されない「先行原意識」の活動原理を示している。
4. 求めない、「そのまま」
禅匠は、悟りを外に求めることを禁止する。よく「外に求める」と言うが、これは心の内も含めて、とにかく「探すな」ということである。多くの祖師方が、仏性とか仏心などというものは、「探し求めても見つからないぞ」と警告を与えている。何故かというと、探すには知性を使うので、探せば、顕在意識が強く作用してしまうからだ。顕在意識が強く働けば、先行原意識のハタラキが乱されるということは既に示したとおりである。
ここまで来ると、今まで自分自身の核のように感じて盲信していた顕在意識、あるいは自我というものが、少々疑わしくなってくるだろう。私たちが見て来た自意識は、本当は、私たちの主人公ではなかったことに気づき始めるかもしれない。頑張って守り続けてきた自我というものは、実は虚像であって、本当の自分は、かえって先行原意識の方にあるという確信が生まれてくる筈だ。いたずらに余所を探し回る必要はないことが、しずかに自覚され始めることになるだろう。これを禅宗では「平常心」「無事」「そのまま」「日日これ好日」などと言い、浄土系仏教では「他力」とか、「あなたまかせ」と言う。これは、先行原意識の活動を大事にすることに他ならない。これを顕在意識側から見て「宗教の受動性」というが、原意識側からみれば、むしろ「宗教の能動性・主体性」を意味するわけなのだ。
しかし、そもそも受動か能動かという問題は、自我を基準点として言われるものなので、自我中心を持たない原意識においては、能動も受動もないのである。本論の冒頭に「受動意識仮説」なるものを示したが、これも、自我を基礎とする二分性の顕在意識から見てそう言うので、言語以前に活躍する先行原意識にから見れば、能動か受動かの、どちらかに割り切れる話ではないのだ。それをどちらかに決めつけようとするのは知性のハタラキであるが、知性とは元来、仮在性のもので、現前の実動はそこにはないのである。
5. 制御不能性
求めない、そのまま、と書いたが、実際のところ、顕在意識は先行原意識を瞬時に動かすことはできない。しかし、逡巡を通して1秒先の行動を思い止まらせる力はありそうだ。また、事前に知的に思考され、準備され、原意識に組み込まれた行動プログラムが、Automatic に先行原意識を動かすことはあるだろう。だが、人間は、少なくとも行為の瞬間に、顕在意識によって行動を制御することはできないのだ。先行原意識は顕在意識より0.5秒速く動き出してしまうからだ。そうすると、自分の行動が自分で決められないようで、一種の無力感を感じるかもしれない。半面、これは自分の行動に自信を持つことにもつながってくる。いくら心配しても、不安でも、警戒しても、実行中の行為を顕在意識により一瞬で変えることは、不可能だからである。道徳的な問題は別にして、現前を制御することはできないという事実により、かえって心が安らぐところもあるのである。
覚者は「一切法は執持すべきでない」といい、「欲望をもって関係しても、思い通りにはならない」と言う。これは、浄土宗や浄土真宗が強調する「他力」と、軌を一にしている。「至心に弥陀を信ぜよ」と言って、至心の信が求められるようだが、信じようとして信じる信は、本当の信ではない。他力は「先行原意識」にあり、自力で手を加えることはできない。「自力」は顕在意識で、「他力」は先行原意識のハタラキのことだと言ってよい。
しかし、このように他力が重用されるようになると、自分の意志は無いのかという疑問がでる。だが、自分の意志は結局、先行原意識の影に過ぎないのだ。その原意識なるものも、自己の身体内に収まり切れはしないのだ。人間は一個の身体を借りて、宇宙の意志の一部を任されて生きているのではなかろうか。結局は、意志も意識も宇宙に由来するのではないか。
6. 主客未分・動見不ニ
