空間の詩学① ~詩と向き合う
古本屋に行くことが20代からの趣味。
以前は図録を中心に購入していた。
アンフォルメル、ネオダダ、具体派、九州派、集団蜘蛛、集団N39。
他にはCarl Andre、Richard Serra、Frank Stella、李禹煥、Eva Hesseなど。1950~1980年代のアートは力強く土臭くたまらない。(ブルーチーズ)
サイゼリアの赤ワインを片手に何時間でも話せる。
彼らの行動や作品を見て
「もっと頑張らないとな」「アトリエ広いな」
とため息を吐きながらやる気を出していた。(自己啓発…)
最近は文書を読むことが多くなった。
生半可な気持ちで刺激を求め、熟読していくとぶち当たるのが哲学と存在学。知らんけど行くところまで行ってやるよっという精神で自分の制作に関係しそうな哲学書を数冊入手。
最初の本はガストン・バシュラールの「空間の詩学」。
ガストン・バシュラール(1884-1962)
フランスの哲学者であり、詩的想像力と夢想の世界を探求した知の巨人です。もともと科学哲学を専門とし、科学的思考の進化や知識の体系化について革新的な理論を展開しましたが、後年、詩学や美学、心理学に大きく軸足を移し、感覚的・精神的な体験を哲学的に捉える著作で知られるようになりました。
正直、詩とかシュルレアリスムのように「無意識」「自由」を中心に話を展開する本が好きではない。
本質に辿り着けていない感覚がして落ち着かない。
そして詩を読むのは好きではない。(書くのは好き。)
言葉というのは他の表現に比べて意味が明確であり、発せられた言葉はその意味を持っている。
絵画表現とは違い最初から意味が付着しているので抽象度は低い。
それなのに詩というのはとても抽象的で賢者のような静かな心で読み、感じることが求められる。
「なんか良い絵」のように脳死で見るのでは足りず、文を読み詩に使われた言葉の意味の先、もしくは全く別の道を読者自身が作らなければいけない。
あーめんどくさい。
否定的な意識を抱きながら私はしぶしぶこの本を読み始める。
・序論
詩を読むときその言葉によって想像される記憶または夢想に自分を当てはめる。
(詩を書くときは自分の記憶を遡り自分が夢想になる、自分がそこにいる。)
バシュラールの「こだま」という表現がとてもわかりやすい。
過去を大きくしたり敷き詰めてイメージを作るのではなく、浮かんだイメージが過去に影響を与え広がっていく。
例えば面がない辺だけで構成された正方形の箱があるとして過去=石の正方形プレートだとしよう。
箱の中をプレートで全て埋めるとそこに夢想する余地はないが、プレートを面として置くとそこに空間が生まれ、プレートを叩くと振動が他のプレートに影響を及ぼす。
つまり詩というのは過去の存在だけでは構成されない。
なぜその言葉が浮かんだのか。
考えることに意味を持たない。
自分がどう生まれたかより与えられた中でどう生きるのかの方が重要。
後で触れるが「概念」の神格化によって凝り固まった頭を「不知」にして物事を見ることは本当に難しい。
完璧に構成された概念は鑑賞者のこころの中に根を突き刺し鑑賞者の呼吸を妨げるだろう。
もっとラフに行けよ、金井。
言葉は具体的なイメージを元々付与されているのにもかかわらず、詩は特殊な実在を自分で作り味わえと言ってくる。
作家にとっては結構大事なことだと思う。
難波田龍起先生も自然の模倣品が作品と本に書いていたし、タナベも解像度を落とすことが大事って言ってたし。
この文の受け取り方が間違っているかもしれないが、絵や彫刻も形式を創始するたましいだと思う。。
絵を創始するのではない、絵の技法を創始するのではない、絵の形式を創始することが時代を問わず求められている。
…技法(technique): 絵を描く際に使用される手法や方法を指す。
例えば、油絵、水彩画、版画など表現方法。
…形式(style or form): 絵が持つ視覚的な構造や表現を指す。
例えば、具象画、抽象画、表現主義など構成や形の取り扱い方。
時に物事は不明確な表現の方がイメージとして伝わる。
人間は自然が産んだ機械生物なのか、機械と一緒に自然になろうとしているのか。
二者択一ではなく流動的に人間はその場面や感情によって行動が変わる。
ただ「理解」という言葉はとても強いと思う。
「人の優しさを理解する」「この絵の伝えたいことを理解した」。
ここまで断定することによって想像力が泳ぐための余白がなくなる。
表現は1+1でとどめたままで終わらせる。
=で結ぶ必要はないと私は思う。
終わり
本を読むだけでは咀嚼できていなかったことが自分の言葉に置き換えたことで考えが固まった気がする。
バシュラールの本は長い。
次にいこう。