硫黄島異聞‐なぜ彼は愛馬から落ちたのか。あるいはバロン西とウラヌス号、アスコツト号の話‐⑨
第八章「1936年 伯 林 ‐オリンピックの覇者‐」
総合馬術・三日目の8月16日は、オリンピック最終日でもある。
午前の障害飛越審査、そして午後から行われるプリ・デ・ナシオン(優勝国賞典)が終わればそのまま閉会式となる。すでにベルリン郊外のオリンピック競技場は、大会の締めくくりを見届けようと押し寄せた10万人の観客で埋め尽くされていた。
障害飛越審査(スタジアムジャンプ)は余力審査とも呼ばれている。ここまでの二日間の競技で参加馬は心身ともにヘトヘトだ。その状態でなお、障害飛越を行うだけの力が残っているか試されるのだ。
馬体検査や人馬の疲労から三組が棄権していたので、最終日に残っているのは27組だった。総合馬術に出場した50組のうち、半数近い選手が余力審査に挑むことなく敗退している。
今この場に立っている人馬は、選び抜かれた精鋭中の精鋭といえる。そのなかに自分とアスコツト号がいることを、西は誇らしく感じた。
「――ハッ!」
競技場内に用意された全長1100メートルの障害コースを、アスコツト号が駆け抜ける。
ここで使用される障害物は、陸上の棒高跳びに似た横棒を飛び越えるものだ。棒を落とす他にも、飛越拒否や飛ぶ順番を間違えたり、規定時間を越えた場合は減点になる。
各障害は大半が130センチ以下と低めになっているが、疲れが蓄積した馬にとってはただの障害飛越よりもキツかった。
「ぐっ――」
飛越が浅い。疲れで蹴り脚が弱くなっているのだ。アスコツト号は他よりも高い七号障害で後ろ脚を引っかけ、棒を落としてしまう。
(踏ん張れ、アスコツト。あと一息だ)
アスコツト号は残る力を振り絞って飛越する。西も全神経を集中させて、最適の間で踏み切りの指示を送る。
人馬で力を合わせ、高さ150センチの十二号障害を綺麗に飛び越えた。十二個の障害を全て時間内に通過する。
西とアスコツト号は、ついに三日間に及ぶ戦いをやり遂げた。
歓声に湧き立つ障害コースを後にしながら、西はあらためて長く苦しい競技を乗り切ってくれた愛馬を労う。
アスコツト号が落とした棒は一本のみだった。どの馬も苦しい余力審査を、西は4位タイの好成績で終えた。
総合順位は追い上げ叶わず12位のままだったが、人馬ともに持てる力は出し切った。西はこの結果に納得していた。
ヨーロッパの馬術家たちは、日本選手が国内に引き篭もっている間に大きく進歩していた。世界の壁の高さをあらためて知ることができたという点で、価値のある挑戦だった。
何よりも舌を巻いたのは、棒を一本も落とさず完璧な飛越を披露した人馬が三組もいたことだろう。
彼らは西と同じく、二日目の時点でメダルを獲得できないことが確定してた選手たちだ。三者ともそれを承知で競技に挑み、最高の結果を出してみせた。技術のみならず、その敢闘精神に同じ馬術家として感銘を受ける。
そしてまた一人、不屈の心で競技に挑もうとする挑戦者がいた――。
「……その姿で本当に飛ぶつもりなのか、ヴァンゲンハイム中尉?」
これから競技へ向かおうとする青年に、西は問い質すように声をかける。
ヴァンゲンハイム中尉は負傷して動かせない左腕を、包帯で体に縛りつけていた。ただでさえ危険が伴う障害飛越に、この青年は片腕だけで挑もうというのだ。
もはや勇敢を通り越して、常軌を逸しているとしか思えない。
彼をそこまで駆り立てるものとは、一体なんなのか。
若さゆえの蛮勇か、国家の代表としての使命か――それとも騎兵としての誇りか。
だが微笑を浮べるヴァンゲンハイム中尉の表情には、そうした気負いは感じられない。
「止めても無駄ですよ、大尉殿。自分は必ず最後まで競技をやり遂げてみせます」
そう宣言すると、彼は仲間の介助を受けて馬に跨る。
