8月26日に寄せて。

366日、毎日が誰かの誕生日だ。それでも、そのうちの幾日かが自分にとって特別なのは、自分自身がその幾日かに紐づけられた幾人かに強い思い入れを抱いているからに他ならない。

たとえば。幼いころから、「その日」に誰かからの祝福の声をかけてもらってきた自分に。

たとえば。私からの祝福を、ときにはどこか照れたような、ときにははじけるような笑顔で受け取ってくれる身近なあなたに。

たとえば。顔も声も知らないけれど、お互いの「大切なもの」でつながった、喜びを共にできるあなたに。

そして、たとえば。私とは何の関係もない、はるか遠くにいるけれど、それでも私や、それ以上に多くの人々をその姿勢で魅せる、「彼」に。


格好をつけて書いてみたけれど、本当のところを言えばありふれた話。今日、8月26日は、俗にいうところの「推しの誕生日」なのだ。


私が推している人は、「ゲーム実況者」だ。

この文章をそんなに多くの人が読むとは思わないし、ましてやその中に私の「推し」を知らない人がいる可能性なんてかなり低いと思っている(実のところ、これはそれくらい身内向けの、私的な文章なのだ。悪しからず)ので、ここでその詳細に触れることはしない。

ただ、約1年前、今よりひとつ歳若い彼の誕生日とそれに連なる企画によって「推し」の姿勢に惚れ込んだ人間として、その気持ちをどこかに吐き出したくてこの文章を書いている。おそらく同じくファンの皆様にとっては当然のこととして共有されている感情だろうし、これを読むかもしれない私の友人はきっとこの手のことは聞き飽きているだろう。それでも書かずにいられない。

言っておくが、私の「推し」はかっこいい。そりゃあもうしびれるくらいかっこいいのだ。私は普段自分のやっているSNSでこれを直接声高に叫ぶことはそうそうしないのだが、その分ここで言っておく。彼はかっこいい。というか、彼もその仲間のナイスガイたちもみんなめちゃくちゃにかっこいいと思っている。しかし、今回は特にここで「推し」と呼ぶ彼の誕生日に寄せた文章なので全員に触れることは避けておく(本当は全部話したいけれど、たぶんそうしていると26日が終わる)。

さて、じゃあなぜそんなにかっこいいと思っているんだい君は、という話になるわけだ。

まず一視聴者として、「推し」を含めた彼らが生み出す作品を高く評価している、という表現が思い浮かぶ。評価、なんて言うと偉そうに聞こえるかもしれないが、動画サイトの高評価ボタンのようなものだと思ってほしい。

彼らの生み出す動画には、そのゲームへのリスペクトがある。(あいまいな言葉を使うが)エンタメ性がある。映画のようなコピーがついて、華麗なプレイがある。そして何より、彼らが本気で楽しんでいる。こういう動画を観て、その動画のみならずそこで扱われているゲームの虜にならないのは難しい。実際、私の家にPS5があるのは彼、彼らのせいなのだ。こういう作品を生み出せるクリエイターは、プレイヤーは、そりゃあ腕利きだし「かっこいい」。その中のひとりとして、当然彼も「かっこいい」。まずこれがひとつ。

そして、彼の動画で見られるゲームプレイ、その姿勢には独特の魅力がある。私にとって、これを陳腐なものにしないように、それでいて簡潔に表現するのはなかなか難しい。だから少し長くなってしまうかもしれないが、私なりに努力するのでお付き合い願いたい。

彼のプレイは、常に口あたりのいいものであるとは限らない。高難易度の死にゲーを好むことをはじめ、自分に制約を課して楽しむようなプレイスタイルをとることも多いから、そりゃあ苦戦することも多い。観ていてこちらまで苦しくなるような場面もあるし、スーパープレイ、さくさくクリア、なんてことがいつも起こるわけじゃない。

その点で、彼は私たち視聴者のすぐそばにいるようにも思える。けれど、彼は高く見えたその壁に、あるいはそれに苦戦する自分に、時に冷静に、時に苦しみながらも挑んでいく。そうして壁をよく観察して、その障壁に合わせて自分を変えて、その形を身になじませていく。つまるところが進化だ。しかも、恐ろしいことに、どうやらそれを楽しんでいる。

いや、気持ちはわかるのだ。私自身がゲームをする時もそういうプレイスタイルを好んでいるし、そうして壁を乗り越えられた時の喜びや手ごたえは計り知れない。

けれども、何千人、時には何万人という名も顔も知れぬ人々に見守られ、ときに意に沿わないものにさらされ(世の中にはいろんな人間がいるからそりゃあそういうこともあるだろう)、ときにくじけそうになりながらも、努力を積み重ね続けて自身を磨き、ついには高みに至るその姿が。その障壁の分だけ、苦しみの分だけ。言葉を選ばずに言えば泥臭くて、ものすごく「かっこいい」。

少し前に、「その点で、彼は私たち視聴者のすぐそばにいるようにも思える」なんて書いたけれど、この「高み」に到達したとき、彼はとても遠い。びっくりである。えっ、さっきまでここにいたのに!?なんて具合。

そんな姿を見せられると人はどうなるか。私の場合は、なにくそ、私も頑張ってやる、と思った。

もちろん、当然のことながら、当たり前に、「すぐそば」なんてのも実際は幻想なのだ。だって本当は彼はものすごく「巧い」人だから。でも少なくともその幻想の中では、なんだか身近に思える。こういう表現が許されるなら、苦しみ足掻く姿に親近感を覚える、なんて言い方でもいいのかもしれない。その分、そんな人が「高み」を見ているなら、自分も努力に努力を重ねれば、あるいは。そんな気持ちがわいてくる。

そして、わき目もふらずに上を目指して遠くなるその背中に散々こっちをハラハラさせたり憧れさせたりしておいて。

最後にはふと皆の方を振り返り、某キャラクターになぞらえて「来いよ、高みへ」なんて言う。にやりと笑って。

こんなの、努力を信じたくなっちゃうじゃないか。

私は、そんなふうに自分のための努力を重ねられる人を、その姿で周囲の多くの人を奮い立たせる人を、「かっこいい」と思う。思ってしまうのだ。


こうして見も知らぬどこかの誰かの姿に見惚れて、その誕生日を特別なものだと思える私はきっととても幸運だ。おまけに、その姿を通してこれまでほとんど知らなかったゲームの世界を楽しむやり方を教わった。これもすごく幸せなことだ。

私はそのことに、とても感謝している。多分、そういう人がたくさんいる。


と、ここまで書いておいてなんだが、私は別に「推し」を神格化したいわけでも崇めたいわけでもない。殊更に「憧れの人」として抱え込みたいわけでもない(これには私のつまらない意地も関係しているのだが)。そうして消費するようなことは、したくない。

ただどうしても、「かっこいい」と、そう思わされてしまう。そして、それを言語化しようとするとどうしても大げさになってしまうのだ。重く見えたら許してほしい。そして安心してほしい。

私が言いたいのは、「パイセンまじかっけーっす!!」ということだけなので。ね、まじ、かっけーんすよ。まだまだかっこいいところ、沢山あるんすよ。

そんなかっけー「推し」の誕生日が、たくさんの人にとって特別なものになっているのもまた、烏滸がましくも、応援している側の私までその一員として嬉しくなるようなことなので。だから言いたい。

お誕生日おめでとうございます。

これからもご自身の楽しいことや信念に向かって突き進むその姿を遠く眺めながら応援しております。

41歳のあなたに、幸多からんことを。







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