The Red Strings of Fate

秋田大学文芸部にいたころの、部誌に出した話です。
お姉さんに養われてるヒモの話です。盆暗です。
もう文芸部に関わることもないと思うので、公開しておきます。
序盤のルビが多すぎて編集さんにお手数お掛けした覚えがあります。ほんまにすみませんでした。

当時書いた蛇足はこちらです
https://note.com/soichi_yoshikawa/n/nd783fe4786ab
読んでいただき、ありがとうございます。

ヒモくん:円城寺棋生(えんじょうじきせい)
27歳、現在無職。
日課:お皿洗い、お花に水をやること、お菓子作り、心療内科通い
得意なもの:暗記、暗算
苦手なもの:目を合わせること

お姉さん:楠井ゆう(くすいゆう)
27歳、薬剤師。
日課:棋生を可愛がること
得意なもの:仕事
苦手なもの:虫

 からからからと音を立ててから、緑の毛氈(もうせん)の河より山が這い出でくる。この山を、壁牌(ピーパイ)または牌山という。
らしい。
 二十七歳で無職の僕は、仕事に行っているゆうちゃんの代わりに、家でゆっくりしたりお花に水をやって暮らしている。
 昨日、いつも通り水遣りをしていた所、いま僕の左手側、上家(カミチャ)に座っているおじさんに声をかけられて、なんとなく雀荘(ジャンソウ)──麻雀(マージャン)をやるところ──にやって来た。僕たちの座る雀卓には、点棒や骰子、各種雀牌(ジャンパイ)の他に青から黄色まで紙幣が粗雑に置かれて居る。
 だんだんルールを覚えてきた。麻雀とは、ポーカーのように役を作るゲームであること。ただし用いるのはトランプではなく麻雀牌で、山から一枚引き手札から一枚捨てるを繰り返して役の完成を目指していくこと。基本的に四人で行い、最も早く役を完成させた者が他三人から持ち点を奪い、最後の持ち点の高さで順位を争うゲームであること。役の形は、七対子(チートイツ)・国士無双・流し満貫等を除き、雀頭(ジャントウ)が一つに四面子(メンツ)の構成である。
 雀頭・面子とはなんぞやという話の前に、実際に麻雀牌を見ればわかるが、麻雀牌には字牌と数牌があり、数牌はさらに萬子(マンズ)・筒子(ピンズ)・索子(ソーズ)が一〜九が四枚ずつ、すなわち三×九×四=一〇八枚存在する。字牌は東西南北と中發白が各三枚ずつの七×四=二十八枚を使用する。
 雀頭とは同じ牌を二枚揃えた状態のこと。面子は萬子が三枚ずつなど、同じ種類の三枚の 牌が順子(シュンツ)・刻子(コーツ)という状態になること。刻子は東東東など同じ牌を三つ、順子は四五六など連続した三つの数を集める。字牌に順子はない。
 麻雀卓上には風が吹く。すなわち、卓の四辺に東西南北が割り振られ、誰かが和了(ホーラ)する(上がる)ごとに北が東に、東が南にと方角が割り振られる。これが何の役に立つかというと、麻雀には親があって、それが東に回ってきた人が担当することになる。山から牌を引くことを自摸(ツモ)といい、親からこれを始める。親は自分が和了したときにより多い点数を得ることができるが、子に和了されると逆により多い点数を払う。その点数計算だが、麻雀の点数計算は少々複雑だし、誰かが勝手にやってくれるので僕は覚えていない。
 ので、ちょろまかされているかもしれない。
 どうでもよろしい。
 いまどき白昼堂々と賭け麻雀をするにあたり、払えないほどの額になるわけではない。
そもそも負けなければいいのだ。
 それに、僕が稼いだお金でもない。
 知らない人に囲まれて、曲がりなりにも賭博をしているのに、僕は至って冷静だった。
 これが自由か。
「俺が東でいいか」
 と僕に声をかけてきたおじさんが言う。さっき小島と名乗っていた気がする。対面は赤木、下家は萩原。萩原さんが「おう」とぶっきらぼうに答えるのを聞きながら配牌を眺める。
「ふむ」
 悪くない手だった。索子が多く纏ってあるから清一色(チンイーソー)や混一色(ホンイーソー)が狙えそうだし、僕の風牌である北が二枚あるから序盤で早々に鳴いて安手の早上がりでも良い。
「なんだ兄ちゃん良かったか」
「はい」
「カッ」
 小島さんは太鼓の達人のフチを叩く方のような笑い方をして西を捨てる。序盤は字牌や老頭牌(一と九の牌)から捨てていくのが比較的セオリーである。後半に中張牌(チュンチャンパイ)(二から八の牌)、特に五、六付近は切ろうとしても危険牌になりがちなことを考えると、配牌時に牌が纏まっていない場合は序盤に捨てたくなってしまうが、最初から真ん中の牌を捨てていくと、他家(ターチャ)からは混老頭(ホンロウトウ)か国士無双かと予想されてしまうので、特にそういう目論見またはブラフ狙いでない限りは、幺九(ヤオチュー)牌から切っていくべきだ。麻雀でこちらがどういう役を作っているかは極力隠さなくてはならない。麻雀の真髄は勝つことではなく、負けないことだ。つまり、自分の手を作ることに腐心するのではなく、他人の河(捨て牌のこと)を読み、鳴き牌を、ドラを、風を警戒しながら、振り込まないようにすることが肝要なのだ。手作りは結局運が殆どだが、振り込みは考えていればおおよそ回避できる。
 僕は白發中の三元牌はあまり切りたくないが、ドラ表示で一枚切れている發を捨てる。序盤でも、三元牌と東は比較的切られにくい傾向にある。それだけで役が成立するため、早上がりに使えるためだ。しかし、
「ポン」
 僕は下家の萩原さんが捨てた北を拾う。南西北はこうしてすぐに出てくる。カン、チー、ポンをすると上がれなくなる場合も多く、迂闊にするべきではないが、三元牌と東、そしてこのような自風牌を鳴けるときは、僕の場合とっとと取ってしまう。此のま馬索子の混一色を目指してもいいし、他家が早そうなら適当に北で和了してもいい。
「兄ちゃんはいつもなにやってんの」
「無職です」
「へえ。脛齧りかい」
「はい。親ではなく恋人のですが」
「ヒモかい。羨ましいなあ」
「いいねえ」
「そうですね。皆さんは何を?」
「俺は退職して嫁に逃げられたとこ」
「俺は普通に役所勤め。今日は休日出勤の振替で休みになっちまって。無趣味の独身貴族はこういう時にこれくらいしかやる事無えや」
「そういうものですか」
「赤木さんは割と兄ちゃんと似たような生活してるよな」
 駄弁りと煙草の臭いとが怠そうに、淡々と、牌で満ちていく卓上に充満している。僕の人生ではこういう、やることが何も無い時間は殆ど無かった。子供の頃から。
 僕が普通のひとだったら、こういう暇潰しみたいな時間をもっと多く、もっと早く過ごしていたのだろうか。
「俺は女に養ってくれなんて一度も言ったことは無えよ」
「出た出た」
「赤木さんそれで生きて来れてんのが凄えよ」
「無傷ってわけじゃ無いがな」
「兄ちゃんもヒモしてんなら愛想尽かされないようにしろよ」
「僕たちは大丈夫ですよ」
「分かってねえなあ、兄ちゃん。それとも兄ちゃんの方が本当はベタ惚れなのか? 男と女の間に『大丈夫』なんて無えよ」
「いえ、男と女とかではなく……」
 きっと、僕が女性でも、ゆうちゃんが男でも、僕たちはこうなっていたのだろう。恋人、友人、パトロン、世間にどう呼ばれても良かった。そのどれもが、僕たちの本質では無いからだ。僕の心臓はゆうちゃんの心臓で、ゆうちゃんの血液は僕の血液だ。ゆうちゃんは僕の代謝で、僕はゆうちゃんのアイデンティティだ。
「てめえの人生だろ。勝手にしてやれ」
「歳食うと説教臭くなっていけないよな」
 河が二列を成し、中盤を過ぎようという状況だが、僕の序盤のポンを除いて、誰一人鳴きも立直(リーチ)の宣言もしていない。僕が索子の混一を狙っても案外和了れるかもしれない。ただ、対面の赤木さんが先ほどからツモ切りが多く、聴牌(テンパイ)している可能性もある。やはり早上がりの方がベターだろうか。とはいえ、局の序盤はオリや早上がりよりも攻めて大きな役を作った方が、最終的に高い順位を保てる。僕が早上がりを諦めて五萬(ウーワン)を切った時だった。
「ロン」
 赤木さんが手牌を開ける。二盃口(リャンペーコー)、言われるがままに点数を支払う。
「黙聴(ダマテン)かよ」
「知るか」
