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暁山禅における、「認識」の意味の考察

2025.1.16 更新

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 暁山禅師の法話の中に「認識」という言葉が出て来ますが、正しく理解するためには、少し注意が必要だと思います。まず、一例を挙げます。

 これを「私」と思っていたけれども、これ自体に、「私なんていうような考え方」は、くっついて生きてない。「考え方」の中で、これを「私」って認識しているんですよ。「考え方」の世界の話ですよ。実物はどうなのかって言ったら、実物は「私」なんてものは、影も形もない。どっこにも。

 「私」って認識するから、コノモノの存在があるわけじゃないし、認識したってしなくたって、コノモノはちゃんと、厳然としてハッキリあるじゃないですか。何も問題ないじゃないですか。認識しなければ私でないなんて、そんなことはない。そういうところに、「私」という思いも、人間の「考え方」の中で構築されたものだってことですよ。思いの中で造られた概念です。思い込みです。そういうものも、どっこにもないということを知らないとダメですよ。

暁山禅師 核心の説法「コノモノ」2018年9月24日(テキスト版)

 哲玄老師の法話では、「認識」という言葉は、眼、耳、鼻、舌、身、意という六根ろっこんの直覚そのものではなくて、それに続く「良し悪し」や「好き嫌い」など、何らかの判断や考えの動いたところを指しているようです。

 これに対して、現代における一般的な言葉の意味からすれば、眼で見る、耳で聞くなどの五感あるいは六根のハタラキも「認識」に当たると思います。

 ざっくり言えば、暁山禅師が認識というときには、六根の直覚は含まないものと理解した方が良さそうです。

 ここを筆者なりにもう一度整理し直すと、最初に六根の直覚があります。でも、暁山禅ではこれを、「自分が何ものかを対象的に観察した認識」という具合には捉えていません。

 暁山禅では、六根のハタラキは「自活動」であって、「認識」ではないわけです。六根の活動の真ん中には、自我という観察中心は存在していません。

 自我は、現実から0.5秒ほど遅れて見出されるもので、脳内で作り出された仮在にすぎません。すなわち、自我は比較と思考の産物で、記憶の中にのみ存在するものです。

 一方、「自活動」は、自分と他人が分れる前の直覚です。これは、暁山禅では「認識」ではなくて「活動そのもの」なのです。

 ここで、暁山禅と一般表現の間に、大きな言葉のズレが生じます。

 この活動は誰のものかという疑問が出てきますね。でもこれは、「私の活動」でも、「宇宙の活動」でもありません。老師は「おおやけ」と表現することもありますが、詳しく聞いていくと「おおやけのもの」でもありません。

 この活動そのものに、主催者はいません。これを老師は「コノモノ」と呼びます。

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 一般的な意味での認識と、禅における自他未分の「一元性の自活動」の違いが判ると、暁山禅師のいう「このもの」の意味が、明確になるのではないかと思います。

 そういう理解の上に立って、暁山禅師の以下の説明を、読んでみて頂きたいと思います。


 いきなり、いいですか、(パシッ!)この音と、時間的にも距離的にも、一切そういうことがないようになってる、いきなり(パシッ!)バシッという音に触れたら、私たちはバシッという活動です、そういう活動をするんじゃないんですか。もう少しわかりやすくいえば、聞こえるんじゃないですか。

 音がしたら必ず、そのとおりに聞こえるようになってる。(パシッ!)聞こえる方が先なんですよ、聞こえた後で、そうなっているのか、なっていないのかって、観察が始まるんです。最初の間は、だから、しっかり自分のことを観察していただかないと、どうなっているのかわからないんで、それはしっかり観察して欲しい。

 だから、人のことを観察するんじゃないですよ。自分のことですよ。自分自身のことはどうなっているのかということを、自分でしっかり知っていただくってこと。

暁山禅師 提唱 「坐禅の要訣・幸せな生活」2019年5月26日(テキスト版)


 これとても、説明は理屈に過ぎません。特に、テキスト化されたものは、「単なる説明」と理解される傾向が強まります。

 正しく暁山禅を修得したい方は、暁山禅師のオンライン禅会に参加して、ご自身でご確認頂きたいと思います。

2024.12.31 Aki Z



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