先行原意識は行動者であると同時に観察者でもあることは忘れてはなるまい。このように観察と行動とを二つに分けるのもまた知性のハタラキではあろうが、とにかく、観察者としての原意識の特殊性についても触れておきたい。禅者の見証経験の体験談には、自然と一体になったなどの表現を見かけることがある。また、アートの世界では、「竹を描くには自分が竹になって描け」などという。これは、観察する側の主体と、観察される側の客体とが分かれていない直覚を表している。この時空間認識以前の動見不二の感覚を、筆者は現前覚と呼んでいる。このような表現は、顕在意識不在の先行原意識が見た生の五感の観察を、後から顕在意識の言語のレベルに翻訳したものだ。よく考えてみれば、知的加工を施される前の生の五感の中では、たとえば視覚について言えば、視覚野は視界の全体をそのままに感受しているだけなのだ。特定の何かにフォーカスしたり、個々の存在や、観念や概念や、思考のかたまりが生まれてくるのは、脳内処理のもっと後の段階によるものだ。
7. 先行原意識を感じとる
先行原意識を見つけることは大切なことなのだが、一番の難関は、先行原意識を、顕在意識に縛られずに感得することである。しかし、感得してしまえば、その感得されたものは顕在意識を刺激してしまうのだ。つまり、見性のカギは、知性で感得せずに原意識を感得することだ。それで、先行原意識を流れるままにして、それを意識せずに感受するのである。これを「流れに従って性を認得する」と言う。これは、人間の持ちうる、最も微細な観察技術と言うべきだろう。くれぐれも、探求してはいけない。
人間の心の活動のうち、顕在意識以前の非明示的神経活動の中には、私たちの行動を決定づける行動プログラム群が存在すると思う。各個人の「過去の知的整理整頓活動の成果」は、神経系の内在意識に取り込まれている。ただし、ここでいう「知的活動の成果」とは、必ずしも知識そのものではない。「知的活動の成果」には、過去に明示的知性あるいは非明示的知性により整理された価値判断や、行動規範、生物的反射のようなものも含まれるのである。先に例に出した達人たちの熟練の技術も、知性によって整理された行動プログラムとして内在意識に蓄えられるものと思う。この内在意識の領域が「先行原意識」のエンジンで、それは、顕在意識に頼らずに、私たちの行動の方向性を決めてしまうのだ。つまり、顕在意識の風景の中には、内在意識起因の非明示的意志が動いている。だから、顕在意識の中に漂う内在意識の動機を感じ取ることは、私たちが貪瞋痴の三毒を制御する上でとても大事な気づきを与えることになるだろう。行動発動前に内在意識の動きを感じ取れなければ、コントロールなどできないのだから。
8. ヒト型・先行原意識
先行原意識は無意識的意識であることから、動物的本能と混同される恐れがある。しかし、動物本能とは異なる面があるので、筆者はこれを「ヒト型・先行原意識」と名づけることにした。私たちは自分の心理の上に、ヒト型の自分像(自分の身体イメージ)を持っている。その自分像が原意識の上で知性を携えて、自分の身体を感じたり、外界を感じたり、行動を起こしたりする。それが、ヒト型原意識の原型なのである。たぶん、動物の持つ経験的行動パターンなども、先行原意識の機能を備えているとは思う。では、ヒト型の特徴は何かというと、内在意識が言語レベルで編まれているところだ。
それから、自他の明示的峻別がないことは、先行原意識の特徴の一つである。動物はただ本能的欲求に従って獲物を殺す。人間だけは、念入りに利己的に打算して他人を殺すのである。自他の峻別を誇張しない点では、言語レベルの知性をもたない動物の方が優れているとも言える。禅では「没蹤跡」と言って、跡がない行為を大事にする。これも、利己的打算の跡が無いということだ。禅者は行動の一瞬前の知的検討を嫌うのだ。直前の知的検討は「虚構の自我」の利益を優先することになりやすい。それで、禅は行動直前のためらいを嫌うのである。しかしこれは、すべての知的検討を嫌うということではない。
実際のところ、見性経験を得た人も、身に付いた悪癖が直ぐに無くなるものではない。習慣を正すことは、無我観を獲得した顕在意識により、平時にやらざるを得ないのだ。ただ、動植物が世代を跨って何年もかけて実行するような、たとえば、DNAの編集による行動パターンの修正を、人間は顕在意識を駆使して一日でやれる。もし、CO2削減が地球温暖化に有効であることを人々が本当に知れば、この問題は直ちに解決する。これもまた、明示的知性に課された役割だと思う。だが、修行者の「行動プログラムの修正」には終わりがない。この大仕事をやり遂げた人だけを、真の覚者と呼ぶのである。禅の修行は一生ものなのだ。