 黙聴──リーチをかけることができる状態にも関わらず、そうしないこと──は男じゃないという言い回しがあるらしい。僕は何方でも良いと思う。しないならしないで配慮する戦略が減るというだけだ。
 中盤以降の五萬なんて、典型的な危険牌だ。彼らの目には僕がどう映っているのだろう。何の考えもない青年か、日々を道楽に費やす放蕩者か。
 期待されないなら、その方が嬉しい。
 僕はもう、何かを抱えるには身に余るほど枯れて、やせ細ってしまった。
 牌が河に打ち捨てられる度に、天板は乾いた音を立てる。毛氈の下の天板は木で出来ているのだろうか。対面の赤木さんの唇から離れた珈琲のグラスが、汗をかいて彼の指を、手首を伝って、毛氈を一滴ぶん湿らせた。視界に入ってきたその動きを、自分が注視していることに気づいて初めて、喉が渇いていると思った。
「麦茶をお願いします」
 入り口近くのおばあちゃんに声をかけてから、咳払いをする。声が掠れていたかもしれない。
 窓から西日が差し込んでくる。ここは明るく、渇いていて、薄汚くて、底抜けに空気が澱んでいた。飲み物も、みな適当に頼んではいるが何処を見ても値段が明記されていない。
「麦茶ね」
 おばあちゃんがグラスいっぱいに注いだ麦茶を、僕の元まで歩くことさえ横着し、小島さんの近くから腕を伸ばした。
 と、同時に、小島さんが自摸の手を伸ばした。
 そして、当然の如く運命的に衝突した二者のその手は、渾身の麦茶を全て天板と、小島さんに溢しきった。小島さんの白い髪が、びたびたになる。
「──」
 瞬間、空気が冷える。この乾燥した部屋にコップ一杯分の水分が飛散したからではない。派手にこぼしてくれたお陰様でここに染み付いていた副流煙が麦茶の匂いになってくれたのは良いけど、何よりも、この空間の人間たち──おばあちゃんや、赤木さん、萩原さんの他にも疎にいた、管を巻いている客──が、一気に、一斉に、結束して、小島さんへ意識の糸を張ったのが分かった。この空間で小島さんがそういう立場の人なんだとも。
 みなが引き波のように、あるいは津波が襲いかかって来ると分かりながら震えることしか出来無い様に黙ってしまうと、笑い声を上げ始める人がいた。
 小島さんだった。
「おい梅子、勘弁してくれ」
 小島さんのその一言は、春雷となって、再びこの世界に雑踏を齎(もたら)した。
「ごめんなさい、今拭くもの持ってくるから」
「一旦片すぞ」
「俺良い目来てたんだけどな」
 僕も倣って牌を避けて、拭いてをしていると、小島さんと目が合う。
「水も滴るなんとやらだろ」
 びしゃびしゃなまま笑いかけてくれる。どうしてこの人が怖がられているんだろう。多分聞いちゃいけないことなんだけど。
「そうですね」
「思ってないだろ」
「いえ。小島さんは」
「おう」
「どうして僕に声をかけたんですか」
「そこにいたから」
「誰でもよかったんですか?」
「そこにいて、持ってってもよさそうだったから」
「僕が孤児(みなしご)に見えますか」
「まだガキだろう」
「なるほど」
 僕には名刺も肩書きも責任も無い。
 物心ついてから此の方、成ると歩んで来た姿は、既んでの所で僕の指をすり抜け霧散し、僕が、僕の一家が捧げてきた目標は跡形も無く消えた。僕たち一家はその先のことも考えられず暗闇にいる。僕だけが辛うじて、ゆうちゃんに手を引かれて延命しているけれど、それで何かに成った訳では無い。僕自身にはゆうちゃん以外なにも無い。わざわざ二十年を捧げ、その全てを失った。最初から甲斐の無い奉仕だったのかも知れない。僕はそれ以外に何もして来なかった。社会勉強も、友人とくだらない時間を過ごすのも。
 雀卓の外枠が外される。僕はただそれを眺める。
 大抵の人間は何者かに成る事を諦めて大人になっていく──大人の振る舞いを覚えていく、のだが、僕は何者かはおろか、大人にも成れていない。僕が専心している間に、皆は賢くも切りを付けていた。鈍間な僕はただ揺籠に戻った。ゆうちゃんは、僕がこれから大人になるための休養というより、僕を穏やかに、ゆうちゃんの元で消えていく事を望んでいるような気がする。真綿の暖かさを、僕はやんわりと感じている。
 そのものに成れなかったとて、他の道はもちろん在るはずなのだが、僕達はまるでその実在を信じられない。叶わないならその人生ごと潰えるがよい。
「これどうやってマット外すんだ」
「ああこれは──いや。せっかくだから面白いもん見せてやるよ。そのまま板ごと外せ」
 卓を拭いていたおじさんはそう言って店の奥に行ってしまった。店長なのだろうか。大きな板を狭い通路の壁にぶつける音がする。
「この雀卓は限定品でなあ──」
 大きな声で奥からやってきた店長のおじさんは、正方形の、ガラスかアクリルか、透明な板を持ってきた。あまり重くなさそうだから、アクリル板だろうか。
「GAZZ SQUARE 点数表示CFS モデル、スケルトン仕様。天板が透明なものと入れ替えられる」
 そう言いながらおじさんは、そのまま雀卓にアクリル板をセットする。牌を落とすと、カラカラと音を立てながら整列していく様子が見れる。かわいい。見ていた人たちも皆、おおーっと声を上げる。相当珍しい物なのだろう。
「面白いかと思って買ったんだが、みんなに気が散るって言われるから仕舞ってたんだよ」
「へええ。小島さんたち、打ってみてよ」
 ギャラリーが数人出来てしまった。僕だけがこの場から浮いている気がする。顔を上げるのも気まずくて、僕は天板の下をずっと視ていた。山が這い出てくる。
「さっきの続きだ」
 僕が親、東だ。特別伸びもしないが悪い配牌でもない。しかし──なんとなく既視感があるのは何だろう。こんな局面が前にもあっただろうか。
僕が違和を感じている間にも、みな口も手も動かしている。僕も相槌を打ちながら打牌している筈なのだが、どうにも意識が別の所にある。この気持ち悪さ、デジャヴの正体がきになって仕方ない。
 対面の赤木さんが山を引く。一筒だな、と思った。
 赤木さんがツモを切る。
 その河に投げ込まれた牌は、本当に一筒だった。
 第六感などでは無い。僕にはその確信があった。
 どうして?
 僕も牌を引く。發だ。そう思って引くと、指ざわりが教えてくれる。發を引いていた。まるで願ったら叶う魔法にでも掛かったみたいだが、魔法も奇跡もこの世には存在しない。するはずがないから、僕はようやくこのデジャヴの正体が分かった。
 僕は、牌が配られる様子を視ていた。どの牌がどこに配られるかを見ていた。回収時に裏側に転がっていた牌もあり全部ではないが、見えたものは全部覚えている。僕は把握している。つまり、何処にどの牌が有るか分かる。だから、次に自分が、他人が引く牌を、自分が切るべき牌が明白だった。
 何者にも成れなかった癖に、僕には未だこんな物が残っているのか。無用の長物以外の何でもない。發を切る。引く、切る、引く、落とす、河を眺める。誰が何を持ってるのか、何を狙っているのか、凡そ分かっていた。
「ツモ。純全帯么九(ジュンチャンタイヤオチュウ)」
 配牌だけはどうにもならないので、見てみたかった国士や緑一色(リューイーソー)は作れなかったが、天板を交換してからの僕は、振り込まず、危険な待ちも平然と勝ち取った。外野には豪運の青年に見えたかもしれない。とにかく勝ち続けた。
 日が暮れ始める頃、僕は黄色の紙幣を数枚受け取った。赤木さんか、萩原さんが笑って渡してくれた物だが、その時なにを話したのか、そもそも僕は誰と話したのかも分からなかった。全ての現実が意識の上滑りをしていって最悪だった。少しのお金を、中身も入っていない貰い物の財布に捩じ込んだとき、僕は空虚をさらに意識した。
 勝ちはしたが、価値がない。僕だけ違う遊びをしていた。何のリスクも駆け引きも無かった。阿呆みたいだ。
 小島さんに連れられてきた道を一人で帰る。空が赤い。記憶力ばっか有っても、他人と同じように生きる事すら出来ない。僕はただ悲しかった。道端の政治家のポスターが僕に笑いかけているのが本当に嫌で、意味もなく涙が出てくる。涙が視界に分厚いガラスを作って世界と隔てられてゆく中で、今日あった事をゆうちゃんになんて言おう、と思った。こんな僕の訳の分からない感情を、ゆうちゃんには聞いて欲しかった。

