銃を突きつけられたが、名前のわからない旅行会社の田村さんに御礼を言いたいのだ。
カンボジアシアヌークビルに住んでいるそくあんです。
夫との出会いを書きたいと思いますが、後半あたり、というか別の機会になるかもしれないので興味がある方だけお読みください。
書くことに何年も躊躇していたのですが、自分の感情を記録するためにも綴ることにした。
カンボジアがパリ平和条約を結んだ1992年末に私たち家族はカンボジアへ帰省した。
私は、帰郷ともいうのか。
両親にとっては、ポルポト内戦が終息した1979年以来、初めて祖国に足を踏み入れることになりました。
当時の私は当時12歳で、小学校6年生だった。
言われるままに親についていくだけ。
飛行機に乗れるということもあり、わくわくしていたと思う。
日本のテレビでは、カンボジア情報は主にポルポト内戦のことばかりが取り上げられていた。地雷・貧困・物乞い・内戦・独裁政権・孤児などの話題が尽きなかった。
それ以外のカンボジアのことは何も知らない。
渡航日がやってきた。
カンボジアまでの直行便はなく、シンガポール経由で行った。
ネットで予約はせず固定電話で名前も知らない旅行会社に連絡をした。
担当者の名前は田村さんだったと思う。
私たちはパスポートを所持していないと、田村さんに事情を話して予約をしてもらったんだけな。
その後も何度か航空券をお願いした。
それ以外にも、顧客と旅行会社の人ではない、何か愉快なお喋りをした記憶がある。
内容は覚えてないが随分と長電話していたのは覚えてる。もしかして互いに恋でもしていたような、そんなふわっとした優しい時間だった。
まだ旅行会社に勤めているのだろうか、懐かしい。
話しが脱線してしまった。
シンガポールは乗り継ぎ時間がとても長くて私たちはベンチで仮眠したりフラフラしていた。
すると銃を構えた空港内の警備隊に呼び止められ、パスポートを提示するように言われましたが、私たちは証明するためのパスポートを持っていません。
手元にあるのは、日本政府が発行してくれた「再入国許可書」の茶色い冊子だけ。
多くの人はこの冊子を知らないと思います。
迫害されて祖国を追われた難民は、パスポートを所持しておらず無国籍として、タイ国境を越えてきました。法的には不法侵入となりますが、当時のインドシナ半島は混乱していたので目を瞑るしかなかったのかも。
誰もが、ブローカーに貴金属を渡して密入国をしていた。
父がどのように国境にたどり着いたかはわからない。
生死を彷徨った極限の判断だったのでしょう。
しまった!
また、話が脱線した。
日常の中でも話があっち行ったり、こっち行ったりと。
女性脳特有なのかもしれない、と開き直ってみたりと。
ま、そんな私も愛おしい存在です。
さて、乗り継ぎのシンガポール空港内で警備隊に銃を突き付けられ、再入国許可書を提示して身分を証明しようとしましたが、しばらくは理解してもらえませんでした。
その瞬間、全身に汗が垂れ、恐怖に怯えていました。
私も、両親も、英語を話すことができなかった。
当時のテクノロジーはまだ進化しておらず、翻訳機能もなかった気がする。
しかし、なんとか、説明して身分を晴らすことができたのだ。
警備隊がやってきた理由は、私たち家族以外にも難民として日本に定住しているお家族など、何十人もの人々がその場所で仮眠していたからね。
かなりの団体客でしたので、警戒されたのでしょう。
それは不審に思うよ。
そんな経緯があったが無事にシンガポール空港を離陸し、カンボジアに向かいました。
やっとプノンペン空港に到着した。
父の友人や親戚が空港まで迎えにきてくれました。熱風が漂い、空港の匂いも独特だった。親戚たちは嬉しそうに私たちに話しかけましたが、私たち兄弟は、彼らの言葉を理解するのに時間がかかりましたね。
異国の地に降り立った気分だ。まだ見ぬ私の祖国の一部でもある。
プノンペンでの用事を済ませた後、母親の田舎へ行きました。その後、
シアヌークビルに向かったのか、それともシアヌークビルの後に田舎のタケオ州に向かったのか、記憶にないのです。
どこかに保存してある写真の年月日を見ればわかるのかもしれない。
今日はここまで。
また、続きを書きますね。
カンボジア、時に日本。 知らない世界を学ぶのが好き。カンボジア南部海辺街のシアヌークビルで暮らしてます。 皆様の暖かいサポートをお待ちしております。