硫黄島異聞‐なぜ彼は愛馬から落ちたのか。あるいはバロン西とウラヌス号、アスコツト号の話‐③
第二章「1936年 伯 林 ‐シャルンホルストの苦難‐」
西らが乗船したシャルンホルスト号は、ドイツの大手海運会社・ロイド汽船が所有する大型客船である。
馬術競技はその他の種目とは違い、人間の選手のみでは参加できない。パートナーたる乗り馬たちも一緒に欧州へ連れてゆく必要があった。
今大会で西は、それらを担当する『馬匹(ばひつ)運送係』兼馬術選手団の監督役に任命されている。
西は当初、日本郵船の所有する貨物船・秩父丸で参加馬を輸送することを考えていた。だが、速度が17ノットと遅い貨物船ではドイツ到着まで五十日近くもかかってしまう。
長旅が馬に及ぼす悪影響を考えれば、より短い旅程が望ましい。
そこで西が目をつけたのが、日本に寄港していたシャルンホルスト号である。
同船は最新のワーグナー式ボイラーと電気推進機関によって、最大速度21ノットを誇る快速船であった。これならば旅程を十日も短縮できる。
ロイド汽船社と陸軍を介して交渉に当たった西は、持ち前のコミュニケーション能力の高さを遺憾なく発揮し、乗船許可を取りつけた。
この際、船上に専用の馬小屋まで用意させてしまったのは、ひとえに西の人徳といえよう。
かくして1936年、3月下旬。
西らは八頭の参加馬を引き連れ、大観衆に見送られながら横浜港を出発した。
しかし、その航海は順風満帆とはいかなかった。
最初に問題が発生したのは、フィリピン近海を抜け東南アジアへ差し掛かる頃合いだった。
真夏のような南海の高温にあてられた馬たちから、冬毛が次々と抜け落ちてしまったのだ。
「なんだこれは。まるで毛をむしられた羊じゃないか」
本来、馬の毛は春から夏にかけて徐々に生え替わってゆくものである。
それが今は夏毛が生え揃わぬうち冬毛が抜けてしまい、各馬は斑模様の無惨な姿となっている。
西の胸中には不安が渦巻いていた。日本を発ってわずか十日余りでこれでは、先が思いやられる。
この不安は的中した。
東南アジアに入りマレー半島の先っぽ、シンガポールへと船が進路を向けるなか、連日の30℃を越える暑さに、馬たちがすっかり参ってしまったのだ。
夏バテとストレスで飼い食いも悪くなり、なかには四肢に立ち腫れ――運動不足による脚部の浮腫(むくみ)が出る馬も現れ始めた。
馬とは繊細な生き物である。わずかなストレスや環境の変化で熱発(ねっぱつ)や疝痛(せんつう=馬の腹痛)、下痢を頻繁に起こす。
早急に対策を講じねば、馬房内で暴れて大怪我を負う可能性や腸捻転(ちょうねんてん)――腹の中で小腸が絡まる、放置すると死に至る場合もある危険な病気を引き起こす怖れまであるのだ。万が一そのような事態を招けば、もはやオリンピックどころではない。
「よし、俺が船長と話をつけてくる。甲板の上で引き運動するのを許可してもらおう」
この船のドイツ人船長は話の分かる男である。西ら馬術選手団にも協力的で、船上では貴重な真水を馬房の散水に使わせてくれた。甲板で馬を歩かせる程度なら、二つ返事で請け負ってくれるに違いない。
しかし西の予想に反して、船長は意外な難色を示した。
「我々も協力したいのだがね。甲板を蹄鉄で歩いたら船に傷がついてしまうし、他の乗客を危険にさらすような真似は許可できんのだよ」
そう返されては、西としてもそれ以上無理な要求はできない。
船長の言い分はもっともである。
シャルンホルスト号は前年竣工したばかりの新造船なのだ。何かの拍子で馬が床や内装を蹴り壊したら、豪華客船としての品格は形無しである。
また時速何十キロもの速度で走る馬には、人ひとりくらい簡単に蹴り殺せるほどの力がある。乗客らの安全を考慮すれば、甲板といえども大型動物を好き勝手に歩かせる訳にはいかぬのであろう。
「何か方法を考えねば……」
真面目で頑固な気質のドイツ人を説得するには、理詰めに限る。彼らが納得できるような上手い方法を提案できればよいのだ。
あれこれと思索を巡らせる西は、まるで自身が馬車馬になったかのように甲板上をぐるぐると歩き回る。
馬小屋では部下らが午後の飼い葉付けを行っている最中であった。
馬の食事は一日に二回、午前と午後に与えられる。相変わらず食欲は少ないようで、どの馬も午前の飼い葉を半分近くも残していた。
食べ残しは回収し、餌付け係が新鮮な牧草がつまった新しい飼い葉桶に交換する。その隣では別の者が手押し車で干し草を運んでいた。馬房に敷く寝わらは毎日交換する。でないと、馬の汗と小便ですぐ汚水塗れになってしまう。
日々の作業を黙々とこなす部下たちを眺めるうちに、西のなかで妙案が閃いた。
「そうだ。寝わらで編んだ草鞋(わらじ)を馬に履かせればいいじゃないか……!」