「ゆうちゃん、おかえり」
「ただいま。今日はどっか行ってたの?」
「うん」
 ゆうちゃんが帰ってくるのを待つ間は暖かいコーンスープを飲んでいた。心が少しでも落ち着けばいいと思ってやったけど、ゆうちゃんの優しい声と笑顔が何よりも僕の心を温かくしてくれる。僕は、帰ってずっと眺めていたお札を抜き身でゆうちゃんに渡す。ゆうちゃんはとりあえずそれを受け取ってくれる。
「これ、あげる」
「ありがとう……これって何?」
「三万円」
「それは、見れば分かるけど」
「おじさんたちに貰ったの」
 ゆうちゃんは「!!」みたいな顔で硬直した。ゆうちゃんは頭が良いけど、こういう時に言葉より感情表現が先行する素直さが可愛いと思う。
「お、お、おじさん……?! だからちょっと元気無、いや……私以外に……!?」
「ゆうちゃん落ち着いて。ゆうちゃんはおじさんじゃないよ」
「おじさんからお金を!!」
「うん、ごめんね。座って話そう」
 僕が手を引くと、ゆうちゃんは隣に座ってくれる。肩が触れる位の体温が、漸く僕を現実に戻してくれるような気がした。僕はゆうちゃんに寄りかかる。ゆうちゃんは先ほどの動揺が落ち着ききらないながら、僕を受け入れてくれる。
「お花に水をやってたらおじさんに声を掛けられたんだ。小島さんって名乗ってた」
「知らない人の話、聞かないほうが良いよ」
「新聞屋さんかと思って」
「そっか……」
 ゆうちゃんは僕の手を握ってくれる。仕方無くて情け無い僕は目を閉じる。
「こわかった?」
「ううん、怖かったわけじゃない。僕は……それが何かになれば良いと思った。この人が何かヒントをくれれば……些細なことで良いからって。一番は、積極的に断る理由が無かった」
「何かを焦らなくて良いよ?」
「それは、ゆうちゃんが僕にそうして欲しいと思ってるからだよ。ゆうちゃん自身はしっかり立ってるし、僕に糸を垂らしてくれるけど、それは縋る者にとってあまりに細い」
「きーくんを捨てるわけない」
「僕も、ゆうちゃんのことは信じている。僕の内側の問題なんだ」
「……私にも秘密?」
「秘密というか、言語化できないんだ。思いついたら、相談するよ。まだまだ何も分からないんだ……」
「……うん。それで……」
 件の三万円のことが気になるのだろう。ゆうちゃんの声色が心配そうなのが分かる。僕をこの世に引き止めてくれるのは、真摯なこの人だけだ。
「小島さんに着いて行ったら、雀荘だったんだ。ゆうちゃんは麻雀ってしたことある?」
「ない」
「僕もだよ。それで……たまたまのことがあって、勝って……そのお祝いで貰ったんだ。このお金は」
「か、賭け麻雀ってこと……? 初心者相手に怖いことするね」
「僕は怖いとすら思わなかったんだ……ゆうちゃんに迷惑かけるかもしれなかったのに」
 事の重大さに気付くのはいつもそれが過ぎ去ってからだ。僕の悪癖が、今迄どれほど多くの人を傷つけてきたのだろう。
「心配はしちゃうけど。挑戦したいなら、私はそれを応援するよ」
「ありがとう……」
「それに、すごいじゃん。初めてでこんなに貰えるなんて」
「僕の」
 応援する、というのは、ゆうちゃんの目の届く範囲でだろうな。涙が溢れてしまう。誰かに期待されたところで、僕は応えられないのに。
「こんなことでお金を貰うことは、僕の欲しい物じゃないんだ……でも、何が欲しいのか分からない」
「きーくん……」
 泣いて如何にかなる物では無い。泣く度にそうして泣き止もうとはするのだが、感情は理性とは全く関係ない所に有って、昂じて溢れて止まない。内に籠っている間は──外に出るか誰かに引っ張ってもらうまで自分では止められない。だけど、僕は一人で立つ気力もない。ただ、縋ればゆうちゃんが手を引いてくれるのは分かっていた。
「きーくん、泣かないで? 大丈夫だよ、ご飯食べよう」
「うん……一緒に作ろう」
「ふふ、ありがとう。カレーでいい?」
「カレーがいい。ゆうちゃんと一緒なら、なんでも……」
「うん」
 生きて行く上で、問題はいくらでも発生する。それは当人の能力不足であったり、誰も悪くないのに、ある日突然やってくることもある。その時に答えが出るものばかりではない。一旦自閉から逃れて、生活の振りをすることも、問題解決に無駄とはならない。それが息抜きの意義だ。
 僕は二人分のお米を盛る。ゆうちゃんがそれにカレーを注ぐ。ゆうちゃん曰く、「カレーは甘口が至高」らしい。僕は甘口も辛口も殆ど差が分からないが、ゆうちゃんが言うならそうなんだろう。スプーンでジャガイモを掬う。何もかも溶け込んで一つの海みたいになっている中から、宝物を探すような気持ちだ。
「でもさ、本当に凄いじゃん。今日まで麻雀やったこと無かったんでしょ?」
「そうだね……でも正しい勝ち方では無かったと言うか」
「賭け麻雀に正しさとかあるの?」
「それは無いと思うけど……そこじゃなくて、例えば神経衰弱で一人だけトランプが透けて見えてて勝っちゃうみたいな……事だったんだよ……」
「それの何が悪いの? 別にルール違反じゃないし……」
 ゆうちゃんは結果論の人である。男前だ。
 それなのに僕のことは箱庭に閉じ込めたがるのはなぜなのだろう。僕がどこかに行ってしまいそうに見えるのだろうか。心配せずとも僕は何処にも行けないのに、ゆうちゃんからは僕がそう見えているのだろうか。僕はゆうちゃんを勝手に想像して、勝手に孤独を深めた。孤独とは不理解のことである。
 誰もそんな事望んでいないのに。
「それは…………そうかも」
「そうだよーっ、それに初めてで何にせよ勝ったんなら向いてるんじゃない?」
「向いてるのかな……」
「うん。明日も行ってみれば? 今日の三万円軍資金にさ」
 この人には金銭感覚というものが無いのだろうか。
「そう……だ、かな。う〜〜〜ん」
「駄目だったらさ、その時考えればいいよ。私がついてるから、大丈夫だよ」

