沖縄と私、そして山之口獏 ~小説書くのに面倒なんで言いますが~
(3800字程度)
私は沖縄の出身です。沖縄で生まれ、沖縄で育ち、今も沖縄に住んでいます。友人をはじめ、周りの人々にも恵まれた為、大体において、悪い奴らとは縁のない人生を送ることができています。
このことについて書くのは、これが初めてだと思います。隠していた訳ではありません。しかし、特に尋ねられることがなければ何も触れずに済ませたかったというのも、本当のところではあります。
というのも、はじめに沖縄の人間です、と言ってしまえば、私の書く文章は、読む前から「沖縄の人間」が書いた文章として捉えられてしまう。「沖縄の人間」として、沖縄に関する文章を求められてしまうかもしれない。
それも何だか、しんどい気がしたんですね。何がしんどいんだと言われてしまうとこれがまた説明が難しいので厄介なのですが、沖縄のことが何か書けるほど、私は沖縄のことをしっかり知っている訳ではないと、そう感じたのです。
そうかもしれないけれど、一方で思い入れだけは一丁前にある。
もし何かの折に、沖縄の人間としてただ黙っていることもできない状況なんかがやって来てしまえば、中途半端なことは書けないと、力みに力む自分の姿が、既に目に見えていた訳です。
そんな状況は、体に悪い。そしてきっと、誰に頼まれた訳でなくとも、自ら無理をする方を選んでしまう気もする。
そんなことを考えれば考えるほど、沖縄出身であるということが、簡単には手を付けられないトピックに感じられてしまったわけです。
それであれば、聞かれない限り話さないことに決めてしまえばいい。
と、こういうスタンスで行くことに決めた訳です。
実際には、そこまで考え込むことでもなかったのかもしれないのですし、そんなヒロイズムに浸るような格好いい理由ばかりでもありませんでした。
とにかく、しばらくは触れずにおいて先にいくつか書き上げてしまえば、「沖縄の人間」の書いた文章、という以上に、sokopenの書いた文章、として読んでもらえるようになるんじゃないか、と、そう考えたことも、立派な理由の一つです。
自分の文章をニュートラルな視点で読んでほしいという欲求だってあった訳で、今となってはどれが一番の理由かなんてわかりません。
自意識過剰だと思います。自分でも、書いていてそう思います。おそらくただの自己満足だったのでしょう。誰が期待している訳でもないのですから。
ただ、何と言うか、故郷に対する義理とでも言えばいいのか。たとえ沢山の人が読んでいるわけでなくとも、今の段階では、中途半端に何か書くよりは何も書かない方がいいと、そう感じた訳です。
勘違いしてほしくないのですが、沖縄ということで注目してもらえるのは、すごく嬉しいんですよ。
他県の方も同じ思いだと思うのですが、日常生活の中でも、自分の故郷のおかげで、自分の名前まで覚えてもらえたり、沖縄行きたい!と、直接言ってもらえたり。褒められているのは自分の故郷の方なのに、まるで自分が褒められているような気もしてくる。
そういう経験というのは、やはり無条件に嬉しい。何にも代え難い経験だと思っています。
補足みたいな書き方になってしまいましたが、結局は鼻の高いことですし、何だかんだで、嬉しいのです。いろいろ書きはしましたが、そこのあたり、どうか伝わりますように。
しかしあれですね、こんな告白めいた文体になる予定でもなかったのですが、人間というのは、生まれ故郷の話となると感傷的になる具合に出来ているのでしょうか。それとも、私だけのことなのか。
さあ、何を書こうか。気分を変えて、何を書こう。手始めに、沖縄の中学生の毛深さについてでも、書きますかね。書きませんけどね。
何を書こうと言ったって、美ら海水族館に特に詳しい訳でもないので、結局、文学の話をします。沖縄の文学についての話を少々。
沖縄と文学と、イメージとしてこの二つが結びつく人というのは、ほとんどいないのではないかと思うのですが、沖縄出身の芥川賞作家となると、実はこれまでに四人が受賞しています。
