暁山禅師 提唱 「涅槃経の偈(雪山偈)・三法印」 2018年2月18日 浜松禅会」(テキスト版)
2025.1.27 更新
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暁山禅師の 2018年2月18日 の YouTube 動画 "『涅槃経の偈(雪山偈)・三法印 提唱』 浜松禅会 " を文字に起こしました。
なお、この下の目次とテキスト中に示した "時間 + 小見出し" は、筆者が便宜上追記したものです。よく聞き取れない部分には推定で文字を当て、また、全体に、理解し易いように文章を調えています。
0:01 浜松禅会 【最終回】
お寒いところ、どうもありがとうございます。浜松禅会と名付けたこの会は、本日が最終です。というのは、この小倉ホールが今月いっぱいで閉鎖になって、自動的に終了ということになります。そういう大事な会なので。
この浜松禅会と名付けるものが発足したのは、3年ほど前なんです。東京のヨシカイコウドウっていう方が、半田山のお寺の近くの団地に一軒を借りて、毎週金曜日、禅会を開いて、そこで約 2年あまり。その後、この会場に移して何回ぐらいになりますか、1年余りですね。
それで、今申し上げたような状況になって、今日が最終というものです。
1:24 涅槃経(雪山偈)と三法印、諸行無常
それで、今日(お話しするの)は涅槃経の中の偈で、通常は雪山偈とも言われています。
なぜ、涅槃経の中からちょっと持ち出してきたかと言いますと、この2月15日はどういう日かご存知ですか? お釈迦様の亡くなられたご命日です。
仏教徒であれば、お釈迦様の誕生日の4月8日、それから12月8日の悟りを開かれた日、それからこの、2月15日の涅槃会といえば、 仏教徒として忘れてはならない三大法要です。
それが、15日に済んだところなので、今日、特にこれを題材にしようと思っております。
通常、涅槃というと、この2月15日の場合は、お釈迦様が亡くなられたことを涅槃と呼んでおります。だからそういう意味では、人(仏)が亡くなるという意味になるんですが。
もう一つは、涅槃というのはここにもありますが、涅槃寂静というように、人が、迷いの世界からキレイに離れている自分の実体を知って、大安楽な人になるというのが、もう一つの意味の涅槃、両方持っています。
そういうことから、この涅槃経の語の、
諸行無常というのは、生滅の法の様子です。
というこれが、涅槃経の偈です。
このほかにもう一つ、三法印といって、辞書を引くと、こちらもそうですけれども、仏教の根本思想を、この四句で示したり、三句で示すというように言われていますけれども、もともと、お釈迦様が説かれたものは、教えでも思想でもありません。
辞書を引いても、「根本思想」ということ自体、もう、間違ってますよね。
お釈迦様の説かれたものは、「思想」ではありません。
後の人が研究の材料としたときに、思想とか、説とか、教えとかというようにして伝えてきているので、その辺も知っておいて欲しいんですが。
一応、辞書では、仏教の根本思想を簡潔に、この四句ないし三句で言い表しているというふうになっています。
(涅槃経では)諸行、諸の行は、(三法印)は「一切の行は」となっています。三法印で一切ということも、涅槃経で諸ということも、言葉を聞くと何かこう、数があるように思うじゃないですか。
「行」は、諸ってたくさん有るようでしょう。一切と言っても、いろいろあるような。そこを、よく見てほしいんです。
諸行と言われるものは、そんなに数があると思います? それは、私ども人間というものの「この生き様」です。
人はどこで生きているかというと、過去で生きているわけではありません。未来で生きるわけでもないです。当然、今です。
ただし、今といっても、時間のどこかに線を引いて、ここだというような「今」は、まったくありません。
しかし間違いなく、今に生きていることだけは、正真正銘、間違いないことです。その「今」の様子を見るときに、
この「諸」とか「一切」というところ、 そういう言葉に、よく引っかかるんです。
7:01 一切衆生悉有仏性
私どもも、若かりし頃、仏性というものは全てのものにある。どれにも仏性があるから、ものを大事にしろ、というようなことを、聞かされていました。
だから、あれにも仏性があれば、これにも仏性がある。人を見れば、この方にも仏性があるし、この方にも仏性がある。
でも、そういうふうな受け取り方には、大きな間違いがある。場合によると、そういう認め方をして説いていらっしゃる方もあるんですが、そういうことではなくて、