 結論から言うと、僕は小島さんにぼろ負けして昨日の三万円をきっちり全額失った。
 小島さんは昨日と同じように花壇を見ていた僕に声をかけてきて、僕はそれに着いて行った。昨日の三万円を懐に忍ばせ、これがどう転ぶだろう、と妄想をした。小島さんも小島さんで、雀卓が変わってから僕の様子が変わったのを気にしていたようで、僕は正直に単純極まりないトリックを話した。
 小島さんは驚いていたけれど、それならと笑って手積みのイカサマを披露してくれた。そのまま僕はそのやり口によって、勉強料を支払うこととなる。
 イカサマはされた方が悪い。僕は一度見せて貰ったイカサマを見抜けず、何回でも引っかかった。三万円失ったのも、僕が正当に勝ったとはいえない方法で得たものが元に戻っただけだから、僕は安心さえしていた。
 この世界が不完全である限り懊悩は尽きない。この不確定を言い換えるならば運である。神は骰子を振り続ける。それによって時にひとを潤し、苦しめ続ける。
 結局僕は敗者だった。でも、それを突きつけられたのが、許しみたいで心地よかった。それも、ゆうちゃんはなんて事ないように笑って聞いてくれた。

 昨日もやったけれど要るだろうか、と花を見ていた。ジョウロに水を汲んでみる。やりすぎることはないかな。茎の根元に水をやる。黒い土が黒々とする。昨日より吸いが悪い気がするが気にする程でも無い感じでもある。水が染みて行くのをじっと見る。僕もこんな風に何かに溶けていければいいのに。
 もしくは、既に食虫植物の粘液の中にいるのかもしれない。身動きする気力もないまま、僕はゆっくり溶かされていく。午睡のように、身体は沈み、意識だけが浮上する感覚。次第に音も、自我も消え、やがて心臓がどくどく言うのすら聞こえなくなる。消失の心地良さと一抹の不安をエンドルフィンが拭い去っていく。僕は天使の元へゆく。
 どく どく どく。
 瞬きをする。僕の目の前では、小さな花壇に窮屈そうな花が、それでも貪欲に成長しようとしていた。僕は拍動している。相も変わらず生かされている。隣の花にも水をやる。膝についた土を払う。今日は、出かける用がある。ジョウロをひっくり返して、物干し竿に引っ掛ける。風で飛ばないように、持ち手のとこを大きな洗濯バサミで止めて、象さんのジョウロが宙ぶらりんになる。かわいい。僕は、カーテンを閉めて着替え始めた。

