-戦争と混乱を⽣き抜いた⽇本定住カンボジア家族の物語と記憶-No,5
みなさま、こんにちは。
前回のあらすじはこちらから。
小学校入学
定住促進センターを退所し、小さなアパートに引っ越しをしました。
翌年の1988年4月、小学校へ入学をします。
お洋服やランドセルは皆さまからの寄付によるものです。
世界の中心は学校であった
高学年になるとカンボジア人であることを少しづつ認識しはじめます。
全身コンプレックスで人前に出て話すこと、写真を撮ること、全てが嫌いで
まさか私が趣味でラジオ配信をするなど信じられません!!
残念ながら、今もその気持ちは変わっていないのです。
小学高学年ですかね、共働きだったので割と早い年齢で家事をしていた記憶があります。
1992年カンボジアに帰郷
カンボジア内戦を終結させるためのパリ和平協定が1991年10月23日に締結され、私が記憶にある限り難民者の家族は翌年1992年に祖国へ帰省をします。
私たち家族も両親が慣れ親しんだ場所や家、友人を訪ねる旅に同行し、
12歳でクメール・ルージュの処刑場「トゥールスレン」も訪れました。
内戦の傷跡や物乞いや孤児、栄養不良や負傷者、生々しい光景が脳裏に焼き付けその晩は眠れず、衝撃を受けた出来事は今でも忘れません。
S21は、クメール・ルージュ支配下のカンボジアにおいて設けられていた政治犯収容所の暗号名であり稼働中は存在そのものが秘密であったため公式名称は無かったそうです。現在は地名を取ってトゥール・スレンと呼ばれており、国立のトゥール・スレン虐殺犯罪博物館となっています。
OPEN: Every day from 8:00am – 5:00pm
ADDRESS: Tuol Sleng Genocide MuseumSt.113, Boeung Keng Kang III, Boeung Keng KangPhnom Penh, Cambodia
その後、
就職
経済的に苦しかったので大学進学は選択肢にありませんでした。
好奇心旺盛な性格の私はガラス越しに仕事をする職人の姿に一目惚れして
その世界に魅了されていきます。
そして、進学はせずに就職の道を選択します。
「かまぼこ伝統製造」という職人たちのいる世界に飛び込むことを決意。
上司や部下に恵まれ素晴らしい職場でしたが25歳の時に椎間板ヘルニアを発症し、自身の身体の危険を感じ、退職することになりました。
人生のターニングポイント
社会人になり探求心は強くなっていきます。
カンボジアに対して嫌悪感を抱いていた私でしたが、ふと立ち寄った居酒屋で素敵な経営者と出会います。
私の人生は好転していきます。
「外部の出来事は全て内部の世界が引き寄せている。つまり、自分の考え方ひとつで世界が変わるのだ」という言葉を学びます。彼女は大切なことを丁寧に、何度も言葉で伝えてくれました。私の両親は言葉でそれらを伝えることはありませんでしたが、姿勢と生き方から、それを感じ取ることができました。
ゼロ日婚を選んだ理由
2005年、長期休暇をとり一人でカンボジアに遊びに行くことに。
ふらっと行くつもりがあれよこれよと、籍を入れ、結婚式挙げて、という普通では考えられない経緯で結婚をすることになります。
幼少期に体験した「両親に言っても無駄だし」の想いがあり、誰に相談をすることなくこの結婚は事後報告という形になりました。
その時両親はどんな想いだったのだろう。
この結婚に対し、私は「言葉が不自由な両親の幸せを優先する」という気持ちが強く長女としての責任感や、性格、何が私をそうさせたのか今でもわかりません。
挫折、再度、挑戦したカンボジア生活
2011年、東日本大震災の津波映像を見た義家族から電話がありました。
その後、2人の子供を出産した後、夫と共にカンボジアへの移住を決意します。正直な気持ちとして、この時、移住への大きな覚悟や決断がなく夫のために付いて行ったようなものでした。
アパートを解約し荷物をまとめてカンボジアへ向かいました。
期待が膨らみ一日でも早く新しい環境に慣れるために、自分なりに全力を尽くしましたが、現実はそれほど簡単ではありませんでした。
私一人では解決できない複雑な問題が頻繁に起こり、結局は子供を連れて日本に帰国することになりました。
出口のないトンネル、どん底に一旦沈んでしまったのですが、この過程で何が起きたのかは秘密としますが、私はその後に三女を授かり、新たな決意をします。
「今度こそ」という自分との約束を胸に再びカンボジアへと向かう決断をしました。
この時は日本の生活に疲れ果てたこと、世界規模で子育てをしたいという意欲がふと湧いてきたのです。
カンボジアでは、日本と異なる文化や習慣、価値観に触れながら生活することになりました。
同時に、親族同士の繋がりもより深くなっていきます。
難民として渡り、核家族だった私にとって、大家族との生活は時々息がつまります。
言葉の壁によって深く理解しあえないことが今も悩みのひとつです。
「守破離」
カンボジアに移住した私は新たな気持ちで、
その場所の習慣やルールに従うことを意識していきます。
以前はなんでも日本と比較して押し付けていましたがそれを完全にやめることにしました。
まずはクメール人のやり方を忠実に真似し、そのやり方を1年、2年と続けていきます。
すると、私とクメール人の間に何か暗黙の了解が生まれます。
そこからさらに、3年、4年と少しずつ変化を加え、そして私は自分が思い描く生活を実現できるようになります。
この変化の過程は、まさに「守破離」の考え方に基づいていましたね。
今日はここまでにしますね。
次章は-戦争と混乱を⽣き抜いた⽇本定住カンボジア家族の物語と記憶-No,6(おまけ)
最後まで読んでくれてありがとうございます。
SOKOEUN