夜の町にて とある女性の場合
長い夜を歩いている。
履きなれたスニーカーでアスファルトを踏みしめ、一歩ずつ進んでいく。どれだけ時間が経ったかもわからない。ただ、歩いていく。かすかな月明かりを受けた周囲の家々はどこまでも他人行儀で、のっぺりとした壁はこちらに背を向けている。空気はじとりと生臭く、一息ごとに私の肺を濡らしていた。きぃんと響く静寂が無防備な身体に侵入して胃の中でうごめいて吐き気を誘う。最低な気分だ。
私は誰かを探していた。彼女の影は記憶の中で遠く、光の薄いこの世界ではぼやけるばかりだ。それでも、この気味の悪い世界で彼女を探さなければならないことははっきりとわかっていた。
「だれか、いませんか。私の大切なあの子を知りませんか」
張り上げたはずの声はべしゃりと落ちた。言葉を発するだけで息が詰まるようだ。どこからか身に刺さるような視線を感じるのに応えてくれる者はない。自分だけが闇の中に置き去りにされて迷っている。孤独と欠乏感に喉が締め付けられて、もう限界だった。それでも彼女を諦めることはどうしてもできないから、ただひたすらに歩き続ける。
「お困りですか」
曲がった角を数えることも忘れたころ、私はそれと鉢合わせた。柔らかな布を撫でるような紳士然とした声。その主は上等な消し炭色のスーツに身を包んで立っていた。
「お力になりましょうか」
再びそれが音を発する。細い首に支えられた白い球体は水分の膜に覆われてつるりとしている。その中心から、大きな黒い丸――光彩とか、瞳孔とか呼んで差し支えないであろうモノが1つ、こちらを見ている。彼を包む夜はどこか柔らかい。なぜだか私は彼を知っていた。
「こんばんは、ヤマダさん」
絞りだした声はみじめに掠れている。それでも1人ぼっちの時よりはいくらかましだった。
「ええ、こんばんは」
「私、大切な彼女を探しているんです」
「そうでしょうとも」
「探すのを手伝ってくれますか」
「もちろん。私は目が良いですから」
彼はそう言うと、手に持っていた大きな水筒を頭上で傾けて大きな眼球を湿らせた。彼の頭部が含み切れなかった水分がシャツに染みをつくっていく。彼はうんと伸びをしてから、どこか遠くの方へその目を凝らしているようだった。
「少し時間がかかるよ。どうです、飲みませんか」
同じ水筒の中身をコップ状の蓋に注いで、革手袋をはめた彼の手が私の喉に伸びる。流れ込んできた液体は思いのほか粘ついていた。冷たい感覚がひりついた食道を撫で、こじ開けながら胃に落ちていくのがわかった。
「おいしいです。なぜだかすっきりして」
「こういう夜には良いものだから。ひと月ほど前から煮詰めておいたんです」
材料を調達するのも一苦労なんですよ。そう言って彼はいたずらっぽい笑い声を立てる。私もなんだか力が抜けてしまって、彼が勧めるままに道端のフェンスに寄りかかった。随分歩いたせいか、じわりと脚がしびれるような感覚があった。空気は少し前よりずっと甘やかだ。久しく感じていなかった安らぎを足首に括りつけられるような感覚。その重みに誘われて、ゆっくりと意識の水面が遠のいていくのを感じていた。
すぐ近くで、遠くで、暖かなヤマダさんの声が聞こえる。
「それで、あなたはどうしてそんなふうに迷ってしまったのですか」
「私にもわかりません。ただ、彼女が、いないということだけが。彼女が笑ってくれないと私は、多分、息苦しいんです」
そうだ、彼女は。言葉が泡のように水面へのぼっていく。
「あぁ、なるほど」
ヤマダさんは歌うように続けた。
「多分ね、彼女はあなたに本当の自分を忘れられてしまいそうで怖かったんですよ。いなくなってしまったらどうしたってあなたは彼女を探すでしょう。そうするとあなたはきちんと思い出さないわけにはいかない。ね、あまり彼女をおろそかにしてはかわいそうですよ」
差し込む光が優しく揺れている。
「おろそかだなんて。こうして探しに来ているし、彼女はいつも楽しそうで」
「あなたがどんな表情をしたいのか、私には見えませんけれど」
ヤマダさんは続ける。
「彼女はね、本当はとても悲しそうですよ。ずっとそうでした。今も少し」
「……見つかったんですか」
「えぇ、すぐそこに。待っていてください」
ヤマダさんはどこかへ行ってしまったようだった。私は流れに身を任せてたゆたいながら、彼の言葉を胸で転がしていた。むき出しの首が波に、夜風に撫でられて、その感触に彼女の不在を痛いほど感じる。私は彼女に無理を強いていたのだろうか。私の身体が感じるべき苦しみを彼女に押しつけて、我慢をさせていたのだろうか。私は忘れたかったのだろうか。ばらける思考を頭に留めようと重い腕を持ち上げてみてもただ空を掴むだけで。そして私は意識を手放した。
「お待たせしました。連れてきましたよ。ああ、どうやらすっかり眠っていますね」
大きな眼球を首の上に据えた男が夜道にたたずんでいる。傍らには頭のない身体が倒れていた。
「もう離れ離れになってしまってはいけませんよ。またこんな終わりのない夜に迷いこんでしまいますから。どちらも大切に、ね」
男は腕の中に抱えている若い女性の頭部にそう語り掛けると、低い声で子守唄を歌い始めた。
町の夜は更けてゆく。