「円城寺さん……円城寺棋生さん」
「あ、はい。すみません」
 はっとイヤホンを外して、鞄から診察券を出す。街中に出るときはイヤホンをつけるようになった。調子が悪い時は手袋をしていないとパニックになってしまう事も有ったけど、最近は無しでも大丈夫な日が続いている。潔癖ではないけれど、他人の触った物に言いようのない気持ち悪さを覚えていた時だ。客観的に見れば、イヤホン一つ、手袋一枚で何が変わるという感じだが、僕は如何にか、イヤホンで、手袋で、他人との間に第二の皮膚を築くような気持ちだった。あまりにも薄い境界線を、どうか誰も越えないでくれと祈りながら。
「奥から二番目の扉が空いてるお部屋にどうぞ」 
「ありがとうございます……」
 他人が傍にいるのも苦手になって、散歩以外で外に出ることも少なくなった。そんな僕でも定期に訪ねる場所がここだ。
 僕は今、隔週で心療内科に通っている。心療内科とは精神科のようなものだが、厳密には別物らしい。病院側も患者側も、あまりその区別を意識していないだろう。僕としては薬が貰えればどっちでも良い。
 先生はパソコンを見ている。おそらく僕のカルテでも読んでいるのだろう。僕は扉を閉める。
「荷物どうぞ」
「はい」
 着席しながらカゴに荷物を置く。先生は僕から二メートルほど離れた所に座っている。詳しくは知らないが、こういう診療をする人は真正面・至近距離に座るのは好ましく無いとされているらしい。僕としてもこの距離感は有難い。静かな部屋に、マウスをクリックする音だけが数回響いた。
「こんにちは」
「はい」
 先生は改めて挨拶をしてくれる。体はパソコンに向いたままだが、カルテを一通り再確認したのでお話どうぞ、ということだろう。
「どうですか、前来た時から何か変化ありますか」
「寝付きがまだ悪いです」
「薬が効かなくなってる?」
「いえ、飲んだら大体効いてます。毎日飲むのは良くないかと思って……」
「毎日分は出してないからね。今は三日に二回分だったかな……睡眠薬の増減はどうしますか」
「いえ……そのままで」
「その他はどうですか。気分とか」
「……ふとした瞬間に父はもう居ないんだなあ、とか……急に自分が生きている価値の無い世界一の罪人みたいに思えてきて、悲しさと罪悪感しか無くなって、何も出来なくなるのは……治ってないです」
 こんなこと人に言うことでは無いと思うのだが、言わないと治療も出来ない。治るものも治らなくなるから致仕方無い。僕は自分の手に視線を落とす。
「なるほど。最近は忙しいですか」
「いえ。あまり家からは出てないです」
「数分で良いから日光を浴びるのと、運動したほうが良いですよ。漢方はどうします。飲んでますか」
「はい、毎日三回」
「そうですか。余ってませんか」
「多分……」
「じゃあ日数分出しておきますね。次回はまた再来週にしますか? 来月でも良いですけど」
「いえ、再来週でお願いします」
 僕は今、消えそうな命を毎日毎日なんとか紡ぎ縒って繋いでいるに過ぎない。ひと月も先の自分が如何なっているかなんて、予想も付かない。改めて自分の頼りなさを自覚して、なぜか頬が緩んだ。
「ではまた再来週に」
「はい。失礼します……」
「お大事に」
 一礼して部屋を出る。受付で診察料を払って処方箋をもらう。僕は今年で二十七歳だが、こうなるまで一人で病院に行った事が無くて、会計して、そこで薬を処方されるものだと思っていたので、受付で一時間弱座って待ち続けた挙句、見かねた職員さんに声をかけられて処方箋の使い方を教わった。職員さんもまさか処方箋が何なのか知らず薬が出てきてくるのを待ってるとは思わず、誰かを待っている訳でも無く受付でぼーっとしている僕を見てさぞ不気味に思った事だろう。可哀想な事をした。しかし改めてその無力な僕の様子を思い返すと可笑しい。阿呆すぎるだろ。
 病院前の処方箋薬局で受付をする。睡眠薬ワンシートと日数分の漢方。ゆうちゃんの二枚目のクレジットカードで支払う。自分の口座に一銭も無い訳ではないのだが、ゆうちゃんが僕の生活を把握するために、渡されるがままカードを使っている。お陰で自分の口座はしばらく見ていないので今どうなってるのか分からない。
 現金を使う時はなるべくレシートを持ち帰ることにしている。特にそうしろと言われているわけではないのだが、そうした方がゆうちゃんは安心だろう。無用な誤解は僕達に必要ない。今の僕の命はゆうちゃんのために在るのだから、ゆうちゃんに隠す事などあるはずが無い。僕はゆうちゃんに生かされていて、ゆうちゃんは僕のために生きている。このカードは監視であると同時に、ゆうちゃんの安心でもある。ペットの監視カメラみたいなものだ。むしろ平日昼自分は仕事に出ているのにカメラを取り付けていないだけ良心的だろう。ただしスマホにZenlyは入っている。Zenlyはサ終するらしいが、その時ゆうちゃんは僕のスマホに何を入れるんだろう。いずれにしても、携帯を家に置いていけば、GPSをオフにすれば、アプリを消せば、とか、僕が僕の口座を使えば、ゆうちゃんは僕がどこで何をしているかを把握できなくなる。少し考えれば、もっと痕跡さえ残さない方法でこの監視から逃れられるだろう。
 僕がそうしないのは、ゆうちゃんがそんな幼気なお願いをするのは、お互いがお互いの生きる方策になっている、なってしまったからという、ただそれだけなのだ。僕達はこんなに細い約束でお互いの足枷としている。どちらかが振り解こうと思えば、その後どうなるかはともかく、いつでも自由になれる。しかし僕達は今や溶け合っている。時間が経つほどに、剥がせなくなる。分離できなくなる。今は良くても、同一になってしまってから後悔するかもしれない。あるかもしれない未来を想像して、僕は贅沢な後悔だなと思った。
 部屋の前にきて漸く、そういえば鍵を閉めただろうかと思い至った。ポケットから鍵を取り出す。呆けになってしまってから、鍵を二度ほど落とした。その時は警察に電話するでもなく、何をするか分からず、また特段どうにかしようとも何故か思えなかったから、ゆうちゃんが帰ってくるまでの間、ただひたすら部屋の明かない扉の前で座り込んでいた。同じアパートの人に見られたかは分からない。見られていたら流石に声をかけられたかもしれないが、かけられていたとてその時の僕はまともに応答出来ていなかっただろう。気付いたら帰宅したゆうちゃんが心配そうにしていた。冷静に考えれば警察なり大家なり、少なくともゆうちゃんに電話すべきことくらい分かるはずだと自分でも思うのだが、冷静さが残っていれば生活にここまで苦労しない。
 鍵を回すと手応えがある。鍵を落とさなかっただけでなく、ちゃんと施錠もしていたようで安心した。密閉されていた部屋に外気が流れ込む。机の上のチラシが気流で一瞬浮き上がり、戻ってゆく横で、僕はシャツのボタンを外す。
 薬を定位置に纏めて置く。睡眠薬の粒はすぐ溶けて消えるようにか、釘の頭くらいの大きさしかない。ワンシートのパッキングが駄菓子みたいだ。この小さい薬の、せいぜい一、二錠が六〇キログラムほどの僕を、ものの数十分内に凄まじい強制力で眠らせているのは、よくよく考えたら摩訶不思議である。飲むとだんだんと体が重くなる。酔った感覚にも近いが気分が良くなるというより、頭がぼんやりして段々と全身から意識が消えそのまま闇になる感覚に近い。手元には今日もらった分と少しの余りとで計十三錠ある。
 一気に飲んだらどうなるだろう。死んでしまうだろうか。意識のないまま嘔吐でもするか。嘔吐なんかするのか? 薬物乱用の知識があまりに乏しい。普通通り乏しい。そのくせ厄介なことに、具体的な自殺企図ではなく単純な興味だけで、僕はこれを全部飲んでみることに関心があった。どんな感覚になるのか、そう思うのは生に執着していないからだと言われればそうですねという話だが、試験の結果、僕の生命がどうなるかはどうでも良いというか、そもそも籠の鳥で鳴いて食べての現状に生きている実感も別に無いし、僕が一瞬でも面白ければそれで十分だろう。
 カタンとベランダから物音がして、僕は空想から抜け出す。風が窓を小さく揺らしているから、ベランダの何某か倒れたか。がらがらと立て付けの悪い網戸を引いて、外に出た。特に物干し竿や植木鉢に異常はなかった。象さんのジョウロも物干し竿に釣られたままになっている。可愛い。しかし、僕の目がいつもは無い異物を捉えた。
 赤い、パンツである。
 いや、パンツではない。パンティーである。
 僕のものではない。僕はパンティーを履かない。かつ、僕の知る限りゆうちゃんの物でもない。主張の強い鮮赤に反して、風に煽られたなら簡単に吹き飛びそうな小さな布切れにすぎないから、何処かから飛んできたのかもしれない。
 お隣さんのだろうか……。
 僕はぼんやりとお隣さんの顔を思い出し、どちらにせよ僕が返却するわけにはいかないだろう……と良心的な結論に至った。そもそもゆうちゃんの物かも知れないし、一旦これは回収させていただく。……あまり触らない方が良いのだろうか。僕は棚のペンチで跡が付かないようにそれを部屋に引き込む。なんてナイスな配慮なんだろうか……。
 今日は水やりに病院に、落とし物拾いと、色々な事があって疲れた気がする。僕はソファで横になった。目を閉じてみると、木の葉が擦れる音、遠くを車が走っていく音、時計がこちこちと秒を走る音がした。普段は気にもしない音だけがするけど、人の声はどこからも聞こえない。件のお隣さんの物音も無い。出かけているのだろうか。それとも、僕と同じようにこうして微睡んでいるのだろうか。