第二章 人間格の先行原意識
第一章では、心の平安をもたらす「ヒト型・先行原意識」について説明してきた。「先行原意識」を日常の意識によって理解しようとするとき、それは何か実体のない抽象的なもののように感じられたかもしれない。しかし、「ヒト型・先行原意識」は人間格の仏性なのだ。それは、一度見つけてしまえば最も具体的なものとなって、全人的な様相で姿を現してくるのである。また、覚者の先行原意識には顕在意識の皮が無い分、行動が直接的で、自由で、唯我独尊的になる。これは独我的とか利己的という意味では無い。覚者の行為は背後に誇張された自我を持たず、利己的算段を積み上げる基礎がないのだ。それで、行動は自然に、愛に満ちたものになる。それから、悟りは智性的であるが、同時に、本能的なところがある。それは、安全装置を排した自己丸出しの、ある意味 Devilish で危険な行動メカニズムとも言える。しかし、これはケモノの本能とは異なる、あくまでも人間格の本能的仏性なのである。少なくとも今筆者が定義したいものは、そういう性格のものなのだ。
9. 臨済禅師の「人」
臨済禅師が弟子を殴ったり、喝を叫んだり、徳山禅師が棒で打ったりするのは、明解な理屈があってそうするのではない。これは、ただただ先行原意識からくる全人的意志の発動なのである。また、弟子たちがまだ知らない、「理由なき自由な行動」、すなわち「先行原意識による行動」の実例を、実地に示すためでもある。もし、理由があるとすれば、それだけが理由なのである。臨済の指導は、後世の人たちから、「痛みの感覚の中に仏性を感得させる」、いわゆる馬祖伝来の「作用即性」の思想を継承すると説明されることがあるが、どこか違う気がする。このような直接行動は、ある意味、むしろ因縁性のもののようでもある。師匠の黄檗から受け継いだものが、臨済の上で動いている。臨済は「無位の真人」「無依の道人」などと表現する。彼は霊性的自覚の上の「真人」を、人間格として強く自覚しているように思う。ここに、鈴木大拙の『臨済の基本思想』 から、臨済禅師の「人」思想に関する文章を、少し編集して引用する。少し長くなるが、臨在の「四喝」(喝を四つの種類に分けて論じたもの)を題材にした文章から始める。
分別知以外に何かを考えないと、臨済の行取し道破するところのものを、その根源に徹して看取することができない。四喝を区別することは既に知性的作用によるものであるが、喝それ自体に触れたいと思えば分別の領域を超出しなければならないのである。これが可能でないと、喝はただのエクスクラメーションとしか受け取られない。犬のワン、牛のモーとなんら差がないものとなる。犬に「如何なるか仏法の大意」と尋ねてもワンともキャンとも言わない。臨済であって始めて一喝が出て来るのである。臨済と犬との間に何かの区別がなくてはならない。臨済には何かの形で自知のものがなくてはならない。臨済の喝は人間意識のドン底から出ている。彼には「知」がある。認識がある。が、この境地は分別性の知的認識の領域ではない。犬のワンや牛のモーには、人間が見て始めて仏法の大意がそこにあると言えるが、犬または牛自身においては仏法も何もあったものでない。彼らにはただの本能以外には何もない、無分別そのものである。人間になって始めて無分別が分別され、分別の底に無分別を見るのである。動物の本能は分別しない、人間の意識は分別する。しかしこれだけでは、どうも存在の秘密に徹底せず、なお割り切れないものがある。すなわち我らの安心は今一歩進んだところに求められなくてはならない。動物本能的無分別より今一層深きもので、かえって人間意識の根源をなしているものをつかまなければならない。ここまで来ないと、喝の意義に徹することができない。それでは、臨済の「見処」、喝およびその他の禅的なものの由って出ずる処は、明らかに看取されないのである。この見処なるものの性格的内容は何か。これは『臨済録』全部に現れた精神だと言える。
「動物本能的無分別より今一層深きもの」と言っている。浅い深いはともかく、当時の科学的知見からは、そんな言い方しかなかったのだろう。もう一つ、大拙を引用する。