「フィール・グリュック(健闘を祈る)」この場にいる関係者らの激励を背にして、ヴァンゲンハイム中尉は愛馬と共に競技を開始する。
会場全体が固唾を呑んで、彼らの挑戦を見守った。
ヴァンゲンハイム中尉は慎重な飛越で、最初の一号障害を通過した。
彼の愛馬クアフュルスト号は疲れをみせるどころか、むしろ昨日の野外審査よりも調子が良く見える。騎手の怪我を感じさせない見事な飛越で、次々と障害をこなしてゆく。
右腕一本で馬を操る騎手とそれを支える愛馬の姿に、会場中が湧いた。
異変はコース半ばの七号障害で起きた。
クアフュルスト号が順番を間違え、別の障害へ向かったのだ。
止めようとヴァンゲンハイム中尉が手綱を引く。その拍子にクアフュルスト号が立ち上がり、彼はあえなく愛馬の背中から振り落とされてしまった。
ヴァンゲンハイム中尉は受け身も取れず、地に叩きつけられる。死んだようにピクリとも動かないその様子に、会場が静まり返った。
誰もが最悪の事態を想像するなか――またも信じられないことが起きた。
倒れる主人にクアフュルスト号が身を寄せる。するとヴァンゲンハイム中尉は意識を取り戻し、再び愛馬に跨がって競技を続行したのだ。
呆然とその光景を見守っていた観客たちが、我に返ったように人馬へ声援を送る。みながひたむきに競技を続ける騎手と愛馬の姿に心を打たれていた。
国も人種も立場の違いも関係なく、会場全体が一体となって、一組の人馬を応援する。
それは決して誉められた騎乗ではなかった。飛越のたびに騎手は態勢を崩し、馬は何度も棒を落としかける。障害を通過するのにもたついて、時間もかかっていた。
理想的な飛越とはかけ離れている――それでもなお、彼らの姿は美しかった。
人と馬が互いの欠点を補い合い、心をひとつにして果敢に目の前の障害へ挑んでゆく――それは掛け値なしに人馬一体の境地と呼べるものだった。
ヴァンゲンハイム中尉とクアフュルスト号は規定時間を6秒以上も超過して、ようやくコースを完走した。
しかし、彼らを笑う者など誰もいない。10万人の観客全てが勇敢なる騎手と愛馬を祝福している。鳴り止まない拍手は、彼らが会場を後にしても途切れることなく続いた。
大興奮の観客席とは対照的に、静かに炎を称える聖火を見つめながら、西は万感の思いで呟く。
「……聖火の祝福を受けていたのは、彼らだったのかも知れないな」
この場にいる者たち全てが認めていた。
きっと彼らこそが、真にオリンピズムを体現せし者――オリンピックの覇者であると。
***
最終日に残った27組の人馬はみな無事に障害コースを完走し、三日間に渡る競技を終えた。
総合1位はドイツのシュトゥッベンドルフ大尉とヌルミ号。彼らは最初から最後まで首位を独走したまま、圧倒的な強さで金メダルに輝いている。
2位はアメリカのトムソン大尉と麗しの令嬢ジェニーキャンプ号。彼は前大会で西とメダルを競ったアメリカの古豪・チェンバレン大尉の弟子にあたる人物だ。「次こそは金を」と記者たちに熱く語っていた。
3位はデンマークのランディング中尉。三十七歳のベテラン騎手は自らが手塩にかけて育てたイアソン号を駆り、そつのない騎乗で銅メダルを手にした。
ヴァンゲンハイム中尉とクアフュルスト号の成績は余力審査25位、総合順位で27組中24位と振るわないものであった。
だが彼らが競技を完遂したことで、ドイツは個人優勝だけでなく団体戦においても金メダルを獲得していた。
地元ドイツの快進撃はさらに続いた。
オリンピック全日程の最終種目である馬術・障害飛越競技――プリ・デ・ナシオン(優勝国賞典)では、ドイツの俊英クルト・ハッセ中尉とルーマニアの選手が熾烈なメダル争いを繰り広げた。
棒を一本落としただけの同点首位となった両者は、急遽行われた優勝決定戦においても互いに一歩も譲らない。
