暁山禅における、「認識」の意味の考察
2025.1.16 更新
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暁山禅師の法話の中に「認識」という言葉が出て来ますが、正しく理解するためには、少し注意が必要だと思います。まず、一例を挙げます。
哲玄老師の法話では、「認識」という言葉は、眼、耳、鼻、舌、身、意という六根の直覚そのものではなくて、それに続く「良し悪し」や「好き嫌い」など、何らかの判断や考えの動いたところを指しているようです。
これに対して、現代における一般的な言葉の意味からすれば、眼で見る、耳で聞くなどの五感あるいは六根のハタラキも「認識」に当たると思います。
ざっくり言えば、暁山禅師が認識というときには、六根の直覚は含まないものと理解した方が良さそうです。
ここを筆者なりにもう一度整理し直すと、最初に六根の直覚があります。でも、暁山禅ではこれを、「自分が何ものかを対象的に観察した認識」という具合には捉えていません。
暁山禅では、六根のハタラキは「自活動」であって、「認識」ではないわけです。六根の活動の真ん中には、自我という観察中心は存在していません。
自我は、現実から0.5秒ほど遅れて見出されるもので、脳内で作り出された仮在にすぎません。すなわち、自我は比較と思考の産物で、記憶の中にのみ存在するものです。
一方、「自活動」は、自分と他人が分れる前の直覚です。これは、暁山禅では「認識」ではなくて「活動そのもの」なのです。
ここで、暁山禅と一般表現の間に、大きな言葉のズレが生じます。
この活動は誰のものかという疑問が出てきますね。でもこれは、「私の活動」でも、「宇宙の活動」でもありません。老師は「公」と表現することもありますが、詳しく聞いていくと「公のもの」でもありません。
この活動そのものに、主催者はいません。これを老師は「コノモノ」と呼びます。
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一般的な意味での認識と、禅における自他未分の「一元性の自活動」の違いが判ると、暁山禅師のいう「このもの」の意味が、明確になるのではないかと思います。
そういう理解の上に立って、暁山禅師の以下の説明を、読んでみて頂きたいと思います。
これとても、説明は理屈に過ぎません。特に、テキスト化されたものは、「単なる説明」と理解される傾向が強まります。
正しく暁山禅を修得したい方は、暁山禅師のオンライン禅会に参加して、ご自身でご確認頂きたいと思います。
2024.12.31 Aki Z