以上をまとめてみると、何かがあって、それに到達するまでには、手のつけようもなく、難しいと言えば難しいが、一旦得るところがあると、いかにも無造作なもので、ただこれ無事平常底ということになる。理性または知性の分際にとどまる限りは、臨済のような自主自由性は獲得されないのである。それは動物の本能に似たものでなくてはならない。しかし、動物には自覚がない。臨済の示唆しているものには、本能のような自主性があって、しかも人間意識的自覚性があるのである。
10. 鈴木大拙の「超個己」
大拙は、臨済が真人と表現したものを、「超個己」と言っている。これを「超個の個」とか「超個の人」と書いても良い。超個己は自我を超えている、分別を超えている。また、「超個」の文字を冠するところに、仏心を超越的に見る気分が表れている。一方で、末尾に「己」「個」「人」などの文字を置いて、内在的観測を忘れずにいる。超個己は超越的で内在的なのだ。または、抽象的で具体的だとも言う。こう言うと矛盾しているようだが、超個己は、私たちの知性の立場から見れば、矛盾そのものを生きる奇妙ないきものなのである。実に、超個己は自我の輪郭の外れた境地なので、超越的に見ても内在的に見ても、結局は同じところに行き着くことになる。まずは、大拙の『日本的霊性』 から、「超個の人」の記述の見える文章を引用する。
感覚や感情も思慮分別も、元々霊性のはたらきに根ざしているが、霊性そのものに突き当たらない限りは、根なし草のようで、今日は此岸、明日は彼岸という浮動的生涯の外には出られない。これは個己の生活である。個己の源底にある超個の人に、まだお目通りが済んでいない。こう言うとはなはだ神秘的に響き、また物の外に心の世界を作り出すようにも考えられるが、ここに明らかな認識がないと困る。普通には、人々は個己の世界だけしか見ていない。全体主義とか何とかいっても、それはなお個己を離れていない。その束縛を完全に受けている。超個の人は、すでに超個であるから、個己の世界にはいない。それゆえ、人といってもそれは個己の上に動く人ではない。だからといって、万象を払ってそこに残る人でもない。こんな人はまだ個己の人である。超個の人はそんな不思議といえば不思議な一物である。他の宗教では「神の天啓」といって、人間理智の限りでなく、ただそのままに受け入れるべきであるという。宗教意識の受働性は、実に、ここに在るのである。
ここでは「超個の人」になっているが、引用文の冒頭で大拙は心理学的な分析をして、感覚や感情や知性といった精神活動はもともと霊性に根差していると言っている。なお、霊性は超個でもあるから、必ずしも個人の意志の思い通りにはならない。
もうひとつ注意したいのは、大拙の「超個己」は環境から独立した霊的主体を意味しないことだ。大拙は言葉にならない真理を言葉で表現するために、親切心からこの文字を使ってはいるが、超個己は「個に限定されない」ところに力点があり、「個を超える主体」を独立視するためのものではないのだ。それでも、「個に限定されない何かのハタラキ」は感じとられてしまうので、仕方なく「超個己」と呼んでいるのである。大拙が臨済録から「人」思想を抽出するのも、霊的主体を特定するためではない。むしろ、自身の禅経験中の観察と重なる部分を臨済録の中から感じ取って、「人思想」を再定義するのである。だが、そのように言語化してしまうと、「人」は直ちに概念化されてしまう。これは避けようがないのだ。一般的な「知性思想」は無矛盾指向で、言葉の一つ一つに意味を厳格に割り当てる。大拙の「霊性思想」は、一つ一つの言葉の精査を基本としながらも、むしろ、言葉と言葉の矛盾の中に、重畳的に、無礙的に、禅意識を表現しているように思う。
11. 親鸞聖人の「人」
大拙はまた、親鸞の一人を取り上げる。「超個」の文字が無い分だけ、「一人」は、いくぶん内在的に響くようだ。主客未分の霊性から見ると、超越も内在も結局は同じことだ。ただ、「超個己」が哲学的な響きを持つのに対して、「一人」という言葉では人間的な面が強調されて、生活を離れず、より具体的に聞こえるものと思う。