「ただいま」
 鍵を開ける音と、何度聞いたかも分からない感動詞が玄関の方から聞こえてきて、僕は瞼を上げた。随分と長い昼寝をしてしまったらしいことを頭の怠さが教えてくれた。
「おかえり」
 怠さを辞してゆうちゃんに抱きつく。整髪料の香りが立つ。仕事帰りのゆうちゃんの匂いだ。この香り自体が特別好きと言うわけではないが、香水とか、柔軟剤じゃなくてこの距離でしか分からない香りがするのは、何とも言えない幸福感がある。
「今日病院だったでしょ。疲れた?」
「大丈夫」
「そう…………」
 沈黙があまりにも長いから、ゆうちゃんの顔を見ると目を剥いている。それに倣って僕も視線の方へ目を向ける。向ける、と、そこには、例の真っ赤な下着が落ちていた。寝ぼけの頭で、僕は畳みもせずそこらへんに放置していたのか、とそれを眺めていた。いや、他人のパンツをべたべた触る方がまずいか。
「そうだ、ゆうちゃんこれ……」
「パンツ」
「うん」
「パンツが落ちています」
「そうだね。僕のじゃないよ」
 この反応的にゆうちゃんのじゃ無いんだろう。隣人さんのならまだ良いが、そうじゃなかったら警察に届けることになるんだろうか。隣人さん、または顔も知らない落とし主さんに下着泥棒の仕業だと思われたらどうしよう。僕達はやっていません。
 ゆうちゃんはふらふらと赤いパンツを拾い、その場で力を失って倒れ込んでしまった。その拍子に机の足やら机の天板やらに手足を引っ掛けて物凄い物音を立てる。ゆうちゃんも自分が下着泥棒に疑われるかもしれない未来を想像したのだろうか。そこまでショックなことか? もちろん嫌ではあるが。
「ゆうちゃん」
 机の上は、もう全部倒れたくらいのレベルでエライコッチャの事態になっている。怪我はないだろうかとゆうちゃんの顔を覗き込むと、信じられないくらい白い。貧血だろうか。そういえばそれくらいの日付な気がする。
「ゆうちゃん」
「私のじゃない」
「大丈夫?」
 顔が青い。視線も床の一点を凝視して動かない。瞬きはしている。瞬きは不随意か。ゆうちゃんの瞳は色素が薄くて、外に出かけるといつも眩しがっている。正面から見ると虹彩の線がくっきり見えるのだが、それを知っている人はどれくらいいるのだろう。それほど彼女の瞳を見つめるのを許されているのがどれくらいいるのか。少なければいいと思う。
 呼吸が浅い。僕の声は聞こえているだろうか。人間ここまで一瞬で具合悪くなれるものだろうか。僕も傍から見たらこんな感じなのかな。ゆうちゃんは、時々こうなる。時々というのは具体的に言うと、僕の所謂浮気を疑った時である。ああそういうことか、と僕は今更ながらに自分が踏んだ地雷を理解した。
 ごめんね、と手始めに言おうとして、それだとしたみたいだなと思い直した。誤解を解くにしてもこれでは悪手の極みであろう。なんと言えば落ち着いて話を聞いてもらえるだろうか。自分が指すべき一手を思案しているうちに取り残されるか、焦ってしくじるばかりの僕が上手いこと出来るだろうか。いや出来ない。ていうか帰宅して一瞬で過呼吸になっているのは流石に判断が速すぎるだろ。浮気判定がきつすぎる。僕の普段の行いが悪いのだろうか。でも僕も普段の行いなんか覚えてないから省みることも出来ない。そしてそもこの件に関しては悪いことは何一つもしてない。
「ベランダに出たら、」
「きーくんがそんなことするはずない」
 流石にそれくらいする。でもそう口にしたら浮気くらい致しますよ。当然でしょう。みたいになるのか。僕はベランダに出るくらいしますよの意図だが僕の声が聞こえていないゆうちゃんには絶望を与えることとなる。ショートコント人生。僕だってベランダに出ることくらいできるのだが浮気は本当にしていない。ゆうちゃんと先生くらいしか人間とまともに喋れない。
「これが落ちてたんだよ」
「ベランダでしたってこと……?」
「だとしたら勇気と元気に溢れてるね、僕」
 当然僕に勇気と元気などない。あったら働いている。働くか? 働いたことはない。
「僕は午前中病院に行った以外誰にも会ってないよ。この下着がベランダに落ちてて……お隣さんか何処かから飛んで来たんだと思う。僕が返すわけにはいかないから」
「本当」
「嘘ついてどうするの」
 支配と懇願。不安の象徴だ。さぞ苦しかろう。アイデンティティが他人に立脚しているとこうなる。僕は今や内にすらないがどちらの方が苦しいのだろう。それがどれほど苦しくても、僕は精一杯彼女を愛する努力をしてみたい。
「怪我するよ」
 さっきの破壊活動の一環でコップが割れていた。僕がここに来てから買った、数合わせのグラスだ。壊れたのがバカみたいなお揃いのマグカップでなくて良かった。それは戸棚の中にある。グラスのかけらを拾う。割れ物はどう捨てれば良かったか。
「だから、ゆうちゃんに聞いてもらいたいんだ……お隣さんに。これ、あなたのですかって」
「……ごめん。気が動転して」
「わかるよ……自分じゃどうしようもない」
「後で、行ってくるよ。お隣さんじゃなかったら警察に」
「ありがとう。ごめんね……言葉が下手くそで」
「手伝うよ」
「動かないで。大丈夫だから……危ないよ」
 かちゃん、かちゃん。チラシの上に欠片を慎重に一つ一つやっていけば怪我をすることはない。でも、心のどこかで指を切ってしまう自分を想像する。ずきずきする痛み、どくどく溢れる血……指先だしそんなに出ないか。快適にシャンプーもできない自分を想像して、やっぱいいやと言う気分になった。
 その後、ゆうちゃんは紙袋に真っ赤なパンツを綺麗に畳んで隣人を訪ねると、お隣さんのものだったようで、全て丸く収まったらしい。僕たちの間にも、コップが一つ割れた以外は何の影響も無かった。この程度の動揺は僕たちの間ではめ珍しいことでは無いからだ。

