鎌倉五山周遊 「いざ鎌倉」 鎌倉駅
深い赤色で、少しひんやりとした固いめの長椅子が
車両の窓際に据え付けられている。
前から5台目くらいの車両の
進行方向に向かって右端の長椅子の、
丁度真ん中に私は腰を掛けている。
戸塚から鎌倉駅までは3駅しかない。
乗車時間は12分歩かないかといったところ。
と、乗り換えナビは言っている。
今日目指すのは、
中国南宋時代に渡来した蘭渓道隆により開山された、
鎌倉五山の第一位、建長寺である。
禅宗といえば臨済宗と曹洞宗の名が挙がる。
それぞれに栄西と道元が日本禅宗の代表格といったところであろうか。
ここまでが、大筋で義務教育の守備範囲であろう。
この建長寺、鎌倉時代の執権北条氏によって
中々重宝されていたらしい。
日本最初の禅宗専門寺院ということで、
当時の鎌倉幕府第五代執権、北条時頼(1227-1263)が
建長五年(1253)に建立し、
すでに寛元四年(1246)に渡来していた蘭渓道隆を
迎え入れたそうな。
因みに、我々がよく耳にする「けんちん汁」、
「建長汁」と書くらしい。これは建長寺発祥の料理だそうで。
話は逸れたが、この北条時頼という人物、
この上ないくらいまで禅に没頭していたようで
建長寺建立後、同寺の住職二代にわたり
禅の教えに深く帰依したらしい。
挙句の果てには「執権」という政治権力を以て
建長寺を経済的にサポートし、
また自らも最終的に出家。
法名は覚了房道崇(かくりょうぼうどうすう)。
名前のあちらこちらに蘭渓道隆の姿が見え隠れしていると感じるのは
私だけであろうか。
*蘭渓道隆は死後、後宇多天皇により「大覚禅師」という禅師号を
賜っている。
その真偽はどうであれ、
時の執権は13世紀に到来した禅に心を奪われていた。
因みに、所謂「日本文化」といわれる
生け花、能、茶道などは、室町時代に大成されたといわれてる。
その文化が生み出された背景には、
平安時代には公家、鎌倉時代には武士によって
美学が展開されていったという流れがある。
室町時代になると、さらにその鮮度が高まった。
人々が寄り集まりあれやこれやと話し合う「座」の文化が形成され、
そこから「一座建立」による共同での文化生成が行われることとなったのが
そのゆえんである。
こうした「座」から生成された文化の中で、
最も「日本文化」に影響を与えたのが「連歌」だという。
この「連歌」というのが、
さらに日本文化における美意識を高めた。
そこで形成された、よく耳にするのが
「冷え寂び」である。
これは、一説によれば
「冷たくて凍てついた冬ざれの風物をこそ美しいと
感じるような美意識」を指すそうだが、
これほどの美学は、果たして他国のコスモロジーにあろうか。
この「連歌」が形成した「冷え寂び」にみられるような、
美意識を含む文化から、いまの茶の湯や生け花が生まれてくる。
この美的センスと大きく結びついたのが、
「禅」であり、禅林文化というものが生成されたのである。
禅林文化の代表格として「枯山水」が挙げられるが、
こういった文化の形成に大きく影響した日本の禅の始まりを
観ておく必要に駆られた私は、
こうして鎌倉五山に赴く決意をしたのである。
以上のことを事細かに調べ上げメモをとっていたところ
気づけば、次が鎌倉駅という粗いスピーカー音のアナウンスが
私の鼓膜を突くように揺らしていた。
丁度北鎌倉を過ぎて数分経ったところであろうか。
頭をあげて、ずれたマスクを直しつつ
向かいの車窓に視線をずらすと
葉を落とし寒そうに裸で震える落葉樹の小柄な山々が
肩を寄せ合い暖をとるように並んでいる。
「これもまた冷え寂びか、」
マスクの下で、ぼそりと一言。
左右に揺れていた車両が
もう少し揺れて、走っていたレールが切り替わったようにおもう。
鎌倉は近い。
【ぜあみ後記】
雨の日々が続いていますね。
私大通り沿いに住んでいるもので、
車の行き来の音にはもう慣れてしまいました。
しかし最近妙に救急車の音が多いと思っております。
なぜかと思っていたら、
どうも私が住む地区のコロナ感染者が増加しており
そのために頻繁に出動しているのではないかという
結論に至った今日この頃です。
なかなか感染拡大がおさまりませんね。
どうか、外出後の手洗いウガイ、顔洗いは徹底しましょう。
寒いですが、少しスーパーに買い物へ出かけた後も
私は顔を洗うようにしています。
ではまた次回もよろしくお願い致します。
ぜあみ