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硫黄島異聞‐なぜ彼は愛馬から落ちたのか。あるいはバロン西とウラヌス号、アスコツト号の話‐⑧

第七章「1936年 伯 林 ‐総合馬術競技・二日目(後)‐」


 木立を抜けた先にある土手をアスコツト号は一気に駆け登る。 
 西たちは細い農道を抜け、第三区間である牧場地へ入っていた。
 第三区間は15キロと全区間中もっとも距離が長い。起伏のある地形と自然林の間を抜けるコースは変化に富み、人馬の体力と気力をじわじわ削ぎ落としてゆく。
 
 太陽はすでに中天に近かった。額から流れる汗を軍服の袖で拭いながら、西は愛馬の様子を確かめる。
 第二区間の競馬場を過ぎてから、そろそろ一時間近くになる。さしものアスコツト号も疲れが出てくる頃合いだった。

「アスコツト、ここで少し息を入れよう」

 西が手綱を引くと、アスコツト号は〝いいのか?〟と言うように首を傾げる素振りをする。

「時間はじゅうぶん稼いだ。余力は勝負所に取っておくんだ」

 こちらの意図を理解するように、賢いこの馬は襲歩(しゅうほ)から駈歩(かけあし)へ速度を落とす。それでいて〝俺はまだまだやれるぞ〟と言わんばかりにグッと力強く馬銜(ハミ)を噛んでみせた。
 頼もしい相棒に満足しながら、西も大きく深呼吸する。
 ここまで西とアスコツト号は、ほぼ完璧に近い形でコースを走破している。飛越拒否や転倒による減点もなければ、道を間違えて時間を無駄にするようなヘマもしていない。
 ここを抜ければ、問題の第四区間に突入する。第四区間は森と平原に造られた8キロの自然障害コースになっている。勝負はこれを無事に通過できるか否かにかかっていた。
 
 木漏れ日に照らし出された地面に、無数の馬たちが刻んだ蹄鉄の足跡が森の奥へと続いている。
 敗者を誘う地獄の道か、またはメダルにつながる勝利の道しるべか――。
 意を決して西はアスコツト号と共に、うっそうと木の生い茂る森の中へ飛び込んだ。
 
 まずは一号障害の竹柵(ちくさく)を飛び越える。
 後に控えるものに比べれば、高さ120センチの竹柵など肩慣らしに過ぎない。問題なくこれを通過した西とアスコツト号は、速歩(はやあし)で呼吸を整えながら先へ進む。
 森の切れ間に突然、崖のような急斜面が現れる。
 ひとつ目の難所である二号障害だ。
 高低差5メートルの下り坂の先には、幅2メートルの乾濠(かんごう)が設けられている。ひとたび脚を滑らせれば、人馬ともに奈落の底へ転げ落ちてしまう危険な複合障害だった。
 西はアスコツト号の手綱を引き速度を落とすと、常歩(なみあし)で一歩一歩足もとを確かめるように坂を降りてゆく。

「そうだ、アスコツト。ゆっくりでいい」

 ここを攻略するのに必要なのは慎重さだ。下手に速く駆け降りようとして転倒すれば、人馬ともに大怪我を負いかねない。
 前半で稼いだ時間を存分に活かす。西とアスコツト号は急ぐことなくゆっくりと時間をかけて斜面を下り、その先の乾濠を一気に飛び越えた。
 再び速度を上げる。続く三号障害の二重丸太越えも無難にこなし、いよいよ大きな難所へと迫る。

 木々の間を通り抜けると、開けた広場に造れた溜め池――四号障害の飛び込み水濠(すいごう)が見えた。
 ただの水濠とは違い、高さ60センチの丸太障害を飛び越えてその下の水濠へ飛び込むという前代未聞の難所である。 
 西ら日本選手はこのような障害を飛んだ経験がなく、これをどうやって攻略するべきか何度も議論を交わしていた。

 水濠は右側が浅く左側が深い設計であることが事前に知らされていたのだが、どちらへ飛ぶべきかで見解が割れたのだ。
 左側が不利なのは当然として、右側に向かって斜めに踏み切ると着地の体勢が崩れ、馬が脚を滑らせる怖れがある。
 そのため西たちは、水底がなだらかな中央部分へ向かって真っ直ぐ飛ぶのがもっとも安全だろうと結論を出していた。

(ここが勝負所だ。往くぞ、アスコツト! )
 