(自身の顔の周りをぐるりと指して)この生き様を見ると、「諸」とか「一切」って、「今」のことなんです。
いつも、私はこう、(コツンと白板を叩いて)音でこうやって、この触れて「ポン」という時にですね、皆さんどこで生きてるかっていったら、この音と同時活動で、ポンっていう働きですよと言うんです。
それを、モロモロと言ったり、イッサイと言ったんです。数の話じゃないです。今の様子のことを、こう表現しているので。こういう言葉に引っかからないように、しないといけません。
「諸」とか、「一切」とか、どこをとっても、みんな、今の様子です。生きている、その「生き様」は、生涯それだけです。
8:50 阿含経、一切とは
で、そのおこないの様子、(自身の顔の周りをぐるりと指して)コノモノが、この間も、これ話したんですけど、お釈迦様の「阿含経」の中に、「一切と言うは」、というようなことで、見出しがあるものがあります。
一切は、「一切」とはどういうことかというと、眼とモノ、モノというのは「見える様子」ですよ。このいろんな、現れる、そのことをモノといってます。
眼とモノ、耳と声、鼻と香り、舌と味、身と触覚、触ですから触れる、で、そこまでが五感です。
そして、六感というと、「意」というものがあります。意と法、と書かれています。
そのいちいちを「一切」と言うんであって、並べての一切じゃない。これを一切と言う。その他には何もないんだ、と仰っています。
他人の話じゃないですよ。「私たちの生き様」を見たらそうでしょう。
今、私の声が、声の通りに聞こえながらですよ、声が切れると音声が無くなる。次をしゃべり始めると、その音の様子です。
そうなってるでしょう。聞いてると。片っ端から聞こえながら、片っ端から消えていってんじゃないですか。
これちょっと(解りやすくするために)道理を説いているんでね、だから、自分のことだから、よく見てほしいんです。
「今の聞こえている音」しか無いっていうことですよ。そういう風になっているでしょ。
その他に、人間の生きている真実の様子とか、いろいろ言うけれど、その他には何もないんですよ。
11:36 無常、つかめる対象なし
2500年伝わってきている間に、いろんなことが、数多くの人の体験やら、いろいろなことが述べられていますので、言葉を拾い出し始めると、難しいことばっかり出てくると思います。
そういう方々の説かれている内容をみても、今申し上げている一点のことだけなんですよ、その様子は。
皆さん「無常」っていう言葉を聞くと、人が亡くなった時の様子を、代表して「無常」っていうものと、ほとんどの方は記憶していると思うんです。
だけど、字を見ていただくと分かる。「常なし」と書いてある。一つも、ここだと言って留まっているようなところは、一切ないんです。
縁に触れて千変万化しているその様子で、一つも、「こうだ」と言って、とどめておくことができない。それほど私たちは、無常の真っただ中に 生きてるんですよ。
諸行は無常なり。これ生滅の法なり。そうでしょう。
こうやってやって、(バシッ)、これで音が生まれたんです。同時に、跡形もない。
生滅の中に身を置いてるんですよ。
法っていうのは法則、もう抜き差しならない、そうしかありえない様子のことを「法」と言っている。その「法」が、この私どもの生き様だっていうんです。
これがはっきりすると、 生滅、、、これ読み方いろいろあるんです、生滅、滅しおわってというような読み方にもなっています。
だけど(正しくは)、「生滅、すでに滅し」ですからね。これから滅するんじゃないっていう中身です。
このことがよくわかったら、対象ではないんですよ。生まれるとか 死ぬとか、対象でないということ。対象がすでに滅し終わっている。
自分のことだから。よく見ないと分かりません。人の話聞いててもわかりません。自分のことだから。対象なのかどうなのかっていうこと。
(バシッ)こうやって音がしたって、さっき申し上げたように、対象としてつかんで、生まれるとか滅するとかって言ってますけれども。同時活動なんで、対象としてものがあるんじゃないんですよ。
例えばね、こうやって扇子を広げますと、こうやって広げていったら、広げていった様子になるんです。間違いなく。
さっきの様子と、今の様子って、対象じゃないですよ。ただ、今の様子だけですよ、常に。対象は一切ないんです。
15:37 寂滅を楽となす、無我ということ
対象がないことがはっきりするとですよ、そうすると、本当に、寂滅、楽となすという。
対象として(自分と)モノとを二つにみてどうこうっていうことから、すっかり離れている。