西はかつて習志野の陸軍騎兵学校で年配の騎手から聞いた、とある逸話を思い出していた。
古来、日本では馬沓(うまぐつ)と呼ばれる馬用の草鞋が広く使われていたのだという。現在のような西洋式の蹄鉄が普及したのは、文明開花の訪れた明治以降になってからの話だ。
部下と一緒になって西はせっせと馬用の草鞋を編むと、さっそく馬たちに履かせる。
試しに馬小屋の周りを歩かせてみたが、床を傷つける様子はない。さらに草鞋が上手い具合に緩衝材の役割を果たして、甲板上を歩いてもコツコツといった足音が響かないことも判明した。
この結果に満足した西は、再び船長と交渉を試みた。
草鞋のことを現物を見せながら説明し、船長らの目の前で実際に馬を歩かせて確認してもらった上で、さらに次のことを約束したのだ。
「引き運動は他の乗客の迷惑にならないように、早朝と夕方の一日二回と時間を決めて行う。馬は必ず二人引きするようにして、暴れてもすぐ対処できるようにする。船長、どうか許可して頂きたい」
これでようやく船長も折れ、西の要求を聞き入れた。
「まさか草で馬用の履き物を作るとはな。東洋人は面白いことを考える。その調子で、オリンピックでも祖国の人間を驚かせてくれよ」
苦笑する船長をはじめシャルンホルスト号の船員らは、愛馬のために尽力する日本人の姿に強く心を打たれたらしい。それからというもの、馬術選手団は「ファイト」「ガンバレ」「フィール・グリュック(健闘を祈る)」と船員から声をかけられるようになった。
これに気を良くした西は、感謝の印として船長に草鞋をひとつ贈ることにした。西洋で馬の蹄鉄は魔除けのお守りとしても用いられる。いわばその日本版といった趣向である。
この草鞋を船長はいたく気に入り、船長室の扉に飾って船員や乗客にまで自慢していた。
これが本当にご利益があったのか、その後の航海は順調に進んだ。
インド洋からアラビア半島に針路を向ける頃には馬たちの体調も上向き、もりもりと飼い葉を食べるようになっていった。
この頃になると夏毛も生え揃い、各馬は本来の毛艶を取り戻していた。
紅海からスエズ運河に入ると、昼夜の寒暖差が激しい砂漠特有の気候に困らされた。
だが北国育ちが多い馬たちは暑さには弱いが、寒さには強い。西たちはあらかじめ用意していた馬服を着せることでこれをしのいだ。
そして船は地中海に入り、そこから欧州をぐるりと回ってドーバー海峡を通り抜け――日本を出発してから四十日間に渡る航海を終え、シャルンホルスト号は無事にブレーメン港へと到着したのである。
――西と愛馬らを運んだシャルンホルスト号はその後、数奇な運命をたどる。
ベルリンオリンピックから三年後の1939年9月。
ナチスドイツのポーランド進攻により第二次世界大戦が勃発し、欧州全土は戦火の炎に包まれる。
この時、極東航路へ就いていたシャルンホルスト号は本国への帰還が困難となり、日本の神戸港へと数年間も拘留された。
それから政府の交渉を経て、正式に日本へ譲渡された同船は『改造空母・神鷹(しんよう)』として生まれ変わることになる。
空母へ改修する際、事情を知らぬ海軍の技術者らはドイツ船に残された馬小屋や草鞋を見て、揃って首を傾げることになるのだが――これは西が知るよしもない話である。
***
「――馬たちの体調管理は上手くいったけど、自分の方は失敗してしまったよ」
自嘲気味に笑う西の姿に、メアリー夫人が遠慮がちに口を開く。
「体はもう大丈夫なの? 病み上がりで馬に乗って、何かあったら大変よ」
「問題ないさ。あと十日もあれば十分間に合う。必ず出場するよ」
気遣うメアリー夫人を逆に励ますように、西は強気に笑ってみせた。
西は一度やると決めたらテコでも動かない男なのだ。それを理解しているダグラスは、西の肩を叩いて告げる。
「君は波乱万丈の航海を乗り越えたんだ。この程度の障害、バロン・ニシにとって乗り越えるのは訳ないだろう?」
「その通りさ。障害は大きければ大きいほど、挑戦しがいがあるものだ。本番では心身ともに万全の状態で跳んでみせるよ」
ダグラス夫妻が帰ったあと、西は自らのこの言葉を反芻していた。
故郷で西の活躍を祈る妻と子供たち。
見送りに集まった大勢の日本人たち。
シャルンホルスト号の船員、ダグラス夫妻、日本選手団の仲間たち。
数多くの人々が、西の活躍を信じて疑わない。
ならば西は、その期待に応えねばならない。
決意を新たにした西の体調は、やがて快方に向かい、そして勝負の朝を迎える。
今大会において、西は二つの競技へ出場することになっていた。
新たな相棒であるアスコツト号と共に挑む、総合馬術競技。
前大会の覇者であるウラヌス号と共に挑む、障害飛越競技。
西はメダルの望みを、アスコツト号の総合馬術に懸けていた。