 溜めた力を解放するように、西はアスコツト号を一気に加速させる。
 広場に集まる観客から歓声が湧き起こった。
 人々の声援に背中を押されて、西とアスコツト号は迷いなく中央から踏み切った。
 教本通りの美しい飛越で丸太を飛び越え、真っ直ぐに水面へ飛び込む。
 バシャーッ、と滝のような水しぶきが弾ける。

 ――その瞬間、ずぶりと体が沈む感覚が西を襲った。

(なんだこれは――)

 西とアスコツト号はまるで底無し沼に落ちたかのように、深い水底へと飲み込まれてゆく。
 何が起こったのか分からぬうち、水をかぶった西の体が激しく揺れた。アスコツト号がもがいた拍子に、鐙(あぶみ)から足が外れたのだ。
 このままでは振り落とされる。無我夢中で馬の首にしがみつこうと伸ばした手が、泥でずるりと滑った。

「あっ」と声を上げる間もなく、西はアスコツト号の背中から放り出されていた。

 盛大な水音を立てて水濠へ落ちる。全身ずぶ濡れになりながら、西は混乱していた。
 深い。深すぎる。
 本来なら水深60センチ程度であるはずの水濠が、今は長身である西が腰まで水浸しになるほどの深さになっている。左側はゆうに水深1メートル以上、右側の浅瀬でも90センチ前後はあるようだった。
 数日前にコースを下見した時はこんな状態ではなかった。一体、何が起こったのか――?
 泥沼と化した水濠の中で起き上がろうとして、ぬかるみに足を取られる。またも頭から泥水を浴びて、西はようやく事態を理解した。

(――雨かっ)

 それしか考えられない。昨日の大雨で周りの森から雨水が流れ込み、水濠が増水したのだ。
 油断していた。雨でコースの状態が悪化しているのは分かっていたのだから、当然このような事態も予想しておくべきだった。
 悪魔の大口のような泥沼に、なすすべなく飲み込まれてしまった。
 これは西の招いた失態だ。
 
 今さら後悔してる暇などない。汗と泥水で涙にかすむ目を凝らすと、浅瀬にアスコツト号の後ろ姿が見えた。
 西は水をかき分け、愛馬のそばへ近寄ろうともがく。
 粘りつく泥に足を取られ、何度も転びかける。泥水が鼻や口に入り、その度に激しくむせた。
 もはや西は上から下まで濡れネズミだ。糊の利いた軍服も特注の乗馬靴も、全て泥だらけになっている。このように無様な姿を衆目に晒すとは、誇りある帝国騎兵にとってこれ以上の恥はない。
 それでも西は、必死になって愛馬のもとへたどり着く。

 アスコツト号は酷く興奮していた。
 金色の馬体は泥まみれになり、美しい毛並みは見る影もないほど汚れてしまっている。
 幸い怪我はないようだが、怯えるように耳を伏せる姿は普段のこの馬からあまりにもかけ離れていた。
 西が手綱を引いても、嫌がるように首を振る。騎手の落馬に動揺したアスコツト号は、すっかり我を忘れてしまっているようだった。

「アスコツト」怯える愛馬を労わるように、西は呼びかける。

「もう大丈夫だ。俺はここにいる……ここにいるぞ」
 
 西が頭を撫でると、アスコツト号は始めてこちらの存在に気がついたように瞳を覗き込んできた。
 西もそれを真っ直ぐに見つめ返す。
 ふーふーと荒い呼吸を繰り返していたアスコツト号が、次第に落ち着きを取り戻してゆく。

「すまない、アスコツト。もうお前から落ちたりしない」

 いま一度手綱を引くと、アスコツト号は「ブルッ」と鳴いて応じる。
 落馬は大きな失敗だが、まだ失格になった訳ではない。
 再び西はアスコツト号の背に跨ると、競技を再開した。
 落馬にもめげずに走り出す人馬に、観衆から激励と拍手が送られる。

 しかし、西の胸中には激しい葛藤が渦巻いていた。
 今の失敗でどれくらい時間を費やしたのだろう。4分か、それとも5分か――実際には数分とかかっていないはずだが、その何倍も長く泥沼を彷徨っていたように感じた。
 時間も無駄にしたが、落馬はそれだけで大幅に減点される。もう上位との点数差を埋めることは不可能だ。この時点でメダルの望みは失われた。
 西の夢は、潰えた。
 では、なんのために走る――?