この身が生まれたときからの、その様子が本当にわかるので、それで、人は心底救われて、楽になるってこと。まずは、ここのところがはっきりしないと。
例えばですね、ずっと自我があると認識している人が、自我が無いと言われても、どうしても、自我はあるんだと思い込んでいます。
でも、その有るものが無くならないとダメだと思っている人は、「自我はどうやって無くしたらいいんだ」、という取り組みをします。
自我がなくなったら楽になる、救われるんだというように、そういう段階を踏んでいって、そういうところに行くんだと思っているから。
でも、段階は一切ありません。いきなり救われるんですよ。いきなり。徐々に、ボツボツというようなことじゃないです。
どのように「いきなり」かって言うと、もう、(バシッ)、こういうふうに、いきなり、救われている自分にお目にかかれる。
(これがわからないと、)『どういうことだろう』って、頭の方が回転し始める。
17:58 理解以前、どうしようもない現実
完全にこの、、、(バシッ)これには何の理屈も、道理もないんですよ。自分のこと見てごらん、どこにもそんな理屈はついていません。
(外から何か音が聞こえてきて、)こうやって、カタカタっていったら、いきなりそうでしょう。静かなときと音がしていると比べるのは、人の考え方ですよ。
こうやっててもほら、今、コトッコトッといっている。音がいくつもっていって、そんなことはないですよ。コトッと言った時には、その音だけですよ。
ほら、連続して、また、コトコトコトッて言っているけど。その様子を見ても、対象ではまったくないです。
そういうところを見ると、「私がわかりました」とか、「私が理解できました」とかいう話ではないということ。ガタッというときには、ガタッという音だけですよ。
聞いてる私がいるなんてことは、後から話を、「誰が」って聞かれた時には「私が」って言うかもしれません。だけど、その時に、聞いてる私とか、、、それを、自分で確認してほしいです。
聞いてる自分がいるような生き様をしているのか、そうでなく、縁に触れて活動をする、眼とモノ、耳と音、鼻と匂い、、、
鼻と匂いと二つあるわけじゃないですよ。
匂いがするときには、そのにおいだけですよ。私が匂っているなんていうのは、後からの説明ですから、そっちのことじゃないですよ。直接触れているときに、どうなっているかってことを、知ってほしいんです。
そうすると、少なからずこういう話を聞いて、理解ができたりしているけれども、理解でなく、自分が納得したようなんだけれども、納得したことでもない在りようっていうのが、日常生活の中で、必ずそこを抜きにしては成り立ってないんですからね。
どこかで触れたときに、ハッっていうことがあるんですよ。このことだった。このことを言っていたのかっていうぐらい、明確なんですよそこは 。
そういうことに触れて、人が理解したことでもない、知って記憶をしてたようなことでもない、本当に、今触れている在り方というものに、自分が気づくんです。
まずは、それに気づくようになると、ここで言っているようなことが一気に分かるようになるんです。何を言ってるかもすぐ。
22:03 疑いようのない無我の働き
こっちの三法印も、中身は同じですからね。これ、伝えられてきたお経の中で、一番古いものの中には、これは、諸行になってないんですね。一切行になっている。
こっちも一切法になっている。一切法。それを、どちらでもいいんですけども、伝えられてきた中で、古いものの方が正しいという言い方はアレかもしれませんけれども、仏さまが説かれたものに一番近いものじゃないかと思います。
ここは、一切法無我になっている。今申し上げたように、無我というのは、どの活動にしても、見えるという活動にしても、匂うという活動、味という働き、体のこの寒暖にしろ、それに触覚にしても(無我です。)
それからもう一つ、意というのは、そういう五感を通して働いていることが、全くわからないんじゃない。それがわかる働きですから、認識できる働きを人は持っています。
そういうのと同時に、今までの経験がどこに蓄えられているか、記憶がどこにあるのかわかりませんけれども、縁によっていろんなことをフッと思える。
「私が」そんなことを思ったんじゃないんですよ。私が、、、私なんか全くないところで、フッとそういうことが動く。
そういったことを、どこを見ても無我です。私らしいものがどこにも存在していない自分がわかると、もともと自我がないことは、自分で明確になるわけです。
