「不生の気づき」 筆者の禅経験~ 動くものが見るもの、見るものが動くもの
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2024.11.22 更新
どっかにやってしまったと思っていた、2022年8月の気づきの手記が出てきたので、ここに並べてみます。これは、見性経験ではありません。その手前の「気づき」と呼ぶべきものと思いますが、禅を大切に思っている人たちには、何かの参考にはなるかもしれません。
筆者は当時、北鎌倉の円覚寺から徒歩15分の場所に部屋を借り、テレワークで会社勤めをしながら、独学で修禅をつづけていました。
その中で、盤珪禅師の言葉の「ただ、30日間、不生でいてごらん」という言葉に出会いました。30日ならやれるかなっと思い、不生の修行、つまり、「血で血を洗うように、念で念を煩わない」ように生活することに挑戦していたのです。不生の実践を開始したのは、2022.6.26だったようです。
要は、いわゆる雑念の中に長時間さまようことのないように、24時間、寝ているときと、仕事をしているとき以外、生活の中で、後続念が自然消滅するままに静まるように、注意するようにしていました。
また、仕事中であっても、仕事に必要のない思考は、できるだけ消えていくように、気をつけていたわけです。
これが、ちょっとした、最初の気づきになりました。私の記憶の中では、不生の 30日トライアルを実施していたのは、ほんの 2~3週間だったように思っていたのですが、上記の記録を見ると、2か月以上頑張っていたことになります。
もちろん、集中して「不生の行」が継続できたわけもなく、うまくいかないことが多かったように思います。それでも、ほそぼそと、あるいは一所懸命に、まじめに、不生でいようと思いながら、生活してはいたわけです。
気づきの体験の日にちがハッキリしないなぁと思っていましたが、たぶん、体験の一週間くらいのちに、思い出しながら、上記のメモを残したものと思います。
相変わらず、うだうだと、アマチュア哲学者の仕事(笑)も続けていましたね。
これ、ちょっとハイになってるようなメモです。これを見つけて、ああ、そういえば、そんなことだったかなあ、と想うのみで。
最初の 2022.8.12ごろの体験が、朝起きぬけのまどろみの中であったものと記憶していましたが、それは 8.23 頃のこの体験と、ごっちゃに記憶していたもののようです。
それ以来、このメモにあるように、「世界と自分の境界が、ずっと消えている」かというと、そうではありません。
以前と同じで、自分は自分、他人は他人ですが、そういう日常的な観察とは別に、どこか、意識の隅っこで、自他の二分性というものは顕在意識の中、記憶の中だけのものだと、理解できるようになったというだけです。
大拙講座というのは、毎年、松が岡東慶寺の裏山にある松が岡文庫で開催されていて、年間で 6回にまたがり、毎回異なる講師が鈴木大拙について話をしてくれるものです。このときは、2度目(2年目)の参加であったと思います。
北鎌倉に住んだのは、円覚寺の早朝座禅に参加したかったから、あとは、この大拙講座に参加しやすくするためでした。
不生の修行を頭の片隅で意識しながらも、哲学的な思索は、しつこく、頭から離れませんでした。
でも、8月のわずかな気づきによって、鈴木大拙の言葉も、禅の言葉も、問題なく受け入れられるようにはなっていました。
このブログにある「意識の原点」は、 2023年の春、北鎌倉に住んでいたころに、この気づきを元に執筆した論考を、落選後、さらに遂行を重ねたものです。もうひとつの「ヒト型・先行原意識」は、2024年夏の論考が元です。
これらは、暁烏敏賞への応募のために執筆したものです。他の人に読んでほしい気持ちもありましたが、むしろ、自分の思索の整理のために続けていたものです。足掛け10年ほど、主として鈴木大拙の即非の論理をテーマとして、飽きもせず、毎年書き続けていました。
でも、2024.10.17に、井上哲玄老師のオンライン禅会に参加してみると、哲玄老師こそがその答えであることが分かりました。老師が答えのカギをくれたというのではありません。老師自身が答えだったのです。
哲玄老師にお会いして、すぐに分かりました。老師は、私のアマチュア哲学の答え合わせでした。これは、ほとんどカンニングです。目の前に突然、正解が湧いてでたのですから。
今、思うことは、そのようなアマチュア哲学の成果は捨ててしまって差し支えないということです。
どれほど上手にモデル化できたとしても、知性の打ち出したものは全部ダメです。頭で探ることを、キッパリあきらめることです。わずかに是非があれば、たちどころに真実を失います、
とはいえ、まあ、もったいないので取ってはおきますが。この10月に、岩城居士の大恩があって、大悟徹底の正師に出会える幸運に恵まれことで、思考によるモデル化など、必要なかったことがハッキリわかりました。
暁山禅師、こと井上哲玄老師は、日本で正法を伝える、絶滅危惧種の本物の禅匠です。まずは、座らないオンライン禅会がありますので、現在91才の老師がご存命のうちに、必ず、禅会に参加することをおススメします。
2024.11.22 Aki Z
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以下は、上記の手記再発見まえに、記憶をたどって書いたものですが、参考として残しておきます。