またしても同点という稀にみる好勝負の末、タイム差によりハッセ中尉と愛馬トラ号が金メダルを射止めた。
これによりドイツは馬場馬術・総合馬術・障害飛越の全てで個人優勝、団体優勝という完全制覇を果たし、一国が馬術全種目で六つの金メダルを独占するという近代オリンピック史上初の歴史的快挙を達成した。
会場全体が〝優勝国賞典〟の名に相応しい盛り上がりを見せるなか、ドイツの人馬たちは誇らしげに表彰台へ立っている。
そのなかにヴァンゲンハイム中尉の姿があった。この偉業における一番の功労者は間違いなく彼だ。彼が競技を棄権していたら、完全制覇の大記録は成し得なかった。
包帯だらけの姿で晴れやかな笑顔を見せるヴァンゲンハイム中尉は、もはや気弱な青年ではない。首から提げた金メダルに相応しい名騎手だ。
それを西はどこか眩しげに見つめていた。
四年前は、あの場に西と愛馬ウラヌス号が立っていた。だが、今は他の選手と共に彼らへ羨望の眼差しを向ける立場である。
ウラヌス号と共に臨んだ今大会の障害飛越競技で、西は20位という結果に終っている。
ウラヌス号はすでに十七歳――油の乗り切っていた四年前とは違い、年老いた愛馬にかつての輝きがないことは理解していた。
競技馬としてとうに盛りを過ぎていたウラヌス号は、コースに用意された二十個の障害で五本も棒を落とし、完走するだけで精一杯という有り様だった。
それでも十六頭も失格馬が出る厳しいコースを、衰えた体力で最後まで走りきったのだ。この馬がいま出せる力は出し切ってくれた。
日本はファーレーズ号の岩橋中尉が14位、朝富士号の稲波中尉が35位と、誰も上位には食い込めなかった。
しかし、ひとりの失格者も出さずに団体戦では6位に残った。
優勝候補であったイギリスは全滅し、強豪の一角スウェーデンも失格者を出して参加十八カ国中わずか七カ国しか団体戦に残れないなか、日本が6位に入ったことは評価できる。
前二大会では選手不足や失格者によって、そもそも団体戦に残ることすらできなかったのだ。それが初めて団体で結果を出したのだから、日本の馬術は着実に力を付けている。
今回あらためて西が学んだことは、諸外国の層の厚さである。
前人未到の馬術完全制覇を達成したドイツはもちろん、世界には人も馬もメダルを狙える実力者が大勢いるのだ。
それらと日本の人馬が互角に渡り合うには、ひとりの選手や一頭の馬だけでなく全体の底上げが急務であろう。そのためには沢山の優秀な人馬を育てねばならない。
次なる戦いは、すでに始まっている。
オリンピック開会式前日の8月31日。ベルリンで開かれたIOCの投票により、次の開催地には東京が選ばれていた。
日本初のオリンピック開催――四年後の〝東京オリンピック〟が実現したのだ。
次は地元で世界の強豪たちを迎え撃つ立場になる。
西は競技馬として充実期を迎えたアスコツト号と共に、彼らと正々堂々渡り合う。そして大勢の日本人が見ている前で、再びメダルを手にするのだ。
敗戦の悔しさは、いつの間にか次なる目標へと変わっていた。
オリンピックは参加することに意味がある――ならば、ここで得た経験を意味あるものとしよう。
今日の負けを明日の勝利へとつなげる――それこそが西にとってのオリンピズムだ。
「次こそは、必ず……!」
煌々と炎を燃やすオリンピアの聖火に、西は再起を誓った。
***
新たな決意を胸に帰国した西を待っていたのは、予想外の事態だった。
ベルリンオリンピックから三ヵ月後。
突如として西は騎兵学校の教官の任を解かれ、満州・チチハル市に駐屯する第一師団所属騎兵第一連隊への転属命令が下されたのだ――。
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