そうでないと、そう教えられたから、そう信じてるっていうことですよ。信じるっていうのは、なかなか信じきれないんじゃないですか。本当に信じるっていうのは、疑いがまったく出てこないっていうことです。
だって、疑い、全くない生活してますよ。こうやって、お茶出されても、お菓子だされてもね。疑いだしたら、これ、きりないんですよ。
これ、毒入ってんじゃないかなんて、疑いだしたらお茶飲めませんよ。家帰ったってご飯食べられませんよ。食堂にも行けない。
不思議でしょう。何も疑わないでしょう。こんなこと疑ってたらおかしいでしょう。そのぐらい、疑うようなことがどこにも出てこないこと、それが本当の信でしょ。
そうやって生きてるんじゃないですか。もともとは。だけど、自分の中で問題があると、疑いを起こすようになるんでしょう。
いつ殺されるのかわからんなんていうようなことが、日常生活の中であるとね。食べるもの一つだって、ひょっとしてなんて。それは、 哀れなことですよね。そんな生活は。
ところがもう、ほとんどそんなことなくて、みんな普通に生きてます。そのぐらい、信じられたらいいですよ。信じておく必要がないほど。
そういうときに、本当に、「無我」っていうんです。自分を投げ出しているからです。すっかり自分を投げ出してる様子、そういう働きをさせているんですよ。
27:02 今、自分が触れているところ
だから、この道を学ぶためにはですよ、今まで自分が何を学んで何を読んで、どうしてきたかって、いくらあっても構いません。
構わないけど、今触れているところだけで学んでほしいんです。それも、自分ですよ。
人を見て、人のことはどうでもいいんですよ、まずは。まずは、自分自身がどうなってるか。どうあるか、どうなってるのか。
そこに向かって、私たちは指摘をして、自分で尋ねてほしいって(言っているわけです)。 尋ねるっていう言葉は、ちょっとあれですけれどもね。
今までの様子からしたら、少し自分に目を向けて、自分の内容を尋ねてみてほしい。どうなっているのか。
その時に、今まで学んだものや、聞いたものや、読んだものは、一切用がないんです。
それを持ち出すと、さっき言ったように、ちゃんと対象が出てくるから。
読んで、書かれてる内容を(見て、あるいは)聞いて、この時はこう言われたっていうのを持ち出す。持ち出して比較対照して、、、そんなものは修行でもなんでもないですよ。それは考え方の世界の話です。
考え方はそうやって、いっくらでもあります。であるけれども、事実はどうなっているか。
モノは一つしかないって言うんですよ。さっきから言ってるように。諸行といっても、一切行と言っても、とことん、今の触れている様子以外、なんにもない。
自分が今まで持ち合わせたもの、全部、持っていると思うもの、しばらく、それは横に置きなさいとか言うけども。
よく見たら、そんなものは一つも邪魔にならずに、あってもなくてもいいような生活ができている。日常茶飯事、どこをとったって、(考えは邪魔は)してないですよ。
ところどころ、自分の都合が出てくると、始まるんじゃないですか。それ以外には一切ない。そういうことを、今日は、お伝えしたいと思って。
30:14 雪山偈の4本旗、「いろはにほへと」
で、この、内容の中のこの(雪山偈)4句はですね、今は、葬儀をしても、葬列を組んで(旗を掲げて)埋葬場に行くとか、火葬場に行くとかは無くなりました。でも近年までは、まだ、書き上げたものを読んでましたね。出棺前に。
もうこの頃、出棺前に読むことすらなくなりました。これ、いかに大事なことをやっていたかってことです。
この4句を赤い布地に書いて、そして先頭に4人が立って行くんです、行列の先頭にこれをたなびかして。大説法をして歩いていたんですよ。
ちゃんと示してあげる。公のところに。みんなが目に触れるところに、葬列で。
その当時だつて、あれは葬儀の中で使われるものぐらいにしか思ってないから、ほとんどの人は、その四本旗は何書いてあるか、知らないんだよね。
これ、もう少しわかりやすく言うと、
これは、この4句なんです。カタカナの「イロハニホヘト」、の内容なんですよ。
32:32 涅槃図、北枕、涅槃団子、末期の水
それで、2月15日の涅槃会では、お寺では、全国ほとんど、どこのお寺でも、涅槃図というものがあるお寺様では、涅槃図を掛けています。
40:20 形式でなく、仏法の中身を知ってほしい
他にもいろんなことがあるんですけど 、当時のお釈迦様の様子をそのまま現在に伝えています。形の上で。
だから、形だけではなく中身をね、中身を、こうやってよく知ってほしい。そして、真の安らぎを得てほしい。
これから訓練をして、勉強して、作り上げていくものなら、努力が足らないということがあるかもしれない。