超個己の人 、この場合では弥陀の本願は、いつも、個己の霊性を通して自己肯定を行ずるものである。これが、「ひとえに親鸞一人がためなりけり」の体験である。「地獄へ行くもわれ一人、浄土へまいるもわれ一人」の宗教的意識である。「皮膚脱落してただ一真実のみあり」という、この一真実がすなわち一人なのである。この一人は大地によって象徴されるのが一番手近である。
もう一つ、大拙を引用する。
真宗的または浄土系的日本霊性と、禅的日本霊性との動きに、相異なった方向または方面を認めることができる。前者はいつも個己の方向に超個の人を見て、後者は超個の人の方向に個己を見るのである。それで臨済は、「一無位の真人」という。ここには知性的な響きがきこえる。真宗では「親鸞一人」又は「われ一人」と言い、個己の姿が現われている。ただし、禅の場合でも一棒一喝の上に個己を出現させている。また、真宗の方でも「南無阿弥陀仏のみぞ」というのである。
一人は内なる宗教意識の発現であり、この場合、日本的霊性は、人間意識の上に情性的に現れる霊性的直覚と言える。一人は、また、大悲そのものの揺らぎと言ってよい。超個己がある意味知的で禅的なのに対して、一人はいかにも情的で真宗的である。超個では、視点は大智に置かれている。これが、「一人」になると、力点は完全に大悲の還相上に移ってくるように思われる。この一人性は、真宗の行動原理である。元来、人間の行動は大悲に由来するものだが、そこに自覚がない場合には、仏という名の大悲は、知性という名の打算的分別によって無残に歪められてしまうことになる。
第三章 先行原意識と霊性
この章では、今後更に考察を進めたい課題について、雑談風にまとめてみたい。それは、主に、大拙先生のいう「霊性」や、ダマシオ先生のいう「非明示的知性」などとの関係についてである。
12. 霊性と意識
およそ宗教を支えているものは、聖なる存在か、偉大な存在、そのように見られている何者かの愛、仏教的には仏の大悲などと呼ばれる霊性のハタラキだと思う。しかし、「愛はどこからやって来るのか」と考え始めると、人間個々がその源だとは言い難い気がする。大悲の霊性については、ひとまずは、「ヒト型・先行原意識」上で動いているとだけ言っておこう。だが、大悲や愛と原意識とのかかわり方がよく解らない。本当を言えば「愛」とか「大悲」とかいうものを、対象的に切り出そうとするところに無理があると思う。一番の謎は、肉体を離れて、あるいは今生を離れて、霊界のようなものがあるのかということだ。簡単に「霊界論」としておく。この問題は、神通力を持つ霊能者にしか扱えないことになる。もう一つ、禅は体験だと言えば言うものの、宗教道徳とか、善悪の判定基準、倫理的問題、それとヒト型・先行原意識の関係も、もう少し思想的に整理が必要だと思う。
13. 因果のゆくえ
この話を更に進めていくと、因果の法に辿り着く。宗教的にカルマとか業と言われるものを信じる人であっても、それがどのような機構で運営されているのかについては、今のところ、スピリチュアリストたちによる断定的な説明か、仏教の経典を頼るしかない。その機構はともかく、筆者は、「先行原意識」が因果の法を仲介しているものと考えたい。すると、道徳的因果のようなものは、個人個人の先行原意識や、それを記号化した脳内の情報媒体の中に散りばめられているとも言える。だが、情報というものは、人体内部の媒体に閉ざされているものでなく、社会的記憶の中に広く継承されているとも考えられる。そうすると、因果は自然界全体の分散処理で運営されているという理屈にもなる。道徳的因果のメカニズムは、霊界を抜きにモデル化することは難しいだろう。これも、よく考えてみたい課題ではある。
14. 非明示的知性の活動
近頃、アントニオ・ダマシオ教授の「教養としての意識」を読んでいて、「明示的知性」「非明示的知性」という言葉を覚えた。明示的知性とは神経系が発達して表象機能を持った知性で、非明示的知性はそれ以前の神経系や細胞レベルの知性である。知性は、人間の神経系の内側に閉ざされたものではないのだ。鈴木大拙は、よく「知性の二分性」とか「東洋的・西洋的」などということを話題にしていたが、彼のいう「知性」は、大抵は、ダマシオ先生のいう「明示的知性」に相当するものと思う。そして、大拙のいう「霊性」の方は、ダマシオ先生の「非明示的知性」と、いくらか関係がありそうだ。