「きーくん」
「ゆうちゃん」
「おはよう」
 ゆうちゃんが僕を覗き込んで微笑んでいる。覗き込んでというか、僕の首を絞めている。ただし締めていると言うより手で包んでいるに近い。彼女が非力だからではなく、力加減を知っているからだ。
「僕のこと殺したい? それとも苦しんでいる顔が見たいだけ?」
「そんなの要らないけど、止めないと死んじゃうよ」
「それで僕を試しているなら、いいよ」
「いけないんだ……本当は起こしに来ただけ」
 ゆうちゃんは僕の首から手を離して立ち上がる。きれいだ。でもゆうちゃんが僕を起こすのは珍しい。いつもは僕を気遣って起こさない。ご飯は冷蔵庫に用意して、先に仕事に行っている。
「今日お休みなの?」
「行こう」
 ゆうちゃんは答えてくれない。僕はゆうちゃんに引きずられるがまま起き出す。
「どこへ」
「デート」
 少し歩くと森の中にいた。僕たちは家の鍵をしただろうか。ゆうちゃんはシートとお弁当箱を広げて、ゆっくりと足を畳む。僕は隣に正座する。長閑だった。お弁当箱には、食パンを四つに切った小さなサンドイッチが詰め込まれていた。ゆうちゃんは嬉しそうに言うのだ。
「この下に埋めたよね」
「誰を」
 何を、ではなく。
「そんなの」
「きーくんに決まってるじゃない」
 足に何かが当って見てみれば、僕の死体が僕を見ていた。
「あ」
 円城寺棋生三段は死んだ。
 僕は、二十六歳になるまで将棋だけしてきた。父が将棋に熱心な人で、奨励会という所で、ずっとプロを目指していた。高校を卒業してからも進学せずにずっと将棋だった。それでも僕は、三段リーグというプロ試験を抜けられずに、二十六歳で奨励会を退会した。
二十年を将棋に捧げて呆気なく振られたのだ。僕は生きる意味を失った。将棋教室の先生になるとか、プロでなくとも将棋で生きていくことは可能だった。でも僕には到底できなかった。それほど自分の不甲斐なさに絶望していた。先生ごめんなさい。母さんごめんなさい。父さん、ごめんなさい。父は、僕が最後の三段を抜けれなかったと聞くや否や、目の前で聞き取れない言葉らしきものを叫んで自分の喉を刺して死んだ。父も、僕と同じく三段リーグを抜けられなかった人だった。父は三段リーグに挑んでいた頃には母と結婚していて、プロになれなかったなりに、僕が生まれて数年は僕という存在を守るべく正気を保っていた。でも、僕が義務教育を終了する頃には失った将来を僕に期待するだけの鬼みたいに成っていた。けれど僕にとってはそれが将棋に向かう姿勢の正常だった。それが異常だと分かったのはこの父の自決を見た時だった。
 父の頸動脈がリズミカルに血を上げるのを見て、僕はあまりにも後悔した。自分の、僕達の全てを捧げてなお及ばなかったこと。父に嬉しい報告ができなかったこと。父に真実を告げるべきでなかったと。
 狂ってしまった父は、ずっと夢を見ていたのに、僕が叩き起してしまった。父さん、僕たちは──ずっと叶わない恋をしていたんだ、愚かにも親子揃って、と僕は父の耳元で叫んでしまったのだ。
 悲鳴も上げられない母が震える手で救急車を呼ぶ声を呆然と聞いていた。僕たちは碌な応急処置も出来ず、救急車が来る頃には動かぬ父と血液の円弧を塗られた襖だけが残っていた。
 父の葬式は小さく済ませた。元より気狂いで定職に就いてはいなかったし近所付き合いもなかったから、それでよかった。
 どこか遠くに行きたいと思った。
 灰になった父の骨を拾う。僕たちはもっと早くこうすべきだったのかもしれない。気づけば見慣れぬ海にいた。
 足に飛沫が掛かる。父は灰に、僕は──
 波音に包まれている。
 僕は何も持っていなかった。
 この夕日が落ちたら海に入ろうと思った。
 ゆうちゃんに出会ったのは、そのときだった。
 ゆうちゃんは僕に何もしなくていいと言った。料理も、掃除も、洗濯も、将棋も。ゆうちゃんは僕の生活の全てをした。そうしているうちに、円城寺棋生三段は死んだ。僕は、あってないような生活の中で、過去も、将棋も失った。あるのは、生きる意味をなくしてあの日死のうとした僕の命だけだった。

 がちゃんと玄関の音がした。カーテンの外は夕焼けだった。
「きーくん」
「ゆうちゃん」
「ただいま」
 僕はここが森の中でないと気づく。いつも通りの僕達の部屋だ。いつも通りの一室の、いつも通りのソファの上で夢を見ていた。今は現実で、そして僕は涙と鼻水を出しながら強ばるただの二十七歳だった。
「ゆうちゃん」
「ここにいるよ。大丈夫、大丈夫」
 ゆうちゃんは帰るや否やこの状況なのに「またか」くらいの顔で僕を抱きしめる。僕は小さいその体に縋ることしか出来ない。今まで将棋しかせず、それさえも既に無いからだ。
「ずっと一緒にいるから」
「ゆうちゃん、僕を探さないで。置いていって」
「ごめんね、でも一人は寂しいの」
 ゆうちゃんにとって僕は、決定的なお荷物でありながら捨てることが出来ない。今や、彼女が僕の唯一のアイデンティティで、彼女は僕のアイデンティティであることをアイデンティティにした。僕達はお互いがいなければ生きられない。
 今に始まった話ではない。僕の命は、元から僕だけのものでは無かった。棋士だった父が精神を病んでから、母は僕が父の夢を継いでくれたらと困って笑うことがよくあった。
 かつて僕の命は父の夢で母の願いだった。
 高校に入って漸く、他人と自分の頭の構造が違うと分かった。特異という孤独に気づいてしまってからは、耐えられなくなって、高校を卒業して八年もプロの道に縋って、結果落ちた。八年間進学もせず所謂就職もしなかったからといって仕事が無いわけではない。一緒に励んだ友達は地域の将棋塾の先生をしている。将棋を捨て去って生きる道もある。将棋に全く関わりのない仕事に就いた人の方が多い。
 でも僕は、二十七年という己の命を使って懸けてきたものが無くなり、僕の心は空っぽになって、割れてばらばらに壊れてしまった。でも、もうそれで良い。僕にはゆうちゃんがいる。帰る場所と、どんな形であれ僕を必要としてくれる人がいる。自分の人生が壊れても、他人のために生きて良い。花に水をやれば良い。平穏に生きれば良い。少なくとも、目を腫らして、眠れない孤独を幾日重ねても、狂ったまま自死を選ぶよりは良いはずなのだ。僕にはそうとしか思えない。それ以外の選択肢も無い。

