「異界」いきの添乗員ー平田俊子『スバらしきバス』(ちくま文庫)の感想として
引用箇所は、平田俊子の詩集『詩七日』(思潮社、2004)に掲載された詩の冒頭である(この詩集は、第12回萩原朔太郎賞を受賞している)。「あとがき」を読むと、この詩集名の由来は「二〇〇二年一月より毎月七日を「詩を書く日」と決め、執筆にあてることにした。連載タイトルは『詩七日』。しなのか、と読む。七日に書くという設定に加え、デビュー以来、「これが詩なのか」といわれてきたこと」だと言う。この詩集には、バスの描写が随所に現れている。以下、列挙してみたい。
今回文庫化された『スバらしきバス』は、バスへの偏愛を語った稀代のエッセイであるが、それは長い間熟成されてきた「想い」によって支えられている。エッセイの冒頭には、「バスは生き物のにおいをさせながら近づいてくるのでたびたびわたしは乗りまちがう」(「青い傘、ジル」より)という作品の引用もある。引用されている作品は、『ターミナル』(思潮社、1997)に収録されている。「ターミナル」を最初、「空港」のイメージで捉えていたのだが、エッセイを読んだ後は「バスターミナル」に変換されてしまう。
私にとって、「バス」が印象に残る詩作品は、最初に引いた「二十四月七日」である。この作品の最終連は「この先、ゆれませんのでご注意ください/この先、死にますのでご注意ください/この先、死にませんのでご注意ください」とある。この「バス」は「異界」へと通じている。「異界」とは、私たちの「現実」と違う「時間」によって構成されているものだとここでは考えたい。それは、平田の初期作品からもあらわれているが、この「異界」と「バス」との相性の良さを一体どのように説明したらいいだろう。私は、『スバらしきバス』は、「二十四月七日」という作品を解説するものとして読んだ。
ここで「異界」の条件を考えると、主体が思いがけずに出会う「偶然性」とそこから主体が「日常と異なる感覚」を得ることの二点を挙げていいだろう。これは、たとえば萩原朔太郎の「猫町」を想起してもいい。また、私たちの「日常」は均一化された「時間」によって管理されている。一方、「異界」のそれは、「時計」で刻まれるものではなく、そこから逸脱する自由を有する。だが、「異界」から戻ると、またいつもの「時間」の軸の上に立っている。そこでの「時間」は、夢のようにどこかあやふやではっきり再現することがむつかしい。平田には、この「異界」での体験を明確に描ける力がある。そして、「異界」への「入り口」こそが「バス」だったのである。
「雨上がりのバスは」では、荻窪で仕事を終えた後、興味本位から乗った「北野」いきのバス上の記録である。引用箇所の「開放感」と「心細さ」とは「知らない場所」を通過する時に生じる気持ちだろう。そして、その気持ちはそのまま「異界」へとつながっているように思われる。三鷹に降りた平田の眼に映る風景は、どこか「日常」の時間と切り離されたものであり、「細いトンボ」はどこか「異界」から来た者であるかのように文中で「異彩」を放っている。
また、「異界」は、バスから見える何気ない風景の中に突然現れる。たとえば、「明暗ある道」では夜の渋谷駅について「正面からも左右の道からも人が駅に押し寄せてくる。黒い液体がじわじわ集まるみたいで何だか恐ろしい。よその町からやってきて渋谷駅を出て散らばっていった人たちが、夜になると戻ってきて駅の中に吸い込まれる。くる日もくる日もそういうことを繰り返して百年以上過ぎたのかと思うと不思議な気がする」と書かれていて、平田の「異界」へのまなざしと描写力に唸らされる。
「あかいくつに乗って」では、「バス」の特性について、「視線の高さが違うから少し違った景色に見える」と端的に書かれている。いつもと違う「視点」から得られる「高揚感」とそれによって生じる「不安」は、「走っていると十分はすぐだけど、停まっていると永遠よりも長く感じる」という一文にもあらわれているように思われる。詩もまたいつもの「視線」からズレることによって、生まれてくるものではないだろうか。「いつも歩いて通る道をバスの窓から眺めるのはくすぐったい」(「ざわざわ」より)という感覚は、誰もが簡単に持つことはできない。そして、ユーモアを混じらせながら、その感覚を「日常」の言葉で表現できる平田は「異界」いきの「バス」の添乗員だったのである。
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