それから、西田幾多郎の「絶対矛盾的自己同一」とか、大拙の「即非の論理」は、「非明示的知性」のもつ「矛盾許容性」を表している。顕在意識が統一的かつ論理的に編み上げられるのに対して、霊性あるいは非明示的知性とは、それに先立つ、全身細胞による分散処理的な意識の総和なのかもしれない。そうして、人間の知性が全体として十分に機能するためには、非明示的知性は何らかの方法で、明示的知性の編み出した結論や行動プログラムを受け入れる必要があるだろう。つまり、明示的と非明示的と二系統あるように見えるが、それらは結局のところ、分かれていて分かれていない、精神と物質の「全体作用」なのである。
15. 超個の人生物語
人間は、顕在意識の中に虚構の「人生物語」を書き上げて、それを辿るように生きている。悟りの意識の特徴に、受動性を挙げることはできると思う。ただし、顕在意識の果たす役割はもっと複雑で、行為に先立つ顕在意識の能動的なハタラキもあると思う。能動か受動か、一方に割り切れるものではない。受動意識仮説に一理あるものとしても、行動の直前に顕在意識が介入できるものかどうかについては、もっと精密な調査が必要になるだろう。とくに、言語レベルの顕在意識の価値は否定できない。この監視機能により、言語意識は生物組織や DNA の進化以上の柔軟性を持つようになったのである。それは、個々人の生体内にとどまらず、生物界や地球環境を包みこんで発展し続けている。
さて、行動は先行原意識が主導するものだとしても、人生の大きな脚本を描くものは誰かという問題が残る。これこそが顕在意識の役割ではないかとも思われる。あるいは脳内のどこか特定の領域が、人生物語をモニターしていて、大きな脚本を描くという考えもあるだろう。そのような領域が見つかれば、それこそが意識の座だということになる。ところが、伝統的な宗教は、むしろこの自力を否定する。神をもつ宗教では、人々の人生物語の脚本は神が描くと考えることが多い。仏教なら因果が描くのであるし、大乗仏教の場合は大日如来や阿弥陀如来が描くとも考えられる。意識が身体組織に起因するものであったとしても、人生物語の脚本は、個人の体内の条件のみから編集されるものではないだろう。自分の考えの中には、自分の考えでないものが多分に入り込んでいるわけだ。そこに、神仏やカルマが語られる隙間があるように思う。
16. 言葉には収まらないもの
禅宗だけでなく、仏教は始めから「言語道断」で、究極の真理は言葉では語り尽くせないということになっている。では、言葉で尽くせないものは、何によって尽くされ得るのか。本論で取り上げた「人」とか「一人」とか「超個己」あるいは「霊性的自覚」なるものは、脳神経系の仕組みの中で見ると、具体的にどの辺りの神経で、どのように運営されているのか。いくら言語道断でも、ヒト型の意識である以上は、まずは言語野との関係をある程度理解したい。更には、先行原意識は個人の脳神経系内に納まりきれるのか。個々人の脳神経系の他に、集団的原意識のようなハタラキが、時空のどこかに動いている可能性はあるのか。あるとすれば、それはどこにあるのか。最近のAIの大規模言語モデルも示唆を与えてくれる。このように、意識の所在についての謎は、まだまだ尽きないようだ。
参考に、鈴木大拙の見解を以下に引用してみる。ここに出てくる四大というのは、万物の構成要素としての地・水・火・風を意味する。これは、現代的には物質性を意味する。
至道無難禅師は、「臨済の、言うことを聞くもの」と題して、一首を作っている。
耳もきかず、心もきかず、身もきかず、
きくもののきくを、それと知るべし。
