千日「かいほう」行 85日目
ついに「東京2020五輪」が始まってしまいました。今、母とともにテレビ観戦しています。母に1964年の開催のことを話しかけていますが、母の記憶の「かいほう」をしていますが、要領が得ず続きません。寝る時間になっても「もう二度と見られない」と観ています。確かに3年後には母はいないかもしれません。
私にとっても日本での五輪開催はもう見られないかもしれません。開催が決まったときの高揚感が夢のようです。こんな五輪を「解法」できたのは超能力者だけでしょう。しかしコロナ禍という経験則がないこととはいえ、一年延期後の安倍・菅政権の感染予防策の見通す「解法」が甘かったといわざるを得ません。
観客のいない客席に向かって入場行進して手を振るアスリートに何ら責任はありません。世論が開催の賛否二分される中、開催する意義として挙げられたのがアスリートへの五輪という競技の最高峰に挑戦する機会でした。さらに一年後はアスリート一人一人にとって「最高」ではなくなるかもしれません。まさに「この時」しかありません。
しかし母の「もう二度と見られない」と同じように、私も誰しも「この時」しかなく、いつでも「一期一会」です。だからこそ「一期一会」を奪う「コロナ」に恐怖します。
無観客でアスリートの出場辞退も出てメダルの価値に疑問視されています。さらに開催中に陽性者が相次げば、試合の公正性にも疑問視され、「東京2020五輪」の競技の最高峰の地位は損なわれてしまいます。だとすれば、異例の開催として記録を競う「記念」ではなく、「コロナ禍」による世界中の死者を悼み、克服していく「祈念」とし、アスリートには五輪憲章の原点に戻って参加することに意義を求めてもらいたいものです。その中で最後までプレーするアスリートの姿はまさに最期の最期まで生き(活き)ようとするコロナ感染者です。私には「一期一会」としてテレビ観戦していくことで「東京2020五輪」を「かいほう」して行くことになります。
とにかく開催される以上、連日の猛暑、さらに台風シーズンを迎えて、東京パラリンピックまで無事終わることを「祈念」します。その後の新型コロナ感染対策はその責任も含めて菅政権に「解法」してもらうしかありません。