大城立裕、東峰夫、又吉栄喜、目取真俊、の四名です。
特に大城立裕氏の存在には特筆すべきものがあり、知名度から言っても、作品の質からしても、まさに現代沖縄文学の巨人と呼ぶにふさわしいものがあると考えています。
しかし更に遡れば、明治維新以降の近現代沖縄文学において絶対に欠かすことのできない人物に突き当たることになります。
主に詩人として活躍した、山之口獏です。
細かい説明は省きますが、そもそも、それまでの沖縄文学、あるいは沖縄文学らしきものと言えば、主に琉歌を中心としたものでした。
広く捉えれば、現代の演劇に当たる組踊もその範疇に含まれるのかもしれませんが、どちらにしても、和歌でもなければ小説とも違う、独自の文学の在り方を象くっていました。
それまで中心の位置を占めていた琉歌について軽く説明しますと、俳句や短歌は五、七、の音を使って成り立っていますが、対して琉歌は、八、六、の音を中心に成り立っており、基本的には、八、八、八、六の音で一句とするものとなっています。琉歌というくらいなので、もちろん沖縄の言葉で表現されるわけですが、沖縄の言葉とはいっても、実はそれは一つではない、ということだけは一応言及しておくことにします。
この琉歌なのですが、それはそれでもちろん価値のあるものと言えます。そのことに間違いはありません。
しかしそれだけでは、その後の沖縄文学のダイナミックな発展は期待できなかったかもしれません。日本の近代文学の発展に、西洋文学の影響を受けた漱石や川端が必要であったように、沖縄の文学にも何らかの外からの影響が必要だったのだと思います。
日本本土や西洋の文学を受容した上で、日本本土の文壇にも、ほとんど初めて受け入れられた存在として、山之口獏の存在は、ひときわ異彩な輝きを放つことになります。
大正の時代にすでに本土に住んでおり、その上、はじめは画学生として上京した山之口獏ですが、沖縄の人間として実感を含めて言わせてもらえば、この時点で十分な変人です。見事に合格です。
実際のところ、なかなかに興味深い人物だったようで、お金がなくて人から金を借りて、返してはまた借りて、という生活を続けていたにも関わらず、金に困っている風にも見えなければ屈託したところも見えず、いつも飄々として軽快に過ごしているように、周囲からは見えていたという話です。
私の好きな詩に、「芭蕉布」というのがあります。何年か前に、沖縄のローカルCMで、詩の朗読がBGMとして使われていたのを覚えています。
CMでかかっていたのはここまででした。ここまでの朗読を聞いて私は、なんて抒情的な詩を書く人なんだ、こんな素敵な詩を書く人があの時代の沖縄の人間の中にいたということか、と感動を通り越して、一人驚いていました。
そして、これは、もったいないもったいない、と考えているうちに、一度も着ないまま二十年が経ってしまった、ということだろう、と、一人でまた空想に浸っていたのです。ところが。
そう。ところがなのです。
その後、この詩を最後まで読む機会がありました。続きは、こうでした。
ん?そうじゃないのか。だったらなんで着ないのだろう。
質屋さんのおつき合い。質屋さん。質屋さんか。いいんだよ。もちろん、いいさ。質屋さんね。素晴らしい。
とこんな風に、一度は落胆した私でしたが、その後、他の詩を読んで、エッセイを読んで、じんわりとくる不思議な温かさを持った本当に素晴らしい書き手だ、と、あらためて実感しました。
この記事を書くにあたって久しぶりに読み直し、このシンプルな抒情性はいったいどこからやって来るのだろうと、この詩人の魅力を再確認しております。
しかし、質屋さんね。皆さん、服は着るためにあるので、質屋に入れる前にさっさと着ちゃいましょう。
書いたもので役に立てれば、それは光栄なことです。それに対価が頂けるとなれば、私にとっては至福の時です。そういう瞬間を味わってもいいのかなと、最近考えるようになりました。大きな糧として長く続けていきたいと思います。サポート、よろしくお願いいたします。