 目の前に五号障害が迫る。
 五号障害は、通称〝アレクサンダーの谷〟と呼ばれるコース最大の難所だ。幅2メートルの乾濠の下は深さが1.5メートルもある大きな溝になっており、もし飛越に失敗すれば、人馬ともに命に関わる大事故を起こしかねない。
 落馬による動揺を引きずったアスコツト号が、それを無事に飛び越えられるのかどうか……西には分からない。

(いっそ、潔く棄権するか……)

 時には引くことも勇気だ。
 手綱を握る西の手から、ふっと力が抜ける――

 その時――ぐんっ、と手綱が引っ張られた。

「……アスコツト?」

 アスコツト号は「ブルルッ」と唸りながら、がつんっと力一杯馬銜(ハミ)を取る。気を抜くとそのまま手綱を持っていかれそうな勢いだ。

「そうか……お前は、まだ闘志を失っていないんだな」

 馬にとって、生きるために必要な脚を痛める危険性がある障害を飛ぶことは、とてつもない勇気がいる。一度でも恐怖を抱いた馬は、たった数センチの高さですら飛べなくなってしまう。
 なのに――あれだけ酷い目に遭いながら、アスコツト号は怯えるどころか果敢に立ちはだかる障害へ向かって、自ら突進してゆく。
 
(そうだったな。まだ、競技は終っていないんだ)

 もう少しで西は、おのれの心に負けてしまうところだった。
 逃げずに立ち向かうことの大切さ。
 それをアスコツト号が思い出させてくされた。
 最後まで堂々と戦う――結果などは後から考えればいい。今この時は、ただ持てる力の限りを尽くして、目の前の障害に挑戦するのだ。

 迷いの消えた西とアスコツト号は、巨大な渓谷のごとき五号障害へ猛然と立ち向かう。
 一切の雑念を捨てた両者は、真っ直ぐに大地を踏み切る。
 それは馬の体勢、騎手の騎座、人馬の呼吸――全てが理想的な形で行われた、真に人馬一体といえる完璧な飛越だった。
 翼が生えたように天を駆ける人馬は、空に美しい弧を描いて、地を別つ溝を一拍の間のうちに飛び越える。
 綺麗に着地が決まった瞬間、見守る観衆たちから割れんばかりの拍手が起こった。

「――やったぞ、アスコツト!」

 西が褒めるように肩を叩くと、アスコツト号は嬉しそうに鼻を鳴らす。
 堂々と最大の関門を乗り越えた人馬に、もう怖れるものはなかった。
 残る三十の自然障害を全てこなし、第四区間を後にする。

 最後の第五区間は、なだらかな草原を走る6キロの平坦コースとなっている。もはや行く手を阻むものは何もない。
 西は思う存分鞭を振るい、アスコツト号は残る力を振り絞ってそれに応える。

 そして――スタートから1時間47分43秒。
 西とアスコツト号は規程時間より13分以上速いタイムで『Ziel(ツィール)』と書かれた旗の下を駆け抜け、全コースを完走した。

 掲示板に書き出された西の順位は11位だった。これで西は総合12位に浮上したことになる。
 前日の34位からすれば大きく躍進したともいえるが、もはやメダルに手が届かないことは明らかだった。

 1位は前日に続きドイツのシュトゥッベンドルフ大尉。彼と愛馬ヌルミ号は全ての障害を無失点で通過し、1時間44分58秒の驚異的なタイムで首位の座を不動のものとしている。
 2位はイギリス選手。3位と4位は共にデンマーク選手が滑り込み、ヨーロッパ勢の底力を見せつける結果となった。

 日本の人馬でコースを完走できたのは、西とアスコツト号のみだった。
 稲波中尉と松井大尉は四号障害の水濠で落馬し、その後の五号障害で怯えた馬が三回の飛越拒否を行ったために失格となっている。
 もしアスコツト号が飛越を拒んでいたら、日本は最終日を待たずに全滅という無惨な結果になっていただろう。
 あらためて愛馬の功を労いつつ、西の心は複雑だった。

 アスコツト号の成績は優秀といってよいものだ。
 特に第二区間ではドイツのヌルミ号を越える33点の高得点を上げている。日本産馬が世界に通用することを、見事に証明したと言ってよいだろう。
 それだけに、第四区間での落馬が致命的だった。
 落馬よる減点に加えあそこで無駄にした時間を考慮すれば、西は80点近く損をした計算になる。
 あの失敗さえなければ、銀か銅メダルなら射程圏内に収めることも不可能ではなかった。
 後悔がないと言えば嘘になる。だが、西はこの結果を受け入れた。

「……俺たちは全力を尽くした。その結果を恥じる必要がどこにある? お前もそう思うだろう、アスコツト」

 その言葉を理解したのかは分からないが、アスコツト号は「ブルッ」と鼻息を立てて西の手を甘咬みしてきた。
 このような愛咬(あいこう)は親愛の証とされる。苦楽を共にした愛馬と絆を確かめ合うことは、西にとってどんな賞賛や慰めよりも心地よかった。

     ***

「ドイツの選手が落馬したぞ」
「また四号障害の水濠だ。負傷したらしい……」

 選手の間に広がる噂を聞いて、西は冷や水を浴びたような感覚に襲われた。
 首位のシュトゥッベンドルフ大尉ともう一人の選手は無事に完走している。まだゴールしていないドイツ選手は、ヴァンゲンハイム中尉しかいない。
 
(……彼を止めるべきだったのか?)