2024.11.5 更新 (2022年8月の体験談です)
「見るものが見られるもの」、これは何度も聞かされていて、あれこれ想像してきた言葉です。2022年の 8月に、盤珪-大拙の不生思想について小論文を書いていて、(おそらくちょっとウトウトしているときに、)ふと、「動くものが見るもの、見るものが動くもの」を体感しました。確か、エアコンの音が聞こえていたようです。エアコンを視界に置きながら、自分がここに居て、向こうのエアコンの音を聞いているのではなくて、向こうのエアコンの音が自分自身でした。鳥の声も聞こえていたようですが、鳥の声を離れた自分はいませんでした。
私はよく、朝方起き抜けに、あるいは散歩をしているときに、何か良い文章表現などを思いつくと忘れないうちにメモをとるのですが、このときはメモもとらずに、ちょっといい気分の中で、早朝のセミの声を聞きながら、円覚寺から建長寺のあたりまで散歩に出かけてしまいました。それで、このときの経験は印象的ではありましたが、そのとき自分は坐禅をしていたのか、横になってうとうとしていたのか、よく覚えていないのです。今から思い出してみると、このときの気づきはアイデアではなかったので、文字にはできなかったのだろうと思います。
これは、「ふと、それを観た」としか言いようのない体験です。ヨガの瞑想や座禅をしているとスっと身体が軽く澄んでくる感じがありますよね。でも、それとは違います。静かになった自分の身体を眺めている自我中心は無く、いわば主客未分の相を直観したようでした。言葉で表現することは難しいですが、たぶん「現前覚」と呼ぶのが良いと思います。現前覚には身体も心も、精神も物質も入ってしまいます。また、それは思考の外にあります。対象的に捉えた概念ではなくて、生の五感というか、普通の意識とも違うので体感と言うしかありません。
禅経験の入り口を垣間見た気がします。私はこれまで不安の多い人間でしたが、これまで抱えてきた不安は分別上の思念に過ぎないことがハッキリ分かりました。現前意識の中には分別がない、直覚しかない、思考の逡巡がないのです。思考がないところには苦悩はありません。それで、問題は一挙に解消してしまいました。ただ、私のは知的な理解の域を出ていない気もします。主客未分というこれまで教わってきた型にハマっただけなのかもしれません。
それでも、迷いや疑いの念は、知性の上での引っ掛かりは、その時は、スッと解けてしまったように感じられたのです。これは、ある種の勘違いなのかも知れませんが、消えてしまったものは消えてしまったのです。もしかすると、一時的なものかもしれません。
また、この経験の後、鈴木大拙の著書の解説は以前よりスッキリと理解できるようになりました。他の人の書いた大拙思想解説の間違いにも気づけるようになりました。禅意識が何を指すのかが明確になって、大拙 WORLD の端っこにちょこっと齧りつけた感じです。でも、そのちょこっとが決定的でした。33年間大拙を読み続けて10年ほど前からはいくつかのブログに記事を UP してきましたが、すべて間違いだと分かりました。それらは頭で考えて再構築した理屈に過ぎないことがハッキリ自覚できたのです。それで、小さな記事も小論文も含めて、すべての記事を削除したくなりました。昔の文書は肝心なところがつかめていなくて、読んでられない気がしたのです。それで、以前のブログ「パンプキンの非生哲学」(別サイトです)も 169件の記事を一旦全部消しました。
知性の生みだした自我を忘れて主客の二分性を離れると、動くものが見るものでした。盤珪禅師はこれを「不生」と呼んだのだと思います。盤珪はどこで説法するときも「気癖や身びいきで念を起こさずに、不生のままでいなさい」と指導しました。そして、「まずは、30日間不生でいてごらん」といいます。私の経験も、その30日間のトライアルの中での出来事でした。不生の場から自分の心を眺めると、時空間認識にしても、思想にしても、知情意を巻き込んだ高位の心理的機能は仮想であることに気づきます。思念を外して見れば、生五感だけが実相だったのです。今の私には、情意や思考はまだ沢山残ってはいますが、「現前の実動」を体験する前ほどには、支配的ではなくなってしまったようです。
そんなことで、ここのところ、少し心が浮ついて、いい気になっていたのですが、半月ほどすると、自分の心の中にはまだ身びいきが沢山潜んでいることに気がつきました。つまりは、不徹底なのだと思います。身贔屓のシラミとりには時間が掛かりそうです。たぶん、説明じみた理解では認識に使われてしまうだけです。そのままに聞いて、そのままに見る。そのように、生き方の方向性をあらためました。あと三十年は不生に参じようと。盤珪と大拙のご指導に感謝しつつ、ただ今の一念を空しく過ごさぬように生活していきたいと思います。
2022.10.29 覚書 Aki Z
2024.11.5
この体験談を書いたときには「現前意識」という言葉を使っていましたが、その後「意識の原点」と題した文書をまとめたときに「現前意識」と「現前覚」とに、表現を整理しています。それに従うと、このときの体験は自我の無い一元的な自覚ですので、「現前意識」より「現前覚」という言葉の方がピッタリきます。そこで、ここの表現を「現前覚」に修正しています。その他にも、2024.11現在の見地から、2022.10.29 の記述の細かい表現を修正しています。