耳がきくとか、神経がきくとか、脳細胞がきくとか、心がきくとか言うのは、いずれも知性面での話である。科学者はこの四大和合体をどのように解剖してみても、その中に、「これ」または「それ」と言って、聞くものを見つけるわけにいかないのである。霊性的自覚の事実があるので、始めて「きくもののきくを、それと知るべし」と言えるわけである。ここには、知性的分別面における経験のように、これと特定して抽出して示すべきものはない。知性的にはいかにもとりとめのない「きくもののきく」というより外に言い表す方法が見当たらない。これでは始めから「聞くものは誰か」と問う意味がないのである。その答えは霊性的自覚を待つより外ないのである。知性の発する問いは、それ故に、もともと霊性から出て来たのだと言えるわけである。浄土系思想では、これを他力のハタラキ、本願の機能だというのである。
さて、「意識とは何か」という最終問題について、脳内のニューラルネットワーク上に描かれる六識の表象・イメージこそが意識の内容なのだと説明するにしても、そのような考え方では、その表象を見るものは誰かという問題が常に残されることになる。どこまでいっても、二分性の問題を切り終われない。意識を、メンタルスクリーンとそれを見ている自己という二元的構造の中で捉えようとすれば、この二分性は再統合の機会を失うのだ。いわゆるクオリアの問題は、それが脳神経系の活動に収まるにしても、収まらないにしても、「心的表象自体が生きて動いている」、「それがそれ自体を見ている」という無我の自覚に至らないことには解決はつかないだろう。本質的に対象的二分性を基礎とする明示的知性にとっては、意識は、洞察の彼方の問題なのである。そうはいっても、クオリアを一元的覚として説明しようとしているものもまた、顕在意識下の明示的知性に他ならないのだ。知性はAIの援けも借りて、今後、ますます精密に自己と世界を表現するようになるだろう。だが、明示的知性の役割はシミュレーションまでであり、実感を生み出すものは先行原意識なのである。先行原意識を体験的に感受し終えた人は、もう、「知性でクオリアを探す必要はないのだ」と、気づくことになるだろう。
おわりに
本論で、悟りの人や、あらゆる道の達人たちの瞬時の観察・判断・行動は「先行原意識」によるものだということを、だいたい説明できたと思う。
第一章の最後に、人間の行動プログラムの修正は明示的知性の役割だと書いたが、この明示的知性というやつは、本質的に論理の罠から抜け出せない。論理の罠というのは対立・闘争のことだ。これとは対照的に、自然界には非明示的知性による生物種の戦いがあるが、こちらは、ある意味では自然界の調和の範囲内だ。人間の話に戻って、明示的知性が人間集団間にもたらす闘争のことを考えると、ここに、克服すべき「人知の欠陥」を見ざるを得ないと思う。この欠陥を修正するものは、人知の論理を破り得る「柔軟な理性」だと思うのだ。そして、この「論理性を超えて現実を本当に知り尽くし得るもの」を、本論では、「ヒト型・先行原意識」という名で提案させて頂いた。
それから、現代において、悟りを説明するためには「意識」の考察は外せない。実際、筆者も本論の着想を得たとき最初に思いついたのは「先行意識」という造語だった。しかし、これだけではやはり流動的で捉えにくいので、もっと直接に、主体的な人間格としてのまとまりが欲しいと思い、「原」の文字を加えた次第なのだ。「原意識」という一句で、悟りの意識を人間格として、現代的に表現したいという思いがあった。
鈴木大拙は、「進化は人間に至って一変した」という。その進化は、知性に基づくものだが、知性は現実を否定する。これに対して、大拙は霊性を説くのである。毎日を仕事や趣味に追われ、目標管理の知性を軸に生きてゆくときには、先行原意識がもたらす心の平安は見落とされがちになる。世界に平和をもたらすものは、「超個己の人生物語」を生み出す先行原意識なのだと思う。人類はいつまでも、動物性の支配欲と闘争本能にのみ生きていてはいけない。しかし、こんな風に、いくら意識のありようを思想しても、何も終わりはしないのだ。人類物語の未来は、人間格の霊性的自覚として体験されなくてはならない。
それはそれとして、仏教や禅はいつまでも古典のままにしておいてはいけないと思う。それで、禅経験、禅意識、禅思想、禅行為などを、すべて「ヒト型・先行原意識」で説明してみたいというのが、筆者の現在の目標である。
2024年8月 Aki Z
a 『臨済の基本思想』 鈴木大拙著、昭和24年11月 中央公論 初版発行
b 『日本的霊性』 鈴木大拙著、昭和21年3月 大東出版 再版発行