【随筆】幸福感と幸福観
日本人(とも限らない)の持つステレオタイプの幸福というのは、良い教育を受け良い会社に入り良い人と出会い良い家庭を築き、身体的にも精神的にも健康であることをいうのだと思う。
ぼんやりとしてはいるものの確実に存在するその幸福観は、何を根拠にその主体を「幸福」としているのかというと、それは客観的評価に他ならないのだと思う。つまりそこにあるのは「多くの人が認める幸せ」であり、さらに言えば「多くの人が認めるとされている」ことに意味がある。
これはつまりステレオタイプの幸福というのは、神話や貨幣価値のように信仰が根幹にあるということに他ならないのだ。
では、ステレオタイプの幸福を目指すことは良いことなのだろうか。
この問いに対する個人的な感想としては、おそらく良いことなのだ。今の社会においては。
僕ら人間というのは、考える葦でありながらも俗人であり迷える羊であるのだ。
洗礼を受け隣人を愛するわけでもなく、出家し悟りを開くわけでもなく、「良い教育、良い仕事、良い伴侶、良い家庭」を目指す。それはもはや緩い信仰であり、多くの場合それらは「高学歴、大企業、高収入、高IQ、高偏差値」という像に置き換わっている。
そこを目指すことが幸せかどうかという判断は非常に難しいのだが、「多くの人が認める幸せとされている」以上、客観的には幸せとされているのだ。
幸せと感じることが幸せであることにほかならないのだが、幸せと感じてさえいれば幸せであるというわけではない。というのが、僕ら人間が持つ幸福感てあり幸福観なのだと思う。薬物では幸福感はあるが幸福観はないのだ。
考える葦といえども、考えるには言語が必要で、その言語は所詮集団の中でしか意味を持たない。意味とは他者(集団)が与えるものだ。だからこそ他者が意味を持たせているものに価値観が引き寄せられる。
ステレオタイプの幸福を一新するのはかなり難しいと思う。科学が発展しても宗教や神話が残るように、ステレオタイプの幸福はなかなか崩れない。晩婚化や少子化が進むというのは、実はこの幸福観の実現のハードルが高いということだ。
そして、神話は崩せなくとも、貨幣は崩れる。新しい宗教が生まれればそれが流行るかもしれない。ただ、新しい宗教にはカルトが多い。注意が必要だろう。新しい幸福観というものが世界的に作られつつある気がする…