 やはりこのコースは、あの青年には荷が重かったのだ。
 万が一、命に関わるような大怪我をしていたら――。
 不安にかられる西のもとへ、さらに信じられない報せが舞い込んだ。

「馬が来るぞ。どこの国の選手だ?」
「あれは……ドイツのヴァンゲンハイム中尉だ」
「落馬したのではなかったのか?」

「――まさか!?」

 大勢の関係者や野次馬に交じって、西もその光景をしかと目撃した。
 新たにゴール地点へやって来る人馬は、ヴァンゲンハイム中尉と彼の愛馬クアフュルスト号で間違いない。
 人馬ともにこれ以上ないほど泥だらけだ。騎手は肩を痛めているのだろう、左腕を庇うような不自然な姿勢で馬に跨っている。
 落馬で負傷したという話は本当らしかった。なのに、彼らは諦めずこうしてゴールまでたどり着いたのだ。

 観客たちが大声で声援を送る。なかには感銘を受けた大会役員や他国選手の声も交じっている。
 ヴァンゲンハイム中尉は額に玉のような汗を浮かべながらも、懸命に馬を操っていた。その意志に応えるように、クアフュルスト号は騎手を振り落とさないよう慎重な足運びで、一歩一歩確実にゴールへ近づいてくる。
 周囲が割れるような声援に包まれるなか、ヴァンゲンハイム中尉と愛馬は無事にゴールした。
 この場に集まった者たちが「ワッ」と歓声を上げ、一斉に感動のゴールを遂げた人馬へと群がる。

 負傷しても諦めずに競技を続けたヴァンゲンハイム中尉、彼を支えたクアフュルスト号――両者の健闘を称えるように、周りから惜しみない拍手が送られた。
 結果だけみれば、彼らは完走できた30組中27位と決して良い記録とはいえない。だが、彼らの成し遂げたことには記録以上の価値があると、この場の誰もが認めていた。
 まるで彼らが1位でゴールしたかのように鳴り止まない拍手が、何よりもそれを裏づけている。

 賞賛の嵐から解放され、救護所で医師の治療を受けるヴァンゲンハイム中尉に、西はそっと声をかけた。

「ヴァンゲンハイム中尉。よくぞ……よくぞ無事で……」

 安堵のあまり言葉を詰まらせる西に、ヴァンゲンハイム中尉はにっこりと微笑んだ。

「自分が完走できたのは、大尉殿のお陰です。逃げずに挑戦することが大切だ――この言葉を思い出して、最後まで走り切ることができました」
 
 この言葉を聞いて、西は今度こそ胸が一杯になる。
 西が燈した火によって、この若者は正々堂々と競技に挑み、そして最後まで立派にやり遂げたのだ。
 これぞ、まさにオリンピズムだ。
 結果よりも大切なことがあるのだと、彼は身を持って証明してくれた。

 二日目の野外耐久審査を完走できた人馬は、47組中30組だけだった。三分の一を超える人馬が棄権や失格によって脱落していた。
 これは四号障害の落馬転倒よって馬が心を折られ、その後の障害を飛越できずに失格する選手が相次いだためである。
 さらに競技中に五頭の馬が故障を発生し棄権している。そのうちの三頭は、治療の甲斐なく命を落とした。

 かくも過酷であった野外騎乗を、西とアスコツト号は乗り切ったのだ。
 それは誇れることに違いない。
 周囲から口々に賞賛されるヴァンゲンハイム中尉の姿を見て、西は本心からそう思うことができた。
 
 残るは最終日の障害飛越審査だ。
 ここまで来たら、最後まで全力で競技をやり遂げてみせる。

「一緒に最後まで正々堂々と戦おう、アスコツト」

 西の呟きに応えるように、アスコツト号は天高くいなないた。

     ***

 ――西が燈した火は、予想をはるかに超える巨大な炎となっていた。
 8月16日、総合馬術・最終日。
 ヴァンゲンハイム中尉は左鎖骨を骨折しているにも関らず、棄権することなく障害飛越審査に出場してきたのだ――。

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