でも、生まれたときから備わっているんです。
眼とモノっていうのは、必ず眼は、(扇子を開いて)(モノが)出てきたら、「そのとおりに見える」という働きをするようになっています。
だから、物があるだけですよ。よ~く見てほしい。(扇子を示して)これがこうやって出てきたときに、皆さんこれに、こっち向いてるときに、このものの様子があるだけですよ。
ここも、間違ってもらうと困るけど、これだけしか見えないんじゃないですよ。私は持って立ってますから、私の姿は見えますよ。もう少し広いのが見えるでしょう。だから、向かったところの様子だけですよ。
だって、(扇子で手をパンと打って)音だって、今、触れたときの、(パン、パン、パン)この様子だけでしょう。これも、さっき申し上げたように。
そういう自分自身の内容というものは、生まれたときから、きちっと、、、どなたかの言葉に、「人間の設計図に間違った設計図は一つもない」といった人がいらっしゃるんですね。
遺伝子だとか、いろんなことを全部ひっくるめてですよ。間違った設計はどこにもない。
どういう意味かっていうと、人それぞれ完璧だってことです。比べての話じゃないですよ。
比べるんじゃなく、人それぞれ、きちっと、まなことモノの様子、耳と声の様子、鼻と匂いの様子、舌と味の様子、体の感覚。
42:53 そのまま、救われている
もっと言えば内臓の働きなんて、知らないでしょ、どこに何があるのかって。健康の時には。
私もこう、今朝からあんまり調子良くないんでね。だから、今朝も、寝るときと朝はもう、10年ほど毎日計ってるんですよ、血圧は。
朝晩、安静時の血圧は大丈夫なんです。今朝は、ちょっと調子悪いなって計ったら、上215ぐらいある、下は100越してるの。
ちょっと今日、これまずいなと思って、来るとき計ったら160ぐらいになってるの。そうなると、ちょっと気にかかるんだけど、人間が気にかかる、かからないに関係なく、この体は色んな変化を起こすでしょう。
そういうようにして、生きている自分自身のありように、しっかりと目が向いて、それを自分で、治す人になったらいいんじゃないですか。
救われるんじゃなくて、もう、そういう具合に救われていたことに気づくんですよ。
これも、皆様方が「救われる」という言葉と、お釈迦様が「救われる」って言葉を使ってるときと、言葉としては同じ表現を使ってますよ。
けど、皆さんが「救われる」っていうのとは、たぶんズレがある、(祖師方)が伝えようとしてる「救われる」って言う言葉とは。
「救われる」っていうことは、こうやって(扇子で手のひらをパンと打って)音がしたら、そのとおりの働きをするっていうこと。
他のことは一切無いようになっています。
誰もがですよ、何億人いようと、みんなが等しく、そのような活動をするようになっている。そういうのを「救われている」って言います。それが救われている自分の様子です。真相です。
モノが入ってくると、ちゃんとそれがあります。
さっき言ったように、『毒が入ってるんじゃないか』とか、疑いは、後から起こすんです。好き嫌いは、後から起こすんですよ。
好き嫌いも何も関係なく、その通りの味が、活動として行われるようになっています。
みんな救われているじゃあないですか。いや、皆さん方は、そんなものは救われていると、、、『私が望んでいる救われているというのは、そんなことではありません』と、拒否するから。
自分の中で「救われるっていうのはこういうもんだ」っていうことがあるから、邪魔なものは全部取り除いて、理想通りになったら救われると思っているかもしれない。大半の教えは、そういうふうにしているでしょう。
仏教の教えの中では、そのまま、現状のまま、そのまま救われていることを伝えているんですよ。
だから、表現としても、地獄に落ちた人は地獄のまま、地獄から抜け出して上部に行って救われるんじゃなくて、地獄のまま救われていることを知ってほしい。そこで救われている様子がある。
そうでないと、本当に納得のいく「救い」にはならないんです。
ダメなものを取り除いて、理想的なものだけ取り入れるというようなことで出来上がったような「救われ方」「安らぎ」というものは、必ずすぐ崩れますよ。
そういうことがないようになっていることを、知ってほしいんで。
私が話すことは、このぐらいにしておいて、あとは時間まで、ご質問いただけたらと思います。
ありがとうございました。
2025.1.26 文字起こし by Aki Z
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