「きみはまだ世界を知らないから、いちばん身近な男に恋をしてみたかっただけだ」と言われたらその程度の恋だった。
 私がきーくんと出会ったのは、高校生の時だった。向こうは覚えていないみたいだけど、当時私たちは確かに同じ教室に居た。苗字が円城寺と楠井だから、席が隣だった瞬間もある。ただ、高校生の楠井ゆうなんて覚えてくれていない方が良かった。可愛くもないし、社交的でもなかった。今も、金銭の支援以外の面では彼の横に自分がいるのはふさわしく無いと思っている。人生上で地震があった事なんてただの一度も無い。
 当時のきーくんは休みがちだったし、いつも遠くを見てる感じで(今もぼーっとしているけど)、私は深く関わる事はなかった。けれど、その横顔に、小さくて上品なその声と言葉に、私は恋をしてしまった。高校を卒業してからも、将棋なんか分からないなりに、円城寺棋生の名を追い続けた。ただ、あの日海で棋生くんの手をとって、確かに彼の瞳に私が映ったのは偶然だった。偶然だからこそ、私は運命でも魔法でも、そのことに感謝した。あの夕焼けの中で、八年とかそれくらい振りに彼の髪を、耳を、睫毛を至近距離で眺めて、私は二度目の恋に落ちた。敵わないなと思った。特別話したこともない、「その程度の恋」でも良いと思えた。
 その後、きーくんからお父さんのことを聞いた。生きる標と親類との別離が同時に起こって活力が消えたのは見て分かった。辛い事があって、そこから逃げるのはいいだろう。でもこの人は逃げたことが苦しかった。そのことに対して、私は何をしてあげれるだろう。プロになれなかったことは知っていた。だけど、それでも尚、彼の美しさが枯れる事は無かった。むしろ増していると思う。私は彼に長生きしてもらいたいと思いながら、彼の悲痛が彼をより美しくさせているとも思っている。私の手の中で彼が癒されていくことは、嬉しい。でも、この美しさを、私は殺しているんじゃ無いかと不安にもなる。今は、彼をどうしたいのか、彼とどう生きたいのか未だ分からない。無理に答えを出そうとも思わない。時が解決するしかない事など、幾らでもある。
 本当は、私がそうしたくないだけなのかもしれない。

ヴィイイイイイイイイイイイイ。
 「きーくん?」
「……ごめん。ぼーっとしてた……」
「いいけど」
 ゆうちゃんは真っ赤な顔で笑う。その手にはチェーンソーがある。僕は座ってそれを見ている。信じられないがここは風呂の中である。
 ハイツ スーパービッグラブの、203号室の風呂場である。
 うるさい。非常に。モーターの音がこの狭い室内に反響しまくって最悪だ。鼓膜どころか全身が振動している気がする。
 特にこのマンションの浴室は廊下に面しているため、この怪音が皆に聞こえているだろう。逆にここまで隠さないと工事だと思われてご近所トラブルにもならない。らしい。ゆうちゃんが言うならそうなんだろう。彼女は僕がここに来る前からこれをやっているが、今まで隣人とのトラブルは無いそうだ。おかしいのは僕なのだろうか。
「謝ることなんてないよ」
 正直轟音で何を言っているのかあまり聞き取れないのだがそこだけ聞こえた。今更だが申しわけないことをしたなと思った。
 浴槽には、僕たちと同じくらいの女性が死んでいる。
 ゆうちゃんが殺した。
 僕はその死体遺棄の下準備を見守っている。そう頼まれた。
 浴槽の人のことは何も知らない。彼女はただの宗教勧誘だ。僕が玄関先でぼーっとその話を聞いているところにゆうちゃんが帰宅し、その熱心さがとんでもない勘違いを引き起こし、こうなってしまった。可哀想に。
 僕は片付けの一切をしなくていいから見ていろと言われている。狙ってやっているかは分からないが、多分、お前のせいでこうなっているんだぞと言う罪悪感を刷り込む意図が有るんだろう。
 いかにスーパービッグラブの素晴らしい薄弱な防音構造を踏まえてもご近所さんに断末魔を聞かせるわけには訳にはいかないからという理由で、女性は先ず喉を潰されている。だからゆうちゃんは返り血でべったりだ。その後の手腕は本当に目を見張るものがあった。僕には知識が無いので、どうやっていたかの説明は出来ないが、非常に鮮やかな出来事であった。今は、当然見つかってしまうと拙いので死体遺棄の準備をしている。と言っても適当に運びやすいように四肢を切って少々の血抜きをするだけだ。
 ゆうちゃんは大きめの袋に新聞を詰めて肉を仕舞っていく。新聞は液漏れ防止だろう。ゴミ袋を二重にする。ぎゅうっと固く口を結んでいる。僕はそれを横目に風呂を掃除する。冷たい水で、酵素系の洗剤を使う。落ちないところはカビハイターでもかけておこう。ダメだったら敷金を払えばいい。
「お掃除してくれたの? ありがとう」
「掃除、結構好きだから……」
 にっこり笑ってゆうちゃんは返り血を落とす為に風呂に消えた。肉の入った袋は玄関に置いた儘だ。いま人が来たらどうするんだろう……僕がもしもの言い訳を考えて居る内に、ゆうちゃんはお風呂から出て来る。
「じゃ、行こっか。海がいい? 山がいい?」
「海」
 ゆうちゃんは車の鍵を持って笑う。その逆の手には肉の袋を提げて。チェーンソーはタンスの下に仕舞ったらしい。そんなとこに仕舞うな。
 僕はシートベルトをする。ゆうちゃんはすっぴんだった。夜の町は電灯がポツポツあって、ラジオからはジャズが流れている。窓を開けると、街の匂いがした。ゆうちゃんの髪は濡れたままだから、風には靡かなかった。直に、潮の匂いが近くなる。車を降りても、海はただ真っ暗だった。
 風がなくてよかった。電灯もないから、僕はスマホのライトを点ける。ゆうちゃんは無邪気に「海だ」と笑っている。真っ暗で、波の音だけがまあまあ大きく聞こえていた。
 僕は半身を捻って死体の袋を投げ捨てる。合う筈も無いけど、袋の中の女性と目が合った気がした。そのまま、ゆうちゃんの手を取る。
「どうしたの?」
「踊りたくって」
「どうやるの」
「僕も分かんない」
 ただ笑い合う。波間が僕たちのダンスホールになる。僕たちの指は赤い運命でぎちぎちに縛られている。こんな糸の為に僕達はお互いが酸素になってしまった。
 大動脈は二、三センチ程の人体で最大の血管だけれど、僕らを繋ぐこの不可視の赤い糸は、こんなにも頼りなく、そして致命的だった。
「ゆうちゃん」
「なあに」
「ずっと一緒だよ」
 暗くてゆうちゃんの顔は見えない。
「当たり前じゃん」
 僕たちの背後には、何処までも真っ暗な海と真っ暗な街が広がっていた。だから、僕はぎゅうっと彼女の手を握り直した。

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